デサイプルス宣教百年記念に際して

                     八幡山基督之教会   伝道者 野村基之

                            19831017日於青山

 

  ヨーロッパの歴史やヨーロッパにあった教会の歴史を素人の私が一言で纒めるなど

到底不可能なことを重々承知の上で、それでも敢えてこれに挑戦し、ここになるべく

簡単に私達の先輩達が歩んで来た巡礼者の道を御一緒に考えてみましょう。

 

  18世紀のヨーロッパは社会的、経済的、政治的、そして宗教的に混乱が続き、落着

きませんでした。  これらの要因が複雑に絡まって抑圧された人々が生じ、それらの

人々の目は自然に新大陸アメリカに向けられました。  メイ・フラワー号などは有名

な話しです。

 

  苦労して新大陸に渡った人達をそこでも待ち伏せしていたものは英国教会の苛酷な

宗教的・政治的・社会的・経済的な弾圧でした。  それでも、粘り強い抵抗や多くの

犠牲と労苦の結果それらから開放された人々の間には、ヨーロッパ各地から持込んだ

基督教各派間のさまざまな教義や教理の対立がまだ根強く残っていたのです。

極端なカルヴィン主義神学やアルミニウス主義神学は開拓者達を混乱させました。

 

  英仏抗争の煽りでフレンチ・インデアン戦争が新大陸に勃発し、次いで独立戦争が

新大陸で起りました。  アメリカ独立後にも英国が陰謀を企み、1812年戦争も起って

新大陸の道徳は乱れに乱れ、その一方で開拓者の自由に対する願望は強まる一方でし

た。  知的階級の間には英国の理神論やフランスの無神論が入り込んで来て霊的不振

が続きました。  当然のことながら人々の宗教的関心は衰退の一方です。

 

  こう言う低空飛行の中から宗教的覚醒運動が次第に自然に湧き上りましたが、極端

なカルヴィン主義が混乱を生み、混乱は更に混乱と分裂を生み、分裂はますます対立

と憎しみを増幅したのです。

 

  以上のような経過から人々は次第に幾つかの大切なことを学び始めました。

即ち、ルーテル達の唱えた(1) 聖書は神の御言葉として、それだけで充分である、

(2)個人の判断・決断の自由と権利と責任、(3)万人が祭司であること、これら

に加えて(4)各教派の信条や伝統は分派と教派主義の苗床であり、主の教会を益々

分裂させるだけあり、教派の対立と混乱は主イェス・キリストのみからだである教会

とその信者の一致を脅かす罪であり、(5)聖書だけが人に与えられた唯一絶対的な

基準であるのだから聖書に戻る事でクリスチャンは一致すべきである。  (6)教会

の分裂は罪である。  聖書が語る事だけを語り、聖書が語っていないところでは我々

も黙するのがよい。  聖書が語っていないのに人間が自分達の都合で築きあげた伝統

や聖書が教えないものを恰かも聖書が教えているように次々と追加してみたり、自分

達の都合で聖書の明白な教えを無視したり軽視したりするから問題が起るのだ。

(7)教派的な名前や人間の名前を主のみからだである教会に付けるのはよそう。

教会、エクレシアは、主イェスが己の貴い血潮を流されて贖われたもの、主ご自身の

ものであるからだ。  (8)それだから、人が作った伝統も信条も教義もこの際一切

放棄して、神の御言葉である聖書、とりわけ新約聖書に示された原始初代教会の単純

な礼拝・秩序・組織に戻ろうではないか。  (9)そのためには、根本的なところで

は一致(unity)を、意見では自由 (liberty)を、そしてその他のすべての事柄に於い

ては愛 (charity)を持って臨もうとう…と、このようにして、英語の(〜ty)の語呂

合せのスローガンも有名になりました。

 

