《土の器としてのわたくし》

                          =私の過去の一部です=

                                20041024

 

    このところ「仕える」という視点からコリント後書4章7節の「土の器」を中心

に考えて来ました。  土器である筈の私たち土器が、「土器では格好が悪い」という

ことで、土器を銅器や銀器や金器に変えてやろうとする傾向とその危険性をご一緒に

考えて来ました。  極めて非聖書的、反聖書的な発想が主イェスの教会を蝕んでいる

という事実です。

 

  最初に嘗て韓国朴正煕軍事独裁政権下のソウル清渓川(チョンゲチョン)スラムで降誕節の

夕方に夕食の招待をして下さった寡婦でニコニコおばさんと日本人学生たちが呼んだ

曹金子チョウ・クムジャさんを紹介しました。

  次に同じスラムで七星チルソンサイダーをご馳走して下さった無名の寡婦を紹介しまし

た。  いずれも極貧状態の中で暖かくおもてなしを頂いた姉妹たちでした。

  三番目に南陽湾ナムミャンマン で目撃したこと、すなわち夕立の時の小学上級生が下級生

をかばった見事な態度を紹介しました。

  そして四番目には春川郊外の田舎の中学校の白基豊校長先生ご家族の無言の奉仕の

姿勢を紹介しました。  週報にもご家族の写真を掲載しておきました。

  いずれも「土の器」が見事にその使命を果たしたということです。  私が生きてい

る限り決して忘れることができない「仕える」という姿勢を学んだのでした。

物質的に豊かな米国の三つの神学校で学べなかった聖書解釈とその実践でした。

 

    そのことを念頭に於いて、本来は「土器」である筈の教会を考えてみました。

  特にブッシュ政権の対アフガニスタン政策や対イラク侵略作戦を支持する超保守的

原理主義傾向の強い米国教会や、「ハレルヤ・アーメンの教会ゴッコ」の自己陶酔や

恍惚状態に陥っている韓国の多くの教会や、最近の一部の日本の教会が、自分が土器

であることを忘れて、金や銀や銅の器であるかのように錯覚しているのではないのか

と考えてみました。

  この世に在るものたちに対して、特に弱者に対して主イェスが「仕え尽くされた」

のと同じように、現在の多くの教会が「仕える」ということに励んでいるのであろう

か、それとも全く関係のない姿に陥っているのではないかと問いかけてみました。

  自分たちは神さまの一方的な恩寵によって救われただけの土器であることを完全に

忘れ去ってしまっているのではないかと問いかけてみました。  神さまの宝を託され

た土器であることを忘れているのではないかと訊ねてみました。  如何でしょう?

 

    それは、あたかも有名な放蕩息子の譬のうしろに隠されがちな兄の姿に似ている

のかも知れません。  ルカ伝1525節~31節でイェスが述べられている姿です。

 

  皆さんにとって皆さんがたご自身はどのような土器なのでしょうか?

私たちが私たち自身の人生、私たちの周囲にいらっしゃる人々の人生に改めて思いを

馳せてみますと、私たちが壊れ易い土の器、価値のない土器でしかないということを

認めざるを得ませんし、たとえどんなにか繕ってみても、飾り立ててみても、結局は

土の器は土の器でしかありえないということを痛感させられます。

 

  私たちに価値があるのではなくて、私たちのような者をすら無条件で赦し、愛し、

支え導いて下さっている神さまの一方的な恩寵によるものであることを告白せざるを

得ないと思います。  如何です?

 

    そこで、今回は私がどうして土の器であるのかをお話し致しましょう。

  私の場合は、私が5歳の時に同志社大学で行政法を担当していた父が当時不治の病

とされていた喉頭結核で京都大学付属病院から帰天して行きました。  その直後から

家庭崩壊が始まりました。  私は西陣の母の実家に引き取られ、3歳半の妹は八幡山

で賀川豊彦と仕事をしていた母の実姉夫婦に子供が無かったので引き取られて行き、

二人が兄妹として一緒に一つの家庭で育てられることは二度とありませんでした。

 

