《涙を流して種を蒔くとは》

 

  先週号週報4頁下部で触れておきましたが、イェスの大宣託(マタイ28:19-20

に生命を懸けて全世界に散って行った無数の有名・無名の聖徒たちがいます。

  彼らの努力と犠牲と結果は天にある「いのちの書」に記入されていますが、地上の

教会史の頁から漏れているのがほとんどです。  それはそれで良いと思います。

 

  同様に、先週号でコリント前書1章21節の「宣教の愚かさを通してでもイェスを

主と信じる人々の救いの業を神はなさっている」と書いておきましたが、16節~28

を読んでみますと、私たちの知識や想像を超えたところで、また私たちの知識や想像

を遥かに超えた何千万人、何億人もの無数の無名の伝道者たちがその命を福音のため

に捧げた筈だと私は信じています。  「いのちの書」に詳しく記録されている筈だと

信じ、やがてそれを神さまから見せて頂ける日が来ると信じて楽しみにしています。

 

  先々週でしたか、皆さんがたの母教会は今後どれほど長く生き残っていることで

しょうかと集会席上でお尋ねしました。  『少なくともあと50年は大丈夫でしょう』

との返事もありました。  しかし、今朝の公同礼拝開始直前に『先週はあんな大胆な

ことを言いましたが、来春から説教者がいなくなるので、どうなるかわからなくなり

ました』と、新たなる祈りの課題を教えて下さった方がありました。

 

  教会史の学徒として考えてみますと、「一粒の麦」となった聖徒たちと、彼らの

エクレシアの数は想像を遥かに超えたほど多いと思います。  この世での果たすべき

責務を果たして天に移って行った集会の数を推測することなど到底不可能です。

しかし主がその総てを知り給うということが大きな希望と慰めと感謝です。

 

  『イェスの福音を説くのはラジオのアナウンサーのようなもの』と剣達鬼ケンタッキー

の聖書学校で無名のマレンズという教授が教えて下さったことがあります。

  放送を聴いている人がいるかどうかは問題でなく、聴いている人々がいると信じて

マイクに語り続ける事がアナウンサーにとっては大切な事なのだ‥とマレンズ教授。

  それと同じように『イェスの福音は語り続けなければならないのだ』と教えられま

した。  『あとのことは神さまに任せ、聖霊に任せるしかないのだ』と。

 

  MKとかPKという単語があります。  missionary's kids とか preacher's kids

略語です。  宣教師の子女・説教者の子女という意味です。  子供らの意志や選びや

好みに関係なく、宣教師や説教者の子供たちの多くは、親を選ぶことが出来なかった

のと同じように自分が生まれ育った家庭環境を選べなかったという深刻な状況があり

ます。  両親が自分たちには関わりを持ってくれることが少なく、いつも他人さまの

ため教会のために尽くしているのです。  運動会にも学芸会にも学園祭にも来てくれ

ません。  ほとんどの場合、社会的・経済的に貧困生活を強いられ、「牧師の子だ」

として見られて辛いのです。  MKPKに思わぬ問題が襲ってくることが多いのです。

 

  そして、多くの場合、伝道者(宣教師や説教者)の人生は厳しいのです。

今回のS姉の母教会も、そのような献身した説教者の老衰と帰天という節目を迎え、

自主・自立・自伝・自養・自教・自治という面で「総て牧師さん任せ」という状態が

あったということで、教会の存在そのものが成り立たなくなって来ているようです。

  しかし、それが主の御計画・御旨の内にあるのであれば、それはそれで善としてよ

いのではありませんか?  一粒の麦(ヨハネ伝1224節)が「善かつ忠なるしもべ」

として(マタイ伝2521節)の責務を充分に果たしたのであれば、感謝して神さまの

時、神様の時間、神さまの御旨に委ねるのがよいのではないかと思うのです。

 

  この地に在るものが永遠に永らえ得るなどということは在り得ないのです。

伝道の書12章6節~8節はそのことを淡々と語っています。  神さまの時を感謝して

待ち望み、神さまの恩寵に委ねるという謙虚さを学びたいものです。

 

  一粒の麦が死ぬことによって多くの実が生じてくるのです。  教会史の2千年、

どれだけ多くの聖徒、無名の麦粒が地に落ちて命を次の世代に継承したのかわかりま

せんが、私たちが今この瞬間にイェスを救い主として信じているという事実の裏には

これらの無数の一粒の麦が2千年間死に続けてきてくれたからだと信じています。

 

  主の聖晩餐の席で「主の死」と「その来たり給う時」に及ぶと聖書は告げます。

主の食卓は、必ずしも過去の十字架上での贖罪の業だけを追憶し語るためのものでは

あり得ません。  未来に向かって私たちの心の目を整える為のものでもあります。

  「神さまの明日」に希望を抱き、涙を持って種を撒いた者たちが、やがては歓喜の

声を揚げて主の前に各々の撒いた種の収穫を神さまに報告し、お褒めの言葉を親しく

頂くのです。

 

  朽つべき者が朽ちざる御言葉を伝達させて頂けるだけでも感謝ですのに、やがて

主の御前で、主ご自身から『善かつ忠なるしもべ』とお褒めの言葉を頂くのです。

  福音伝達の器として、「土の器」である私たち、日々迫り来る再臨を前に、改めて

希望を抱いて共に手を携えて恩寵の内に歩んで行きたいと願います。