  勿論、どちらが根本的問題で、どちらが意見に属するものか、そして誰がそれをど

う決めるのかとなりますと、これが後にはまた紛争の種になるのです。  然し当時と

しては画期的な訴えでした。  人間が作りあげた教派に属さず、イェス・キリストの

弟子(デサイプルス)だけになろう。  バプテスト教会員でもなく、ルーテル教会員

でもなく、ただのクリスチャンだけになって、主イェス・キリストのみからだである

教会の一致を求めよう…と、ルーテルやカルヴァンやズゥイングリーなど宗教革命家

が未完成で終えた主張を当時の混沌としていた基督教界に訴えたのです。

 

  誰が言い出した訳でもなく、新世界各地(当時の英国系植民地は大西洋海岸とそれ

に添って走るアパラチア山脈以東またはその周辺に限定されていた地域)でこのよう

な考えをする人物や群れが自然に、同時に、多発し始めたのです。  メソジスト派の

人物でオッケイリーと言う人もあればバプテスト派の人もありました。  長老教会で

はケンタッキーの荒削りの開拓者たちの中で働いていた B.W. ストーンと言う牧師、

更に、ペンシルヴァニア州とヴァージニア州とオハイオ州の接点地域の長老教会員や

バプテスト教会員の間で働いていたキャンベル親子なども有名です。  これらの人々

は同じ長老教会でも少しでも意見が異なったりするとお互いに激しく攻撃しあうよう

な厳しい環境の中で、真剣に教会、即ちキリストの体の一致を求めた人々でした。

 

  オッケイリー牧師の努力で1794年頃には北キャロライナ州で、1796年頃には同じ北

キャロライナ州でストーンが、1804年頃には同じストーンがケンタッキーで、1807

ころにはキャンベル親子が前述の三州接点とオハイオ州東部で聖書復帰・一致運動の

活動を促進したのです。  今回ここでは詳しく述べませんがニューイングランドでは

エライアス・スミスやアブナー・ジョーンズが同じような訴えをしていました。

 

  やがてこれらの指導者達はお互いの噂を聞き、同志であることに驚き、神に感謝し

て合流して行くのです。  聖書を愛するクリスチャンとしての良き品格を備えている

事だけが合流の条件でした。  書類に署名するとか、財産をどうするとか、誰がどん

な役につくとか、そんなことは話題にもならず、イェス・キリストに在る一致と自由

そして自由な交わりを神に感謝したのです。  自由と独立の精神こそアメリカ建国、

新世界建設の夢と自信に溢れる開拓者達を支える合言葉でしたから、何ものにも支配

されることなく、自らの責任で新約聖書にのみ忠実であり、既存の宗教界の組織や規

則や信条に支配されない、しかも開拓者に解り易い言葉での聖書一本槍の訴えは彼ら

にぴったりの教会一致運動であったのです。  開拓者精神とも表裏の関係でした。

 

  1830年頃にはオッケイリーのグループ、ストーンのグループ、そしてキャンベルの

グループが合流して我々の運動の基礎が形成されたのです。

  一般には最初、19世紀宗教改革とthe 19th Century Reformation Movement 呼ばれ

ていましたが、のちには聖書復帰・一致運動とか、新約聖書教会復元運動、あるいは

the Stone-Campbell Restoration Movement と呼ばれるようになってゆきました。

  以上が我々の群の歴史的遺産の簡単な概略です。

 

  キリストの教会(クリスチャン・チャーチズあるいはチャーチズ・オヴ・クライス

ト)、或ははキリストの弟子達(デサイプルズ・オヴ・クライスト)と呼ばれている

誇り高き独特無類の基督教群で、今日でも新約聖書に戻ることで、今なお教派に分裂

している基督教界の一致を願っている運動体です。

 