  一部の善意?の人々がノーベル平和賞候補に推薦しようと動いているなどと聞いて

いる母カツは来月26日で95歳を迎えます。  森蘭丸(名は成利15651582)の家系を

継いでいたという極めて封建的で厳しい野村家の家風にそぐわないということがあり

結果的に私たち二人の子供を捨てて自分の信念を貫いて生きて来ました。

  まともに夫婦親子が同じ屋根の下で喜怒哀楽を共にできなかったことは母にとって

も私たち兄妹二人にとっても取り返しのつかないまことに不幸なことでありました。

 

  私を引き取って下さった家族は優しい心の人たちであり、心から感謝しています。

しかし幼児であった私は私自身が「求められている存在ではない」ことを常に意識し

ていました。  そしてそこに「自分が属していない」ということも、「自分には自分

の家族がない」ことも、「愛されてもいないし、愛する者もいない」ということをも

5歳にしてすでに充分に感知していました。

 

  自分自身の家族ではないその親切な家族に「迷惑をかけてはいけない」ということ

を常に意識し、「いつも良い子にしていなければならない」ということを努めていま

した。  欲しいものがあっても、嫌なことがあっても、つらいことがあっても、恥ず

かしいと思うことがあっても、嬉しいと思うことがあっても、それを口にすることは

すべてできないでいました。  嫌なこと、辛いこと、寂しいこともただ独りで耐える

以外に方法を知りませんでした。  諦めるしか道がありませんでした。  これは幼児

にとってつらいことでした。  オドオドしながら幼少年期を過ごしたのでした。

 

  オドオドする、ビクビクするということは決して良いことではありません。

何ごとにおいても自信を持つことができない状態に置かれていることを意味します。

  誰かに認めて欲しい、認められたいという人間としての基本的な願いがあるのに、

それが誰にも叶えてもらえず、無視されてしまうということだからです。

  自分は何をやっても認められない存在であると、このように感じ信じ込んでしまう

ことは更なる悲劇を呼ぶだけなのです。  自信がないのでヘマばかりやるのです。

  ヘマをするたびに叱られます。  叱られるからますますオドオド・ビクビクです。

自暴自棄に陥るか、それとも目立たぬようにおとなしくして、何もしないでいるしか

ないのです。

 

  また、一歳年上の従兄や近所の良く勉強が出来る子と比べられることが多かったと

思います。  一つの個性を持った子供として在りのままの姿で受け入れられ、認めら

れることはなかったのです。  比べられるということは底なしの劣等感に陥る以外に

道がないのです。  常に周囲の大人の目を気にしながら、オドオド、ビクビクしつつ

育った私でした。  幼児期から自信をもてるような状態にはいなかったのです。

 

  自信を持つことができない状態に居るということは何も完成することができないと

いうことにつながります。  何をしても完成できないとうことが更に自信喪失につな

がります。  尋常小学校で理科と漢字の書き取りと作文が得意でしたが認められない

場合が多かったと思います。  教師の依怙贔屓ということもありましたし…

 

  旧制の京三中入学当時は何とか成績もマァマァでしたが次第に勉強意欲を喪失し、

成績はどんどん下がって行きました。  芝白金の明治学院旧制高校に編入した時には

成績はトップの方にいましたが、卒業前には卒業もおぼつかないと警告されました。

 

  獣医学校を選んだのは高校の成績と実力が無くても入れると思ったからです。

一つには私を取り巻く母や親族の「大学に行かない奴は駄目な人間だ」という歪んだ

価値感覚が支配していたからだと思います。  しかし自分の実力を一番知っている者

には大学など高根の花です。  受かりっこない…と一番知っているのは私でした。

  敗戦で軍馬や軍用犬の必要は消滅しました。  獣医学校は閉鎖寸前でした。

入学希望者には赤絨毯を敷い歓迎してくれるような時代でした。  パスしました。

しかし解剖の授業で失神し頑張る気持ちを失いました。  自信を再び失い、完成意欲

を喪失し、相変わらず幼児期からの自信のないままの状態が続きました。

 

