《聖書の民・本の民》

                              エルマー・プラウト

 

  『私たちは聖書の民なんです。  聖書が語ることを私たちは語り、聖書が黙してい

ることに関しては私たちも黙します』  この標語はどんなにか私の心の中で固定して

いることでしょう。  この標語や、同じような発想に基づく一連の謳い文句が、どれ

ほどまでに私の心の中でずっと今の今まで鳴り響き渡って来たことでしょうか。

  私は幼い時から、数多くの「信仰復帰(=リヴァイヴァル)・特別伝道集会」で、

これらのスローガンを何度も何度も聴きながら育って来たのです。

 

  そして、私はこれらの標語を自分のものにしようと一生懸命でした。  長年に亙っ

  ていろいろな説教の中に必ずこの主旨を織り込んで説いて来たのです。  そして

勿論のことですが、「ミッション・ワーク」(宣教活動)をするために私が最初に

日本に到着した時に、これらの標語や他の同じような標語も、私にとっては極めて

肝要な確信として私と一緒に日本に持ち込んで来のでした。

 

  私は、これらの標語の真理を疑ったことはありません。  (私は現在でもそれらの

標語が意図する理念、訴えようとしている理想を認識していますし尊重しています)

  それらの標語とその理念は、キリスト教の諸教会の間に現存する混乱や分裂を排除

するであろう鍵を提供するものであるとして、私の心の中に焼きついていました。

 

  『彼らが(私が第三人称を使っている事にご注目を!)なすべきこととは、彼らが

聖書を読んで、聖書が明白に語っていることを彼らが正確に実行すればそれで良いだ

けなのさ。  彼らが、「聖書が語ることを語れば」、総てのクリスチャンはたちまち

にして、そして、完全に一致するであろう』と、私は何らの躊躇なく今までは語って

いたのです。  そして、私たちを常に取り巻いている標語や上記のような憶測が変化

するなどと私は考えたこともありませんでした。

 

  『私たちはキリストの諸教会の一員であり、トーマス・キャンベルや、その息子の

アレキサンダー・キャンベルに関係するアメリカの復帰運動 Restoration Movement

の継承者たちなんだぞ!  私たちは私たちの両手に聖書を堅く握りしめている民なん

だぞ!  それだから、私たちは聖書を頭の中に叩き込んでいるし、私たちの両手には

聖書があるんだから、聖書のどの書でも、どの章でも、どの節でも正確にペラペラと

暗唱できるし引用もできるのさ!』と、まあこのような自尊心を私自身も抱いていた

のです。  『なんたって私たちは聖書の民なんだから!』です。

 

  まあ、そのような気持ちでいた時のことです。  それがいつだったのか、なぜだっ

たのか、どうしてそうだったのかについては正確な記憶は定かでないのですが、私は

「お目覚め」の時間に到着したのです。  私と同じアメリカから来ていたアメリカの

同労者たちと私とは聖書を私たちの両手にしっかりと持っていましたし、たくさんの

聖句をずいぶんと暗唱していましたし、何も見なくても頭の中からいとも簡単に引用

することもできましたが、私たち宣教師たちは一致していませんでした。  お互いに

一致できなかったのでした。

 

  日本に来ていた私たちアメリカ人宣教師たちの間には、信仰の捉え方の違いや各自

の性格の違いから、当然の事ですが分裂や分派や不和がありましたし混乱もあったの

です。  また実際に、私たちの間にあった分裂や不和は余りにも根深いものであった

ので、同じように同じスローガン、同じ標語をお互いに唱えてはいましたが、私たち

宣教師たちは表面上はお互いに仲間でも、他の宣教師たちと一緒に祈ることもしませ

んでしたし、できませんでしたし、主の聖餐に一緒に与ることもしなかったのです。

 

  それではその時、私は何をしたら良かったのでしょう?  何をすべきだったので

しょうか?  それまでの私が久しく掲げていた標語、すなわち、『標語どおりにやっ

てゆけばすべてがうまく行くんだ、保証付きだ』と私が考えて、そのように期待して

いた標語が、期待していた結果を全く生み出していないという現実に直面して、私は

当惑してしまったのです。  そして、それらの標語というものは、それでも私の心の

中で私にとっては大切なものだったのです。

 

