『養鶏場の排卵機・牧羊犬・まことの羊飼い』

2004・04・25

 

    24日夕方NHKの子供向け番組で日本の養鶏の実情報告がありました。

養鶏場には採卵用と鶏肉用の二種類があり、採卵用養鶏場は更に平地飼いと鶏舎飼い

に分かれていると報告されていました。  養鶏場はおのおの3千軒前後で鶏の総数は

日本人口と等しいとか、2億強だとか、取材した男の子が報告していました。

  窓の一切ない巨大で不気味な建物の中には20万羽だとか30万羽の「排卵機」が数羽

ずつ狭いケージに収容され、光りと温度の調節を受け、死ぬまでその中で排卵を強制

させられている姿を目撃し、鶏に対する憐れさと、生けるものに対する限りない畏敬

の念を喪失して採算だけを追求する人間の非情さを衝撃と共に覚えました。

 

  日本が太平洋戦争に破れ、占領地から引き上げ軍人が戻り、失業問題や食料問題が

深刻であった時、私は明治学院高校を終え、当時三軒茶屋にあった東京獣医畜産大学

に入学しました。  ヤマギシイズムという養鶏熱も盛んになり始めていました。

 

  幼い時に父を失い、家庭生活を失った私は、幼少時から生き物を愛しました。

淋しかったのでしょう…  蚯蚓ミミズ であれ、ゴキブリであれ、青大将であれ、小鳥で

あれ、亀であれ、嵐山の桂川で釣って来た小魚であれ、近所の平野神社の池で捕らえ

た蛙やお玉杓子であれ、生けるものは手当たり次第に、私を養って下さっていた家族

には隠れるように、飼育していました。

  敗戦直後に豪徳寺の傍で孵卵機を製作販売している店があり、母親にねだって1台

購入し、鶏卵の孵化に熱中しました。  孵化した雛ヒヨコ を食糧難の時でしたが大切に

育てました。  学友にも呉れてやり共に雛の育成に心を躍らせていました。

  一羽ずつ名前を付け、日記を書き、大切に育てました。  白色レグホンやロード・

アイランド・レッドや名古屋コーチンなどが初めて卵を生んだ時には感激しました。

 

  土曜日に見たNHKの子供番組の養鶏場取材と報告に衝撃を受けました。

生命への畏敬の念は完全に排除され、20万~30万の「鶏卵排出機」がいたからです。

Something's wrong!…何かがおかしい…と、末世の感を覚えざるを得ませんでした。

 

    詩編23編は、熟読する者の心を限りなく深く感動させる聖句の一つです。

  『エホヴァはわが牧者なり、われ乏しきことあらじ。  エホヴァはわれを緑の野に

伏せさせ、憩ひの水濱ミギハ に伴い給ふ…』と。

 

  マタイ伝9章36節には、正しい宗教的指導者不在・精神的指導者不在の実態の中に

在ったイスラエルの民の実情をご覧になったイェスが、『その牧カ ふ者なき羊の如く

悩み、且つ倒ふるるを甚イタく憐み…』と、牧者なき羊と同様の状態に在った各地の民

に同情され、嘆かれたことを記載しています。

 

    旧新約聖書の中には羊や羊飼いに関する記載が数多くあります。

  ところが、現在の私たちがこれらの箇所を読んでみても、当時の羊の群や羊飼いの

ことを充分に理解できない状態に私たちはおり、それすらを気付いていないのです。

 

  私と犬との付き合いは相当に長いものです。  現在も保護した犬が5頭います。

犬の中には牧羊犬という犬種があります。  例えばシェットランド・シープ・ドッグ

やウェルシュ・コーギーやボーダー・コリーなどが羊の群を追っている姿をテレビや

映画で見ることがあります。  羊の所有者なり管理者が一人か二人で数頭の牧羊犬を

使って数多くの羊を管理しています。  私もニュージーランドでも目撃しました。

  映画やテレビに出てくる羊飼いは欧米型、西ヨーロッパ的、英語圏の羊飼いの姿だ

と私は考えています。  旧新約聖書に登場する羊飼いの姿と同じではありません。

 

  聖書に出てくる羊飼いとは、羊飼い一人が、或はその家族全員が、自分の所有して

いる羊の群と一緒に何ヶ月にも亙って生活と行動を共にするのです。  雇い人を使う

場合もありますが、基本的に、羊飼いとその家族が自分の羊の群を大切に世話し管理

するのです。

  出エジプト記2章15節から3章初頭にかけて、モーセがエジプトから脱出した時に

ミデヤン人の地で羊飼いになったことを読むことができますが、牧羊犬はいません。

 

  聖歌 429番に「99匹の羊」という有名な曲があります。   446番に「群を離れ」が

あります。  教団の子供讚美歌72番に「小さい羊が」があり、福音子供讚美歌の5番

には「迷子の羊」があります。  いずれもルカ伝15章の善き羊飼いの譬からです。

 

  ルカ伝15章の善き羊飼いの物語を幼い時に京都の聚楽教会日曜学校で聞きました。

イェスに相当する羊飼いが谷底までも降りて失われた仔羊を捜し出したという説明で

した。  これらのいずれにも牧羊犬は一切出てきません。  あくまでも羊飼い自身が

自分の群の世話を見るというシナリオです。  西洋型牧羊犬使用の牧羊作業ではない

のです。  羊飼いが徹底して自分の羊を守り、導き、世話をするのです。

 

  羊は転ぶと仲々に自分の力で起き上がることができません。  水分がなくなります

とたちまち弱ってしまいます。  自分を守る牙もなく、鋭い爪もなく、角もないので

す。  守って貰わないと生きてゆけない動物です。  羊飼いは杖で狼や熊や猛禽類を

追い払わなければなりません。  杖で羊の数を1頭ずつ勘定します。  羊飼いは自分

の羊にそれぞれ名前を付けて呼びます。  羊も羊飼いの声を覚えていて従います。

 

  このような親しい関係の中で、新鮮で豊富な牧草地を求めて、数ヶ月も草原を回遊

しながら羊飼いと羊たちは生活を共にするのです。  旧新約聖書が語る羊飼いとは、

少数の人間が、牧羊犬数頭を使って、時として命令に服従しない羊を犬に噛ませてま

で、羊を管理するという、テレビに出る西洋型の羊飼産業とは根本的に違います。

 

  イェスがヨハネ伝1011節~14節で語られた羊飼いの姿こそは、私たちの弱り疲れ

きり傷ついた魂を優しく招いて癒して下さる救い主の姿なのです。  私たちに豊かな

人生を与えようとなさっておられる姿なのです。  私たちのためにご自分の生命まで

もなげうって救おうとなさって下さった姿なのです。  私たちを充分に知っておられ

る救い主の姿なのです。  私たちも主イェスの御声を自分のものとして知らなければ

ならないと、そのように思うのです。  如何でしょうか?