  然し、私達が人間である以上、聖書解釈にはいろいろな見方が出て来ます。

教会どうしが協力して宣教活動をする必要も出てきます。  それを各教会単位の責任

でやるのが良いのか、それとも諸教会が力を合せ協力して、各教会を超えた、教会を

支配し、命令することの出来るような権限を持つ組織を諸教会の上に作り、その組織

を通じてやるのが良いのか…などの問題が、建国と西部開拓、農業立国と工業立国を

同時にやって行こうとしていた若いアメリカでは大問題となりました。

 

  これらのことは特に南北戦争に勝利した近代化、工業化を進める北側とその教会に

は直接に関係して来る問題でした。  その為にはどうしても組織が必要になります。

  戦争に勝った北では教育も盛んになりますし、世界に視野が広がって行きます。

いわゆるリベラルな神学も受け容れ易い態勢にありました。

 

  それに比較して南部はプランテーション農業国で、テンポも遅いし保守的です。

敬虔な人々です。  当時の西部とて同じ気風です。  北と違い、各州の自主性を尊重

し、連邦政府の介入を極力拒否して来た一匹狼的な開拓者たちの国です。  独立精神

や開拓精神に溢れている人々です。  従って、各教会は単立であり、それを超越する

ような組織を新約聖書は認めていないと強く主張しました。

 

  当時の欧米教会は全世界に宣教師を派遣する風潮が盛んでしたし、西海岸への人口

移動も盛んでした。  経済的により豊かになった北の教会は、大陸横断鉄道の敷設と

土地をただで貰えるという連邦政府の政策や、カリフォルニアの金鉱発見などが引き

金となり、人口の西漸移動が促進され、それに伴う西部伝道が必要となり、そのため

にも、あるいは急速に発達した都市への伝道をするにも、海外伝道にも組織化、具体

的には宣教師協会(ミッショナリー・ソサイェティー)の設立が必要となったと、北

の教会は主張したのです。ミッシヨン・ボードと呼ぶ事もあります。  明治の頃には

日本では「伝道会社」と訳していました。

 

  1830年頃から社会的問題、たとえば奴隷問題、禁酒問題、婦人の地位向上問題など

に対する考えも保守的で個人主義的な農業国の南部と、戦勝側の工業立国、連邦政府

中心主義の北部ではこれらへの違いがはっきりして来ました。  一般論ですが、北の

教会は南の同じ兄弟姉妹教会よりも遥かにものの考え方に於いて進歩的でした。

  1860年代に到り、南北戦争を招くことになる建前上での奴隷問題も、1830年頃から

既に燻り始め、そして次第に南北の教会を割って行ったのです。  戦争直前の南北間

の憎悪と不信の念は、そこに根を下ろしている教会をも襲撃します。  お互に対して

武器を取ることを教会員でさえ堂々と主張しました。  勿論、そのことに心を痛めた

人々も大勢いたことも事実です。

 

  豊かな北部教会から、それ迄の開拓民の住んでいた当時の西部僻地の礼拝や礼拝堂

に存在していなかった楽器、オルガンやピアノが礼拝堂に導入され始めます。  西部

劇でおなじみの酒場やみだらな女のいる場所にあるのと同じものが聖なる礼拝に導入

追加されると言うので大騒動になりました。  北は裕福ですが、戦争に敗れて徹底的

に破壊された南部にはとてつもない程高価な楽器の導入などとんでもないことです。

  そのためには豪華な絨毯を敷いた、また豪勢なステンド・ガラスが入った、立派な

教会堂が必要になって来ますし、オルガニストも必要になります。

  それらは、その日のパンにも事欠く、敗北した傷痍軍人や戦争未亡人や孤児たちで

満ち溢れる南から見れば、どちらから見ても悪魔の小道具だったのです。  現在でも

南部の田舎の教会では、当時と同じ教会堂を使用している教会が沢山あります。

  そう言う教会を訪れますと、なるほど今から百年〜百五十年前に楽器を導入すると

いう事にどれ程の抵抗があったのか想像がつきます。  アレキサンダー・キャンベル

でさえ礼拝時の楽器の存在はコンサート時に牛の首につけるカウ・ベルみたいに邪魔

ものだと最初は発言していたのです。  後年の彼の意見は変わりましたけれど…。

 