  その時点に於いての私にとっては、聖書への忠実さというものと、聖書復帰運動の

掲げるスローガンを忠実に用いて実行するということは、一つであり同じことだった

のです。  私たちが伝統的に使って来ていたそれらの標語に対して疑いを抱くことは

とりもなおさず聖書を疑うことと同一だと私は信じ込んで来ていたのです。

 

  私には聖書とその権威を軽々しく取り扱うことはできなかったし、そのようなこと

をしようなどと考えたこともなかったのです。  しかし、徐々に、しかも痛みを伴う

経過ではありましたが、私なりの答が形成されて行きました。  『今あなたの聖書を

抱えているその両手は誰のものなんだい?』  『聖書について深く思いをめぐらした

り、聖書の御言葉を記憶したり、御言葉を適応してみたりする頭と心は誰のものなん

だい?』  『もちろん私のものですけれど…』  『そうですか。  それじゃその事実

が、お前が黙想したり聖書を宣べ伝えることの成果にどんな影響を与えるというんだ

ね?』  『お前さんは時として、あるいはしばしば、御言葉を自分の目的のために、

自分に調子よく適当に利用しているだけじゃないのかね?』

 

  このようなことを考えてみて私は呆然とさせられたのです。  肝を潰したのです。

しかしながら、私自身やキリストの諸教会がどのように聖書を学び聖書を適応するか

ということに関して、誰も疑ったことすらない憶測を弁明する必要から私は解放され

たのです。  それはとても長い苦しい道のりでしたけれども、私と私が所属する教会

は、聖書のすべての項目についてすべての真理を教えているのだなどという主張をし

なくても良いのだと、そのように感じるようにだんだんなっていったのです。

 

  ピリピ書3章12節~14節及びロマ書5章1節~2節に書かれてあるように、『私は

すでに受け取ったとか、すでに完成させられたとかではないのです。  しかし私は、

神さまの恩寵の中に立っているので私は前進し続けるのです』と、私は使徒パウロと

一緒になって、自由にそして喜んで告白できるのだと、そのように意識し始めたので

す。  私たちが常に口にする標語、唱えるスローガンのことですが、私たちがそれら

の標語を引用したり暗唱したりすることが、いつの間にか、それがまるで祈りながら

聖書を学ぶということと恰かも同じであるかのように錯覚してしまうという危険性を

はらんでいることなのです。  このことに気がつき始めたのです。

 

  これを別な言い方をしてみますと、私たちアメリカのキリストの教会に於いては、

『ノー・ブック・バット・ザ・バイブル』という標語を口にします。  その意味は、

『聖書以外に読むべき本などあり得るはずがないよ』ということですが、そのような

標語が生まれて来た背景、そのようなスローガンを口にするようになった理由という

のは、他の教派の学者たちが書いた聖書注釈書や参考書を使わせないようにするため

に生まれてきたのです。

 

  『そんな考えかたは頂けないね。  他の教派の説く意見や聖書解釈なんて参考にし

ちゃ駄目だよ。  俺たちには聖書っていう立派なものがあるんだろう。  だからさ、

聖書だけ使っていればそれで充分なんだよ』という発想です。  このようなわけです

から、もし誰かがそのような注釈書や参考書から引用でもしようものなら、『そんな

考えは頂けないね。  俺たちには聖書ってものがあるだろうが…。  俺たちはノー・

ブック・バット・ザ・バイブル No books but the Bible!  だってことを常に覚えて

おかなくっちゃ』

 