  留学先の寄宿舎の床の上で号泣してイェスに出会って初めて自分を取り戻し始める

まで、そのような不幸な長い時間が過ぎていたのです。  愛されていない、求められ

ていない、認められていないということが、自信喪失を招き、それが物事を完成する

こと、達成することを妨げ、自分は駄目なんだと常に思わせてしまっていたのです。

  心の中で密かに抵抗することがあっても、それを怒りに表すことすらできないで、

内向していたと思います。  怖れ諦めて、想像的・肯定的になれなかったのです。

 

  5歳にして1歳年上の従兄にすでに『お前は居候だ』と迷惑がられていました。

  居候という言葉の意味を正確に知り得る年齢ではなかった筈だと思いますが、自分

が求められていない存在であり、自分には頼り行くべき家族がないことを充分に感知

していました。  常に遠慮していました。  自信を完全に喪失し、落ち着きがなく、

他人の顔色を伺うことには特に気を配っていました。  これらの体験はその後の私の

人格形成に著しく歪んだ影響をどれだけ与えたのか、そうでなかった別の人生を送っ

たわけではありませんので、計り知ることができませんが、ほぼ間違いないと思いま

す。

 

  更に、父親との日々の生活を通して学ぶべき男の在り方、男と男の在り方、社会に

於ける男性に与えられている男としての在り方、夫としての在り方、父としての在り

方を見たり聞いたりする体験が全く欠落したままで身体だけオトナとなって行きまし

たから、これはやがて自分が結婚して夫となり、父親になるという大切な使命と責任

を理解することに於いて、体験から何も学んでいないということを意味しますから、

これらのことが結果的に私自身を甚だ苦しめ、周囲の人々を、特に自分自身の愛する

家族に大きな負担と犠牲を強いることに繋がって行ったと思っています。  親になる

ことが怖かったのは、動物園で生まれたゴリラが良い親になれないのと同じです。

 

  亦、幼児にとって母という大きな喜びと慰めと励ましと平安と愛情を常に提供する

「ふところとおっぱい」ほど大切なものはありません。  懐=乳房に抱かれることを

体験できなかった幼児の殆どは、身体的にオトナになれても精神的に欠陥があるまま

で不安定な幼児期の心の状態に留まっているのではないかと、私は心理学者でもあり

ませんが、そのように思い感じる時がしばしばあるのです。

 

  母親から、女としての在り方、妻としての在り方、母親としての在り方、女の男に

接する時の在り方、また、許すこと、信じること、包容することを得意とする母親の

姿を私は体験し目撃することなく身体的にオトナとなったと思います。

 

  むしろ、京都時代のセクハラ的なことや、敗戦直後の東京での母とYAなる左翼系

の男との歪んだ関係が私の母親に対する絶望感や人間不信感を増幅したものと思いま

す。  深川豊洲の石川島重工に勤務していた友人を訪ねた時に工業用青酸カリを盗み

だして桜上水縁で服用し自殺を図ったこともあり、そのあとも6ヶ月以上も家出した

ことがありました。  意識の世界を超えた心の奥底に潜む女性に対する不健康な歪ん

だ女性観も父の死とということから心に植えつけられていったものかと思います。

一つひとつが本当に恐ろしいことなのです。  家庭崩壊とは実に恐ろしいものです。

 

  人を信じることができなかったことも、「ノー」と言えない性格も、弱者を虐げる

者や権力者や権威者や抑圧者に対する本能的な反抗心も、社会正義感も、そして動物

を愛するようになったのも、或はまた虐げられていた朝鮮人に対する同情心と彼等を

差別し、蔑視して追い払っていた西陣の日本人をしばしば目撃するに及んで、これら

の迫害者に対して抱いた秘めた激しい義憤の心をすでに5歳にして本能的に身につけ

たというのも、このような背景があってのことであろうかと思っています。

  このことは赤貧留学生として留学した時に体験した黒人や東洋人やヒスパニック人

に対する教会人を含めた白人米国人の非人間的な態度にも同じように反応しました。

 

  父親になるべきではなかったかも知れない欠陥者が二人の貴い魂の持ち主の父親と

神さまがして下さったのですが、二人の子供に対して申し訳ないと思う気持ちが常に

心の底にあります。  そして回りの人々が、年の若い人々が、良い家庭を築き守って

貰いたいという願いにつながっています。  そしてその裏には、どうしても神さまの

赦しと導きと祝福が土の器には必要であり、心からの祈りが必要であると強く信じて

いるのです。  幼い子供らが親の不注意で傷つくのを見るのはつらいことなのです。

 