  尤も、南の教会の人にとって楽器導入は単なる文明や文化の発達に対する順応性の

問題ではなく、新約聖書の中に、とりわけ使徒行伝の中に楽器に関する記録が一切な

いと主張したのです。  一方、北の教会では、聖書の中で神が明白に禁止しておられ

ない事柄に関しては、我々の自由な判断にまかされていると解釈したのです。

  初代教会の礼拝形式そのもの自体はっきりとしていないのだから、聖書が沈黙して

語っていない事柄に関しては我々の自由な解釈に委ねられているとしたのです。

  それに対して保守派は、聖書が黙しているところは我々も黙するのが良く、それは

禁止と解釈すべきだと主張したのです。  明白な教えからの離脱であり堕落であると

したのです。  正に南北の憲法の灰色部分の解釈に関する論争と全く同じなのです。

 

  また、この頃から盛んになった日曜学校も新約聖書に記録されていないと言うこと

で教会は割れました。  主のパン裂き、即ち、聖餐の葡萄液用のコップは一つを廻し

飲みすべきだ、いや、結核患者も多いのだし、ガラスのコップも大量生産で安くなっ

たのだから別個にめいめい用のを使用しても良い。  いや、酒杯はひとつであるべき

だが結核患者がこうも多いのだから大きな器から各自がスプーンで飲むのが良い・・

と大変でした。  現在でも日曜学校とコップ論争は南部や西部で続いているのです。

  禁酒令発令後や結核の蔓延後は葡萄酒なのか葡萄ジュースなのかでも諸教会が論争

を繰り広げました。  一つの酒杯(チャリス)を使用する教会では消毒の意味もあっ

てか今でも葡萄酒を使用しているところが多いようです。  聖餐に与る者たちが前に

出てきてパンを千切り、葡萄酒に浸して与るところもあるようです。

 

  南北戦争後のおびただしい戦争未亡人や孤児達の救済問題も教会を割る大論争点に

なりました。  新約聖書に孤児院に対して教会が援助をしたとの記録がないと言うの

です。  専任説教者、今日ふうに言う専任牧師の設置や讃美歌指導者やオルガニスト

に対する謝礼も問題になりました。  そして教会が割れ涙する人が生れたのです。

 

  前述の如く宣教師協会、即ち明治の先輩達が伝道会社と訳していたミッシヨナリー

・ソサイエティーを北の教会が設立して西部開拓者や海外宣教を積極的にやろうとし

た時に、南の教会はそれは新約聖書の内に承認されていない人為的な組織を新約聖書

教会に導入するものであるとして猛烈に反対し、結果的にそれが運動をまず二分して

しまったのです。  そしてその根拠は、神は新約聖書の内に複数の長老と執事を中心

とした教会、それぞれが独立した完全な姿としての単立教会をお与えになったはずで

ある、と主張したのです。

  その各個教会、英語でローカル・チャーチと言いますが、それを越えたそれ以上の

組織を聖書は認めていない。  長老たちによって治められるローカル・チャーチとは

そのままで神様が与えられた完全なものであるからそれを越えて支配する宣教師協会

を認める訳にいかないとしたのです。

  そしてこの事は、大阪聖書学院を中心とする有楽器派である中央派のクリスチャン

・チャーチズと、無楽器教群のチャーチズ・オヴ・クライスト派の殆どにとっては、

譲れない原則の一つとして堅く守られている事実です。

 