  そうこうしている間に米国のキリストの諸教会においては、更なる問題を抱え込ん

で、結果的に私たち自身を欺いていることになってしまったのです。  と言うのは、

私たち自身が絶えず『聖書以外に読むべき本はない、聖書以外の本はいらない 

ノー・ブック・バット・ザ・バイブル』という標語を常にかかげているので、私たち

は説教や聖書の学びの時に、『自分たちは聖書しか使わない民なんだ、聖書だけを

使っている民なんだ』というような、いつの間にか、そのような錯覚を私たち自身が

信じ込んでしまうという、そのような危険性を常に私たちは抱え込んでいるのです。

 

    私たちの標語が、私たちが聖書を使っている唯一の民であるかのような幻想を

私たちに実に与えてしまっているのです。  そのような標語が実は私たちに私たちの

虚像を信じ込ませているのです。  そして、現実に私たちはいろいろな人の意見や

いろいろな学者の見解をいろいろな聖書教材や聖書注釈書から読んでいるのに、実際

には伝統的な釈義や解釈をそれらの本から得ているのに、スローガンがあるために、

不文律信条があるために、私たちは公然とそれらの注釈書や参考書を読むことに何か

薄暗いものを感じたり、読まないんだ、読んでいないんだ、引用しないんだ、引用し

ていないんだ…などと、事実でないことを自分自身に言い聞かせているのです。

 

  復帰運動を唱える米国のキリストの諸教会の中でこれらのスローガン作りのお遊び

を私は経験し続けて来たのです。  他のいろいろな教派でも同じような不文律信条や

標語がそれぞれの教派を縛りつけているのが現実だと私は確信しています。

  たとえば「信仰だけで救われる」とか「個人的な救い主イエス」などのスローガン

を口にする教派では、それらの標語だけを特に強調して、聖書の他の多くの箇所に

おいて語られている、他の箇所から照らし出されている真理の光りを仰ぎ見ることを

結果的に妨げてしまっているのです。

 

  このような訳で、私たちキリストの諸教会と称する群の交わりだけが、この聖書の

権威という問題に関して、真剣に取り組んでいるのだというように考えるのは、実に

不幸なことであるし、全く非現実的なことだと私は考えているのです。  だんだんと

私はそのように考えるようになってきたのです。

 

  Sola Scriptura」「御言葉のみ・聖書だけ」という原理に立脚しようとするあら

ゆる教会、すべての教派は、聖書をどのように解釈し、どのように適用するのかと

いう問題に直面することになるのです。  そして、この問題に対しては永遠に対決し

続けるということになります。

 

  同時に、聖書の権威に対して積極的に応答しようと心がけ努力をする教会と、その

ような休むことを知らない努力を払っている仲間の教会があることを認識する時に、

そしてまた、そのような努力をしている教会や群を正しく評価しようとする教会や群

は豊かな恩恵を得ることとなります。

 

  それでは次に、いつの時代にあっても極めて大切な課題に関して、穏やかですが、

しかも挑戦的で魅力的な幾つかの点について述べてみたいと思います。

 

  ジョージア州デカターにあるコロンビア神学院のウォルター・ブルーゲマン教授は

『聖書権威に対する個人的沈思』(野村仮訳)と題する論説の中で、私たちが好きな

もう一つの標語、すなわち、『本質的事柄では一致を、非本質的事柄では自由を、

その他のあらゆる事柄には愛を』という謳い文句が含蓄する事柄に関して探究してい

ます。

      (注  クリスチャン・センチュリー誌2001年1月3日~10日号掲載文。

        転載許可取得済。  購読料金年間36回配布で$42(約¥5,500)

                  購読希望者には翻訳者の方で取り次ぎ可)

 