    このような環境で育ってしまった私にとって、自分が何も全く功労・勲しのない

土の器でしかないことを充分に知っているのです。

  愛されることも求められることもなかった私には、イェスが十字架の上で貴い血潮

の滴る両手を拡げて無条件で私を受け容れて下さり、愛して下さり、赦して下さり、

私のような哀れな者すらを「仕える者」として創り変えたいと願って下さって、貴い

ご自分の生命を捧げて下さったということを知ったのは、これは一方的な福音以外の

何ものでもないのです。  ケンタッキーの寄宿舎で跪いて体験したことでした。

 

  ケンタッキーの聖書大学の他にもあと二つの大学と大学院で聖書と聖書関連の勉強

をしましたが、最初の学校、田舎の小さな学校でしたが、そこで私はありのままの私

を受け容れ、認め、抱擁し、慰め、励まし、愛してくださるイェスと初めて出会った

のでした。  無名の説教者で聖書を教えて下さったマレン教授と、経済的・精神的に

支えて下さった小さな薬局の経営者プライスさんが祈りと忍耐の中で私をキリスト・

イェスに紹介して下さったのです。

 

  そして、イェスが己自身を十字架に架けてそのすべてを与え尽くし、そこまでして

この私に「仕えて下さった」以上、今度は神さまが私の生命をお召しになる瞬間まで

「どのようにして他者に仕えたらよいのか」を自分自身で考え捜し求め続けて、そう

することによって私は神さまに応えることができるのではないかと学んだのです。

 

  それまでは受け身で、いわば「生まれっぱなし」の状態で流されたままでした。

しかし「十字架の死に到るまで徹底的に仕えるイェス」が「仕えることで私を生かし

て下さった」ことを知ったのですから、今度は私も他者に仕え「他者を生かす」こと

を学び、他者を生かすことで私自身が「生きた者となり」、生きる喜びを他者と共に

体験しなければならない…と、そのように気がついたのです。  それが聖書を学ぼう

とする者、自分が受け入れられ、赦され、愛されていることを知った者の「土の器」

としての働き、私の進むべき道ではないのか…と、このように学んだのでした。

 

  私のような土の器にも神さまの宝物を託して下さろうというのは恩寵以外の何物で

もないのです。  それですから私は私という土器に託され盛られた神さまの宝を輝か

せるための仕事をすればそれで感謝であるし、それが「仕えるもの」としての土器の

仕事だと理解しているのです。  土の器は土の器です。  「仕える」土器であること

を誇り、「仕えるしもべである」ことに徹したいと願うのです。

 

    エクレシアというのは、勲しのない者たちが、ただ一方的な神さまの恩寵によっ

て「呼び出された」状態であることを深く感謝の内に理解した者たちによって構成し

ているのです。  土器の集まりです。  決して銅器でも銀製の器でも、まして金製の

器でもないのです。  共に助け合い、祈りあって仕える者たちの集まりです。

 

  私たちは「仕える者として存在している」者たちです。  勲しがないのに祝されて

いるのです。  イェスの最初の王国憲法の発表であるマタイ伝5章においてイェスが

いきなり『汝ら幸いなり』とおっしゃっています。  私たちがありのままの姿でまず

神さまによって受け入れられ、愛されているからです。  私たちが「~をしたから」

それで『汝ら幸いなり』と主イェスが仰ったのではないのです。

  それですから、安心して「土器であることに」徹したいものですが如何でしょう?

 

  安寿と厨子王、家なき子、母を尋ねて3千里、マッチ売りの少女などをどうしても

好きになれない私には、讚美歌 39136 249 271 番や聖歌の 229398426番などが

胸に迫ります。  イェスの愛に在ってのみ土器が土器として貴ばれるからです。

 

  個人的なことのついでと言うと語弊がありますが、神さまの私への恩寵の中には、

当然ですが順子さんという人生の伴侶、文字通り better halfが与えられていること

は申すまでもありません。  このことは別のおりに述べることに致しましょう。