  若しこの教会理解と原則を宣教師協会に対するのと同様に厳格に守り主張するのな

ら、教会内の聖歌隊、婦人会、青年会なども問題になります。  ローカル・チャーチ

はそれ自体で一つの完全な単位であるとするのですから、それ以上の組織も、また、

それ以下の組織も認める訳にはいかなくなるのです。

  かつて代々木八幡教会を設立したガガーナスという宣教師は、同教会内で婦人達が

婦人会という集まりを作りたいと考えた時、そのような理由で認めませんでした。

婦人達だけのレディーズ・バイブル・クラス、訳せば普通は聖書研究会で、それなら

良いと彼は応えました。  おかしな論理だと思いました。  そうなりますと日曜学校

も、青年会も、壮年会も、役員会も同じ理論からゆくと駄目と言うことになります。

  この論理を更に文字通り守れば、神学校を維持する為に献金を送ったり、伝道者・

牧師らを支える為の後援会を組織するのも反聖書的・非聖書的という事になります。

 

  楽器とバプテスマのことになると特にうるさく言う今日の日本の無楽器派の教会は

この点で確かに自己矛盾があるようです。  牧師中心の教会なども認められなくなり

ます。  初期宣教師マッケーレブは、自分達を日本に引率してくれた先輩のアズビル

が北の或る教会の青年の有志で組織していた、今日ふうに言うサークル程度のもので

すが、ミッシヨン・クラブから献金を受取ったとして、アズビルを反聖書的であると

非難して、日本に連れて来て貰ってから先輩アズビルと決別しています。

 

  百年程前にはこのような原則論を堅く守ることが真面目に討論され、また実行され

ていたのです。  このような聖書理解・教会理解をしていた代表的な人物として、北

の教会にダニエル・サマーという人が出現しました。  1889年のことでした。

  ストーンやキャンベル親子が、お互いが同じ志である事を知って、合流を決意して

から僅か半世紀少しした時に、一致運動の中から深刻な内部分裂の危機を招くことに

なったのです。  聖書の語る事だけを厳密に守り、聖書に書かれていない事柄を飽く

までも拒否するという姿勢に徹して行った必然的な結果でした。

 

  今日でも中央派の一部や無楽器派の南部の教会の内ではこの原則を貫く人物や群れ

があります。  それらの人士に言はせれば、今日の有楽器派と無楽器派の主流派には

この原則論において矛盾があると指摘するのです。  そのような事を主張する人々を

主流派の人々は、彼らは律法主義者だと、そのように断罪して片付けているのです。

 

  キャンベルが設立したベサニー・カレッジを母校とする何人かの指導者達が各地に

同様のクリスチャン・カレッジを設立しましたが、これも同様な原則論から新約聖書

の中に教会がカレッジの経済的負担をしたと言う根拠はないとのことで反対する声が

上りました。  最近ではTV伝道を問題にしているところもあるそうです。  また、

礼拝堂内に最近になって、ようやく水呑器を設置した教会の話しを耳にしました。

便所はあったのですが水呑器は聖書的でないとのことで設置されなかったそうです。

 

  バプテスマ、即ち、いわゆる全身浸礼に関しても同じような痛ましい論争が続くの

です。  1800年代初期のアパラチア山脈各地では熱狂的なリヴァイヴァル運動が起り

ました。  とりわけケンタッキー州中南部のローガン郡では何週間も続いた信仰復帰

集会、即ち、リヴァイヴァル運動が起り、それは米国史の中でも有名な話です。

 