  『聖書の権威というものは、聖書が証する事柄に命を賭ける者にとって、一年

    三百六十五日の間、絶え間なく迫って来る執拗な課題である。  この課題に

    解決などあり得ようがなく、絶えず未解決のままであり、従って無限に論争

    を招き続ける性質のものである。  それ以外にはあり得ない永遠の課題であ

    る。  なぜなら聖書というものは、「限りなく常に不思議で、しかもいつも

    新鮮」だからである。  聖書というものは、常に不可解なほどに我々の理解

    や説明の範疇や、我々の解釈や支配の部属を遥かに引き離したところに存在

    しているからである。  聖書とは「生きた神の生きた言葉」だからである。

    聖書は、我々が望むような形で我々に記事内容を素直に提供してくれる種類

    の書ではない。  聖書には本質的に何か我々には不可解なもの、我々が精通

    していないものが潜んでいる。  我々が何とかしてその不可解なものを乗り

    り越えてやろう、我々が精通していないものを圧倒してやろうなどと試みる

    なら、それはとりもなおさず我々が偶像礼拝の危険な地に立つことに繋がる

    のである。  それだから、聖書について声高に独断的な標語を叫ぶというの

      ではなく、この今という時点で、我々各自が存在する場において、我々

      それぞれがお互いにいろいろと不思議な変わっ方法で、そしてまた各自

    めいめいがそれぞれに親しみを抱いて導かれて今の立場にたどり着いたのだ

    から、聖書をそういう視点で眺めたほうが良いのではないかと思われる。』

 

  『…聖書とは、本質的に、ためらいながらこの世を思い遣られる神さまの、

    開かれた、そして創造力に富む叙述である…。  その叙述とは、我々を養い

    育んで柔順へと導き、それによってクリスチャン・コミュニティーを築かせ

    るのである。  そこではクリスチャンの自由が明確に尊重され、顧慮される

    のである。』

 

  『…聖書は、聖書の響きや拍子のすべて細部に到るまで我々が知的に注意深く

    接するならば、聖書は聖書の権威ある方法で、しかも非抑圧的な形で我々に

    付き合ってくれるものである。』

 

  『…聖書の権威に関する論争となると、倫理道徳的にも解釈学的にも、誰かが

    他の誰かよりも更に優れているなどということはあり得ない。  そのような

    ことは誰も言えない。  聖書の真理に対して我々が真剣に取り組むときに、

    それは我々がお互いにテーブルを囲んで坐っているときのように、聖書は

    聖書の前にひざまずく我々すべての者を同等にするからである。』

 

  『…聖書とは、我々の理解や想像を遥かに超越したものであって、限りなく、

    しかもいつの場合でも我々を驚かせるものである。  そういうわけだから、

    有名でしかも正確に聖書のことを表現したカール・バルトの言葉を借りると

    聖書とは「いつの時代でも常に不思議で新鮮な書物」ということになる。

 

    聖書とは、固定した、凍りついた、読めば即座に全部がわかるとか、二度と

    再び読みたくないとか、読めば内容が底をついてしまうといった種類の書物

    では決してない。  それは正本であると同時に、むしろ、常に何度でも読み

    返しが利く「脚本」でもあり、読むたびに聖霊をとうしてすべてのものを

    新しくしてもらえる不思議な書物なのである。

 

    それなのに我々は聖書を解決してみようとか、聖書に迫ってやろうかとか、

    聖書を己の解釈の意のままに操ってやろうなどと考えて、痛ましいほどに、

    くたくたになるほどまでに、そのような大それた誘惑に引きずり込まれて

    しまうのである。

    従って、福音的であるということの本質的な、固有の性質というものは、

    我々は聖書を熟知しているのだ、聖書に精通しているのだというような慣れ

    に対して、絶え間なく抵抗するということであろう。

 

    それが誰であれ、その人の聖書の読み方が絶対的であり、無謬であるなどは

    あり得ないのである。  それはまさに聖書の中の鍵でいらっしゃるお方は、

    創造なさり、贖いだされ、完成なさるお方であり、常に我々の遥かかなたの

    聖なる、隠されたところにいらっしゃるお方であるからである。

 

    ところがこの隠されたところに、隠れたところに、我々が勇敢にも、無謀に

    も押し入って、我々が聖なる地、清い場所だと考えているところを、もっと

    知りたいなどと考える時、その聖なる地は偶像礼拝のための遊園地と化して

    しまうのである。  そういうわけで、我々が聖書を読むということは必然的

    に神の摂理によるのである。  それだから、「いつも不思議で新鮮な本だ」

    という畏敬と驚きの念を抱いて謙虚に聖書に接することが必要である。』

 

