《捜しだし、見出した時の大きな喜び》
★ 最近はものを忘れることが多くなりました。 眼鏡がないと大騒ぎをすることが
あります。 鼻が低過ぎて眼鏡が乗っかっているのが見えず、探し廻るのです。
運転免許証が入っている財布を何処かに置き忘れて慌てることもたまにあります。
人の名前を思い出すことができないで困ることはしばしばあります。
それよりも聖書や教会史の勉強をしているときに、大切な資料源を何処かに仕舞い
込んでしまって何処だか思い出せなかったり、捜しているうちに何を捜しているのか
を思い出せなくなってしまうこともあるのです。 見つけ出せたときには、自分でも
照れ笑いしながら、良かったと思いますし嬉しいものなのです。
★ 聖書は「見つけ出す」ということを大切な題目の一つとしているようです。
調べてみましたら40箇所ほど言及があります。
少し主題から離れますが、マタイ伝7章7節~14節にかけても「見いだすこと」の
喜びや大切さがイェスによって語られています。
すなわち、『求めよ、さらば与えられん。 門を叩け、さらば開かれん。
捜す者は見出し、門をたたく者は開かれん』と続き、さらに、『狭き門から入れ。
命に到る門は狭く、これを見出す者は少なし』と締めくくっています。
★ さて「見つけ出す」ということに関して主イェスが語られたことをルカ伝15章は
三つの譬話として記録しています。
1. まず百匹の羊の内で迷子になった一匹の羊を捜し出す有名な譬話です。
余談ですが、これは世界中の教会で、特に伝道集会とか信仰復興・リヴァイヴァル
集会と称する集まりで、しばしば用いられている主題です。
聖歌 429番「九十九匹の羊」の主題にもなっています。
ほとんど70年近く前に、今はなき京都西陣の聚楽教会の日曜学校(橋本千二牧師)
で『迷子の羊が家を離れ、ある日遠くへ遊びに行き』という歌詞で学び、元気な声を
張りあげて歌ったことを今でも覚えています。
現在では『小さい羊が家を離れ…』と、堀内敬三訳詞で、日曜学校用の子供讚美歌
に納められていると、品川バプテスト教会牧師ご夫人、日隈愛子さんのご協力を得て
確認できました。 この週報の最後に楽譜と歌詞をつけておきます。
迷子になった羊を、日曜学校で習った物語によりますと谷底まで転落してしまった
仔羊を飼い主なるイェスが捜し出し、肩に背負って自宅まで連れて帰り、家族や友人
や近所の人々を大勢招待して喜んだと、ルカ伝15章6節は「捜し出した時の喜び」
「見つけ出した時の感激」を晴れ晴れと語っています。
2. さらに、十枚の銀貨を持った女性がその一枚を紛失した譬が続きます。
『なくしたと思っていた銀貨が見つかった! 私と一緒に喜んでちょうだいな!』と
女友達や近所の人々を招いて「発見した喜び」を語っています。
3. そしてさらに、かの有名な、いわゆる「放蕩息子の譬」へと続きます。
20節には新しく生まれ変わった息子の帰宅をひそかに待ち続けていた父親の姿が見事
に描かれていますし、22節~24節には父親の喜びが極めて大きなものであったことを
生き生きと描いています。 父親にとってなくしてしまったと思っていた放蕩息子を
「見つけ出した時の喜び」がどんなにか大きかったのかをうかがい知れるのです。
★ 三つの譬に共通していることは、失った貴重なものを再び見つけ出した時の喜び
主が友人・知人を招いて晩餐の席を設けてその喜びをわかちあったという点です。
『我と共に喜べ! 失せたる我が羊を見出せり!』 ルカ伝15章6節
『我と共に喜べ! 我が失ひたる銀貨を見出したり!』 同9節
『このわが子、死にて複マタ生き、失せて複マタ得られたり!此の汝の兄弟は死にて復マタ
生き、失せて複マタ得られたれば、我らの楽しみ喜ぶは当然なり』 同24節、32節
★ もちろんこれらの譬によってイェスは、神から離れてしまって、神なしで生きて
いた人が再び神のもとに戻って来る時の、神ご自身の喜びを表しているのでしょう。
そのことが神さまの私たちに対する自然なお気持ちだと思います。
そのために私たちはイェスの十字架上での贖罪の死を信仰の目で確かに見たのです。
★ そして私たち人間というものは、絶えることなく幸せを求め続ける存在であると
いうことと、その求めかたにはいろいろな方法があり得るということですが、私たち
が一生懸命に幸福を追い求め続けても、必ずしもすべての人がその夢を達成できると
は限らないということを、私たちは充分によく知っているはずです。
それは私たち個人個人が、「何処で」「何を」「どう」「捜すのか」ということと
関係していると思います。 間違った所を捜しても見つけることはできません。
私たちは「見出すことの喜び」「捜し出すことの喜び」を、別の言葉で言うなら、
「捜し出して頂く喜び」「見出して頂く喜び」をイェスの十字架に捜し出す以外に、
この世にあるすべてのものをたとえ手に入れることができたと仮定しても、私たちの
心を満たしてくれるものなど、この世にあり得ないと信じているのですが…
★ 聖書は私たちが神を知らないでいた時、神のほうではすでに私たちのために罪の
ない御子イェスを、あたかも罪がある人のように十字架に架けて死なせ、そのことを
通して神は私たちのための無条件の愛を示して下さっていた…と教えています。
(ロマ書5章8節とコリント後書5章21節)
★ 人生の中で知らなければならないこととは、知っていなければならないこととは
実はそんなに多くはないと聖書はルカ伝10章42節で淡々と語っています。
それは、神が私たちを愛して下さっているということです。 それを神はイェスと
いうおかたの十字架の死によって表して下さったということです。
神が私たちを捜し出して下さっていたという喜びを知ることだと思いますが…