  非聖書的な信仰理解と聖霊理解とが混乱を招き、リヴァイヴァル・キャンプに参加

した人々は今日の日本では想像もつかない光景の内で、なんとか救いの確信を得よう

としていました。  使徒行伝2章以来の最大の聖霊降臨だとも言われています。

  今から二百年程前のこのような一種の乱痴気騒ぎを目撃したウオルター・スコット

は、聖霊を得ようと狂乱状態にあった求道者達に向い、新約聖書を静かに冷静に熟読

すればイエスがキリストであることを理解することが出来ると主張したのです。

  初代原始教会の信仰とは、イエスを罪からの贖い主として信じることと、罪を悔い

改めることと、バプテスマ、即ち全身浸礼に与って罪の許しを得ること、そして聖霊

の賜物を得て、この曲った世から救い出されることであると、五本の指を示して有名

な説教をしたのです。  殆どの教派が無視または軽視していた使徒行伝2章38節から

40節のペテロの説教、即ち、原始初代教会が誕生したばかりの時の最初のメッセージ

を掘り起しての冷静な説教でした。

  当時の基督教世界で上記のこの使徒行伝2章の初代原始教会の単純な入信の招き方

は全く無視されていたのです。  1700年ぶりに戻って来た説教だと言っても過言では

ありませんでした。  この事があって以来この五本指の招き方が聖書復帰・一致運動

教会の内に、他教派がこれらを軽視または無視するので、反動的に強調される傾向が

あります。

 

  そのことに加えてもう一つのことがあります。  即ち、1876年頃のアメリカは南北

戦争の後遺症からやっと立ち直ろうとしていました。  そして建国百年祭の気運も昂

まっていました。  建国百年を記念して有名な説教者 D.L. ムーディーが、これまた

有名な讃美歌指導者のブリスやサンキーと組んでリヴァイヴァル・クルセード運動を

全米に繰り拡ろげていました。  何万人もの人が集った集会では『ただ信ぜよ』のみ

がスローガンとして繰返し強調されたのです。  それ以降アメリカの福音派の教会で

はこのただ信ぜよのみが今日迄伝統的に主張され、また宣教師達によって全世界にま

たたく間にこの主張は拡散されて今日に及んでいるのです。  この傾向は後になって

ビリー・グラム伝道や、日本では大衆伝道者の本田弘慈などに受け継がれています。

 

  これに対して当然のことですが聖書復帰・一致運動教会から前述の使徒行伝2章を

軽視または無視するものであるとの反発が起りました。  たった今述べましたように

ビリー・グラムなどを中心とするクルセード型の伝道方法に対しても同じことが言え

ます。  そのようなメッセージの説き方では、本来は救いに到る過程のパッケージの

一部であるあるべきバプテスマが、その在るべき所で全然強調されていないと多くの

聖書復帰・一致運動教会は反論したのです。

  結果的に、そして反動的に、私達の群でバプテスマだけが切り離されて強調され過

ぎる傾向があるのも、1800年初期からの歴史的な基督教世界の背景があってのことで

す。  教会史の勉強はほんとうに面白いものだと思います。

 

  聖霊に関しても同じような歴史的背景があるのです。  その外にもいろいろな意見

や主張が聖書復帰・一致運動教会の内に存在しているのです。

  こんなことを数え始めると切りがありません。  前述の婦人参政権とか禁酒法問題

とかの社会問題なども尾を引きました。  これでは一致運動でなく分裂運動専門家で

す。  アメリカの保守的なキリスト教原理主義というよりも、アメリカン原理主義、

アメリカ人気質そのものと言った方がより正しいのかも知れません。

 

  日本にも太平洋戦争後これらの主張が宣教師によって本格的に導入されました。

勿論、戦時中に基督教会を弾圧する為に政府の命令で設立された日本基督教団に自ら

の意志で加入し、自らを喪失したリベラルな旧デサイプルス派の兄弟にとって、上記

紛争は想像もつかぬ愚かなことに違いありません。  余談になりますが、私が個人的

に興味を抱いている兄弟団、ブラザレンと言う英国で起った一種の聖書復帰運動など

も結果的には痛ましい分裂を繰り返し続けているようです。

 

  結局は私達の聖書復帰・一致運動のスローガンの内に、聖書に書かれてあるとうり

になろうと言う主旨と、相手がとにかくどの教派に属していても主イェス・キリスト

に在る兄弟の基督者であると認定した上で、基督者の一致を求めて行こうとする主張

と、私達の運動の中に相反する主旨を共に同時に抱え込んでいるところに問題がある

のです。  即ち、新約聖書教会復元運動を強調するのか、それとも基督者の一致運動

を強調するのかで常に問題が生じます。  バランスをどうするかです。

 