  『聖書の権威の主張を認知することは、それが使徒的信仰の主要な是認に関係

    するものであるだけに、困難を伴うことではあり得ない。

    しかしその基本線から、聖書解釈という、難しく、また論争的な作業という

    ものが、まさに何であるのかということを認識しなければならない。

    それは解釈以外の何ものでもないからである…。

    聖書は人間による解釈を要求するものである。  すなわち、聖書とは主観的

    であることを避けられないし、必然的に暫定的であり、不可避的に論争的な

    ものである。

 

    そういう訳だから、私は聖書解釈をするに際して一つの基準のようなものを

    提案してみたいと考えている。  それは、我々が行うすべての聖書解釈なる

    ものはたとえそれがどんなに優れたものであったとしても、試験的な権威、

    仮の権威しか持っていないと皆が考えてみてはどうか…という提案である。

    このようにすれば、各自は各自の主張を固執してそれを最大限に謳うこと、

    自慢しあうこともできるし、それと同時に、それがお互いにとってどんなに

    自信の持てる解釈であったとしても、論争相手と一緒に、お互いの聖書解釈

    というものをきっぱり断念することもできるようになるし、我々が余りにも

    慣れ過ぎている、一部の人間の宗教集団だけにしか通用しない聖書解釈を

    遥かに超えたところにある生得の使徒的な主張の中へ、論争相手と手をとり

    あって転がり込み、そこでお互いに打ち解け合って、聖書の解釈においては

    どんなにか意見を激しく異にしていた相手とも喜びあえるのではないだろう

    か…という提案である。

    プロテスタント系の、特にカルヴァン派の聖書解釈の特徴とは、それは時と

    して悪魔的な様式でもあるが、試験的なものとか、仮のものとか、いつでも

    断念するとか放念できるというようなものでは決してなくなり、むしろ仮の

    試験的なものの筈のものが、いつの間にか頑ななものとなり、絶対的なもの

    となってしまうという点である。』

 

    (注  1.  そしてこれは私エルマー・プラウト個人の補足でもありますが、

    いわゆるキリストの諸教会に属している我々が記憶すべきことは、我々の

    ルーツもそのような様式に属しているということです。  2.  この翻訳文を

    お読みになる他の福音諸教派の方々にも同じことが適用されます。  訳者)

 

    『それはしばしば手先の使いかたの早い手品師の行為のようなものとなって

    生得の使徒的主張をある特定の宗教集団のための聖書解釈と巧みにすり替え

    てしまうことが多いということである。』

 

    『冷酷無情で、反復重畳的な客観性というものは何らの創造的エネルギーも

    道徳倫理的な影響力も備えていないと我々が決めこんでいるので、我々は

    こぞって自己本位な補外・外挿法を積極的に採用して聖書に臨んでいるのが

    現状であろうし、これから先も我々は同じことをやり続けるであろうし、

    決してその習慣を止めようとはしないであろう。

    しかし我々が、我々が現在おこなっていることが絶対だなどという重荷を

    担いきれるものではないと、我々が我々自身で苦労を重ねて学んで来た体験

    から考えてみて、そのように同意できるようになれば、我々はそのことで

    きっと癒されることになるし、謙虚にさせられると思う。』

 

