《うちの牧師は占いができるのです  その2》

 

  もう八年か九年も前のことになるでしょうか…  正確な記憶はありませんが…

  私たち夫婦が支援していますオハイオ・ヴァレー・カレッジを日本に紹介したいと

願った私は、私の収入から考えると大きな額を払って、ある日本のキリスト教の大手

新聞に同大学を推薦する広告を掲載させたことがありました。

 

(同校には私ども夫婦の長女もお世話になりましたし、十数名の日本人学生の留学の

お世話をしたこともあります。  私とかつてペパダイン大学院で共に学び、その後に

来日し南海ホークスと広島カープスで外野手として活躍したゲール・ホプキンズさん

が現在は同校の理事長を確か勤めています。  帰国後に医学を学び、博士号を取得し

てシカゴで開業し、その間に同校を積極的に支持しているのです)

 

  広告をごらんになったある母親が、娘を留学させたいのだが…と、千葉方面から

わざわざ特急アズサに乗って来岳されたことがあります。

  いろいろと話をしているうちに、その母親は首都圏内のある教会に出席されている

方であることがわかって来ました。

  そして彼女は誇らし気に『うちの牧師は占いができるんです。  占いはよく当たる

んです。  こちらの先生もうちの牧師に占って貰って、神癒して貰われたらどうです

か?』と語り始めたのを覚えています。  まじめな顔の彼女でした。  驚愕でした。

 

  このようなことがあったので義息と娘が立ち上げてくれている私のホーム・ページ

www.bible101.org/nomura に、この母親との会話を思い出しながら文章を書き、その

後しばらくして掲載したことを覚えています。 今でも掲載されていると思います。

 

  占いというのは世界中にあります。  北米で中華料理店に行きますと食事の最後

の部分で勘定書を店員が持参するときに、フォーチュン・クッキーとか言っていたと

記憶していますが、お菓子を持ってきます。  皮が堅いモナカのようなものですが、

中を割ってみると中からお世辞の占い文が出てくるようになっていたと思います。

 

  人々は自分の将来や運命に関心があるのです。  どこの国でも、人種でも、文化で

もそうです。  過去も現在も同じです。  旧約聖書にもそのような記録があります。

  将来のことを何とかして知りたい…  そしてできることならば自分の将来を自分の

今の力で支配してみたい…  自分のこれからの運命を自分の手で変えてみたい…

 

  そのような気持ちがいつの時代でも、どこの地に住んでいても、人々の心の奥底に

あるのです。  そこから占い師だとか、死者との会話をとりなす職業が生まれて来る

のです。  新宿の繁華街の端の薄暗い所にも蝋燭の行灯で占い師が待機しています。

  死者との交霊師(ネクロマンシー)がいます。  パソコンでおなじみのウイザード

とはもともと男性の占い師とか魔法使い、鬼才、賢者などを意味する言葉です。

アーグリーという単語もあります。  卜占官とも呼ばれている人で、日本では骨とか

竹筒や米などを用いて豊作を占う人のことです。  原始神道と結びついていることが

多いようです。  ソーサリーと呼ばれている人もあります。  魔術師と訳されていま

す。  大きな水晶玉を持っていたりします。  数え始めたらたくさん出てきます。

  韓国ではマダンと呼ばれていたと思います。  踊り狂って放心状態に陥り豫言した

り占ったりするようです。  日本では沖縄や青森県の恐山でも見られますし、四国の

山中には狐つきという、同じようなしきたりを守る人がいるようです。  恐山信仰と

いうのは死者との霊媒を名目に、豊漁・豊作を願う御利益宗教の典型的なものです。

 

  しかし聖書はこのことに就いて明確に反対の立場を採っています。

申命記18章9節~23節においても神がそのような占い者や卜者に頼るということには

明白に反対の立場を表明されています。

 

  出エジプトをしたイスラエルの民に対して神ははっきりとそのような易者や魔術師

や呪文を唱える者や口寄せや死者霊媒者などに頼ることを禁じておられます。

  15節には神は神ご自身の豫言者をイスラエルの民の中から選び出して、神が定めた

豫言者を用いると明言されています。

 

 サムエル前書28章7節前後を読んでみますと、サウル王は不信仰のゆえに神からの

答えを得られない状態に陥ってしまった時、先に自分で追放したはずの口寄せや占い師

の所に入って死者との霊媒を求めています。 かつての王が惨めな姿へと落ちぶれて

しまったことを学びます。 主なる神が最も忌み嫌われることを敢えてしたのです。

 

  イザヤ書8章19節~20節には、人間が人の手によって担ぎ揚げる巫女や魔術師には

「夜明けがない」と述べています。  上記申命記18章とイザヤ書8章との間には相当

な時間的経過がありますが、イスラエルの民の神への不信仰という点ではいつも同じ

ような問題があったようです。  目に見えない神とその言葉よりも目に見える人の業

や言葉を信じたいというのが私たち人間の共通した弱さなのでしょう。

 

  使徒行伝8章9節以下にはシモンという魔術師がいたことを述べています。

しかし、福音の言葉が述べられた時、シモンの妖術はその力を失いました。

  13章6節以下にはユダヤ人でパルイェスという偽豫言者が活躍していたと記されて

います。  また、魔術師でエルマという男が居たことも記されています。

バルナバとパウロの活躍でこれらの魔術使いはその力を失ってしまいました。

  1919節以下には魔術を行っていた者たちが魔術の本を持ち出して来て、群衆の前

で魔術書を焼き捨てたと記録されています。

 

  私たちは主イェスの恩寵によって救われた者です。  私たちは私たちの救い主なる

神が、私たちのすべてを充分にご存知であり、私たちには何も欠けたものがないこと

を信じて居る者たちです。  私たちの想像をはるかに超えてまで神は私たちのことを

ご存知であり、私たちに必要なものを心を砕いてお与え下さっていることを私たちは

確信しているのです。  それがイェスを救い主として信じることの内容だと思います。

  神の絶対的な恩寵、神の備え、神の御旨を私たちは確信し、その神に私たちの総て

をお委ねしているのです。  神が私たちに最善の備えを常にして下さっているという

ことを確信している者です。  そして聖書と言う最大の贈り物が与えられている

のです。  エクレシアという共に生きる仲間が与えられているのです。

 

  それですから私たちには占い師に頼るとか卜占師に頼るというような必要は全く

要らないのです。  それは不信仰の証明にもなっているのです。

 

  『うちの牧師は占いがよく当たるのです!  あなたも見て貰ったら?』とのたまう

た千葉のお母さんと、その女性が集う「自称キリスト教会」を主宰する人物も、そこ

に集う人々も、一体これはどうなっているんだろうか?と疑わざるを得ないのです。

 

  そのような自称・他称「牧師先生サマ」を「優れた霊的指導者」と呼んでいる信者

さんたちと、そのことを自慢して、得意がっている「牧師先生サマ」を神さまはどう

なさるおつもりなのでしょうかね?  皆さんはどのようにお考えですか?

 

  以上、今回も再び「余言者」の「余言」でした。