  とにかく、主として楽器問題と宣教師協会が折角の聖書復帰・一致運動を分裂させ

ました。  1906年の連邦政府の宗教調査に臨み、南の指導者の一人、 D. リプスコム

は南の教群を北の兄弟達と同じ教群、即ち、デサイプルス群(別名をクリスチャン・

チャーチズ)と同一群として扱ってくれるなと連邦政府に申し入れをしています。

  それ以降、南はデサイプルズと呼ぶことを止めて、もっぱらキリストの教会(チャ

ーチズ・オヴ・クライスト)と自らを呼ぶようになって行きました。

  それでも1920年代前後までは、教群の内でもクリスチャン・チャーチと言う名前や

チャーチ・オヴ・ゴッドなどを使用している教会もありましたが、今日ではまずあり

ません。  理由の一つは、チャーチ・オヴ・ゴッド派の教団が成立したからです。

  最近テネシー州のある無楽器派の教会がクリスチャン・チャーチと言う呼称を使用

したところ周囲の諸教会から異端視されてチャーチ・オヴ・クライストに変更せざる

を得なかったようです。  漫画的悲劇ですね。  こうなるともう立派に一つの教派で

す。  保守派、即ち、無楽器教群だけを観察してみますと、更に内部で些細なことで

三十から四十に分裂しています。

 

  その後、北部のデサイプルズ派の兄弟達が余りにもリベラルになり過ぎたと言うの

で、デサイプルズ内の保守派は、同じ教会のリベラル派と決別して、独立キリストの

教会(インデペンデント・クリスチャン・チャーチズとか、南の保守派の教会と同じ

ようにチャーチズ・オヴ・クライスト)と呼ぶようになりました。  有楽器派などと

呼ぶ人もあります。  とにかく、教会堂の前に立ててある看板の名前を見ただけでは

その教会が三派のどちらに属するものなのかを外から知るのは困難なようです。

 

  このような経過で、同じ聖書復帰・一致運動内に互いに違った考えと歴史の歩みを

する三っ揃いの兄弟が出現することになったのです。  中央派と保守派の間にはまだ

まだ基本的に主イェス・キリストに在る共通点の方が相違点より遥かに多いのです。

  このことは、特に日本の教会では、両者がもっと真面目に考えるべき点だと思いま

す。  分裂は決定的とも見えますが、運動体であることを踏まえて、これ以上の分裂

を願はずに現在でも一致の為の努力を続けている教会や人士も多いのです。

 

  今回、日本宣教百年記念礼拝の為に来日して下さったテキサス州のギャレット師や

是非来日して頂きたいと願い祈っているセント・ルイスのケッチャーサイド師などは

その為の努力に生涯を賭ていらっしゃる先輩です。

 

  私たちの共同の先駆者である、優れた伝道者 C.E. ガルスト宣教師が百年前に来朝

された頃には、我々の聖書復帰・一致運動がまさに分裂する直前期にありましたが、

それでも交わりは主イェス・キリストに在って今日から比較すると自由でした。

 

  『信仰は勝利』 Faith is the victory と刻まれたガルスト先生の墓前で百年祭の

感謝を献げ得られた私達三派が、今から次の二百年祭を目指して、現在の困難な時代

の中に在って、先駆者達が我々に伝えようとされ主イェス・キリストとその十字架、

そして新約聖書教会に対する信仰と愛と希望の炎をどのようにして継承して行こうと

しているのでしょうか。

 

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  上記原稿は19831017日に青山墓地傍に三派が集まり、リロイ・ギャレット博士

を招いてガルスト宣教百周年記念礼拝を共に捧げた時を記念して記されたもの。

                            2003年7月31  推敲

 

                                  野村基之

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