  『観念形態の考察というものは我々にとって難しいものである。  なぜならば

    教会に通うことに慣れている我々アメリカ人にとって、我々自身の聖書解釈

    に関する作業については無邪気なほどに殆ど何も知ってもいないし関心も

    薄いというのが現実である。  我々は、歪められた既得の私利私欲や利害に

    結びついた発想から我々の聖書解釈というものが得られたのだということに

    全く思いを馳せたこともないか、正直に取り組んだことがないだけである。

    しかし、我々がそのことを好むか好まないかにかかわらず、実際にはそれが

    現実なのであり、我々がそのことに気がついているか、それともそのような

    ことを知らないのか、そんなことには関係がない…と言うのが現実である。

    聖書の翻訳や解釈であれ、他の翻訳であれ、翻訳や解釈の業に携わる者の

    情熱なり確信なり指針に翻訳が影響されないなどということはあり得ない。

    イデオロギー、すなわち観念形態というものは、全体の中からその一部だけ

    を取り上げるという習慣的なもの、あるいは真理全体の中から自分に都合の

    良い「自分だけの真理」を恰かも真理そのもののように取り上げてみる傾向

    とか、何かある特定の部分的なものを宇宙的なものとすり替えて騙す慣習的

    な傾向などと、そのような自己欺瞞的な慣習にしか過ぎないのである。

 

  『現在我々が生きている社会は、人類の荘厳な営みを、その日その日の便利な

    日常生活商品のように引きずり降ろしてしまおうとする痛ましい誘惑に直面

    している。  そういう現実の中に我々は生を受けているのであるから、聖書

    を読むということは人類にとって緊急課題となっていると考えられる。

    ひたすらに金を儲けたいという人間の執着心は他者をそのための対象物件に

    引き下げてしまっているし、人と人との豊かなふれあいと交わりを唯単なる

    薄っぺらな電子的なアイコンをクリックすることで済ませるようすり替えて

    しまったのである。

    それが軍事的なものであれ、その他のどのようなものであれ、技術的進歩と

    発展は我々の存在を脅かすものとなってしまっている。  最新科学技術とは

    支配することを目的としてプログラムされるようになってしまったので、

    現在においては死を柵の外に押しやったり、人と人とが贈り物を交換するの

    を妨げるようになり、最後には我々人間から人間が人間であることすらを

    排除することになってしまうであろう。』

 

  『それにもかかわらず教会にいる我々は敢えて確言することがある。

    それは、生きる聖書の御言葉こそが科学技術とその弊害と恐怖への根本的な

    解毒剤であり害毒除去剤であるということである。  聖書こそがすべてを

    陳腐化させてしまう悪魔的な力を防ぎ守る根本的な良き知らせなのである。

    支配するために薄め弱めたり、多義性を避けて物事を陳腐化することなどは

    現在の我々の文化の主要目的である。  論争的な不安状態の中に在る教会に

    とっては、そのような技術の方向へと移ってゆくような、移って行きたいと

      いう誘惑が存在するのである。  それは、聖書というものを薄め弱めて

    一次元的なものとするという誘惑である。  ここで論争の問題点を指摘して

    おきたいが、それは本来聖書の中では豊かで*危険なものを、しばしば人間

    が認識し得るような単なる技術へと零落させてしまうという点である。

    更にそれはまた、とてつもないほど大きく優秀なもの、差し迫ったものを、

    使いきる事ができるような陳腐なものへ縮小してしまうという点である。』

 

  (*前述の「dangerous 危険なもの」という表現で著者が訴えたい意味は、

    私たち人間にとって聖書というものは「厄介なもの」、「物騒なもの」、

    「爆発・破裂するかも知れないような扱い難いもの」という意味です。

    それは、聖書が神さまの側から、神さま側の言い方で、神さま側の条件で、

    私たち人間に語られて来たお言葉だ…という意味です。  そのような神さま

    のお言葉、聖書は、私たちにとっては必ずしも居心地の良い、耳障りの良い

    ものではないからです。  私たちの考え方や、私たちが編み出した制度や、

    私たちの自尊心にとって、神さま側からの聖書とは、必ずしも有り難いもの

    ではないからです。  そういう意味で、神さまのお言葉である聖書とは、

    私たちの先入観や自尊心にとって、これは実に厄介なもの、面倒臭いもの、

    扱い難いもの、危険なものなのです。

      翻訳者がプラウトさんに、著者ブルーゲマンさんの意図されたこの点での

    説明を求めたところ、プラウトさんがおっしゃるには、この論理を受け入れ

    るならば、すなわち、もし私たちが聖書の言葉を、神さま側がおっしゃる、

    神さま側の意図される条件で、全面的に受け入れるのであれば、これまでに

    私たちが考え、設計し、打ち立て、やっきになって守り抜こうとして来た、

    すべての制度やものの考え方、やり方が、私たちがやって来た聖書解釈だの

    適用などというものが、実は本当にちっぽけなものとなり、聖書の前に吹っ

    飛んでしまうということになるからです。  恐ろしいことが起るからです。

      例えば私たちのキリストの諸教会では、具体的に、伝統的に、聖書という

    ものを三つの次元で見てきました。  アレキサンダー・キャンベルから得た

      聖書を眺める見方です。  すなわち、イスラェル民族の祖アブラハム、

    イサク、ヤコブ、およびヤコブの12人の息子たちを中心とする族長時代、

    次に、モーセとモーセおよびイスラェルの民に与えられた十戒を中心とする

    律法の時代、そして更にイェスをキリストとするクリスチャン時代=教会の

    時代と、このように三つに聖書を分けて眺める解釈方法です。  更にまた

    これは星光時代、月光時代、日光時代などとも呼ばれていました。

    しかし、神さまの言い方で私たちに語りかけて来ている聖書そのものは、

    聖書をこのように三つに分けて考えたり呼んだりしてはいないのです。

      こういうことから考えてみましても、聖書というものは、私たちには、

    私たちが作り上げ、築き上げてしまった考え方や制度にとっては、本当に

    危険なもの、厄介なもの、取り扱い難いもの、一触即発の恐ろしいもの、

    dangerous なものなのです。  聖書とは、そのようなわけですから、私たち

    の好みに合わせてあちこちをずたずたに切り離したり、私たちの都合の良い

    ように貼り合わしたりして私たちが聖書を支配することを許さないのです。

      キリストの教会であれ、他のどのような教派であれ、人間の組織や集団と

    いうものは、自分たちの自尊心を守ることだけに一生懸命になっていて、

    「危険で破壊的な力を内蔵している神さまの言葉である聖書」に聴き従おう

    とはしないものなのです。  コリント第二の手紙10章4節で使徒パウロが

    『要塞をも打ち破るほどに力のあるもの』と言ったのはそういう「危険な」

    神さまの御言葉の力のことを、著者ブルーゲマンが言いたかったのだろうと

    理解しています…と、プラウトさんは翻訳者の質問に説明されました。)

 

  ここに私が引用した抜粋が語ることは、自分たちを「聖書の民・本の民」だと自称

する、あるいはそのように自称したがる人々すべてが直面しなければならない挑戦の

幅の広さを物語っていると信じています。  我々は唯単に紙とインクの次元のことを

扱っているのではありません。  我々はむかし昔、その昔のただ単なる古文書と取り

組んでいるわけでもありません。  我々は我々に敵対する者に対して策略を用いて

打倒しようとしているのでもないのです。  我々は我々自身の目的のために聖書を

使いたくて聖書を支配してやろうと虎視眈々としているわけでもないのです。

 

  我々がやっとわかり始めたことというのは、最終的な知識を我々が得たと主張する

ことや、たとえ聖書を完全に習熟したなどと仮定してみてのことですが、そのように

主張してみても、そのことが我々を主に導くものではないということです。

  そのようなものは我々を偶像の祭壇へと導くだけなのです。  そして、その祭壇の

上に刻まれている名前とは、実は我々自身なのです。

 

        『主よ、聖なるみ言葉のかなたに私はあなたのお姿を仰ぎ見ます。

    ああ、生きた御言葉でおられる主よ、私の魂はあなたを渇望いたします』

         Break Thou the Bread of Life 日本語讚美歌 187番の原文の直訳

 

                    "PEOPLE OF THE BOOK"  Elmer Prout

 

                元茨城基督教学園宣教師  エルマー・プラウト著

      Elmer Prout, 507 W. Keystone Avenue, Woodland, California 95695

              電話  (1)-530-662-3236    geeelmprout@aol.com

 

                  野村基之訳    2002年5月15  八ヶ嶽南麓

                電話  0551-32-5579    motofish@comlink.ne.jp