聖晩餐で何かが起る 

                            ゲィリー・ハロウエイ

 

  キリストの諸教会に属する私たち多くの者にとってはおなじみの小話をジャック・

リースさんが語ってくれました。

  それは、ジャックがまだティン・エイジャーだった頃、主の晩餐について学んでい

たときのことです。  教会で聖書の先生が主の晩餐に関して聖書の教えを説明しよう

とされたとき、ある生徒がそのことに関して、わかりきったことですが、きわめて

大切な質問をしました。

  『先生、主の晩餐の時、なにかがそこで本当に起こるのですか?』

  『いいえ」と答えた先生は、次のようにすかさず答えられたそうです。

  『何かが起こるなどとは、それはローマ・カトリックの教えです。  でも私たちは

    主の晩餐は、ただ単なる記念であり、象徴的なものだと信じていのですよ』

 

                  ただ単なる記念だけなのでしょうか? 

 

  そのような言葉は、私たちキリストの教会の中で育った者たちにとって、馴染みの

深いものです。  日曜ごとに、主の食卓で、それらの「象徴」や「しるし」に対して

捧げられる感謝の祈りを私たちは耳にたこができるほど聞き慣れています。

                                                              ミカラダ

  食卓に備えられているパンと葡萄液によって、裂かれたキリストの御身体と流され

た血潮を覚えるようにと、常ずね教えられています。  私たちは、そこで語られる

言葉と文字化された言葉によって、深く心を動かされることを、それぞれが体験を

とうしてよく知っています。  『我が記念としてこれを行え』という言葉が私たちの

多くの教会の主の食卓のテーブル前面に掘り刻まれていることを私たちはよく知って

います。

 

  沢山の宗派や教派に分裂してしまったクリスチャンたちの一致を聖書に戻ることで

求めようとした、いわゆる復帰運動初期指導者たちも同じ言葉を使っていました。

  アレキサンダー・キャンベルは、『象徴的なパン』と『しるしとしての杯』と表現

し、『主の死の記念』と呼びました。シルシ

  バートン・ウオーレン・ストーンには、キリストの御身体は『一つのパンによって

表されている』としたのです。

  ウオルター・スコットは、『主の晩餐は、ただ単に主の十字架の出来事の過去へと

私たちを導くだけではなく、私たちを未来へと導き、そして更にイエス・キリストの

再臨を待ち望むようにしてくれる』と語っています。

  ロバート・ミリガンは、主ご自身がはっきりと主の晩餐を『私の記念だと教えて

おられる』と語っています。

  ロバート・リチャードソンは彼の聖晩餐に関する瞑想文の中で、『死と悲しみの

象徴である』と記録しています。

 

  これら先輩の言葉は、どれも私たちには聞き慣れたものです。  これら初期指導者

たちが異口同音に語ったことは、主の晩餐はイエスの死を記念するためのものである

ということでした。  すなわち主の晩餐で私たちは私たちのために己の御身体と血潮

を与えて下さったお方を覚えるのだとしたのです。

 

  しかしながら、これら初期指導者たちは主の晩餐が「ただ単に」記念のものである

とは信じていなかったのです。  それは彼らが主の晩餐の中で何かが起こったと教え

ているからです。

  とりわけロバート・ミリガンはそのことをもっとも明白に述べています。

  『主の晩餐が記念のためであるというだけでは不充分である。  主の晩餐は、ただ

    単に過去の出来事への追憶ということ以上の内容を意味している。  すなわち、

    それは飢え乾いた魂への霊的な食べ物の媒介手段なのである。』

 

  確かに主の晩餐において私たちは私たちのためにキリストが死んで下さったことを

覚えます。  しかし、この思い出すということは、単に十字架の出来事を私たちの心

に呼び起こさせるということを遙かに越えたものを含んでいるのです。  主の晩餐に

与るとき私たちの魂は変えさせられるのです。  確かに何かが主の晩餐に与るときに

起こるのです。  そしてそこでは主の晩餐はもはやただ単なる記念ではなくなるので

す。

 

                      ただの象徴だけなのでしょうか?

 

  『でも、イエスさまご自身が、「これは私の身体である。これは私の血である。」

とおっしゃったし、そのお言葉は象徴的なものではなかったのですか?』とあなたは

おっしゃりたいでしょう。  また、『確かにパンが本当にイエスさまの御身体に変わ

り、葡萄液が文字どうりイエスさまの血潮に変わるなどと、イエスさまご自身はおっ

しゃっていませんよ』ともおっしゃりたいでしょう。

 

  そうなんです。  イエスさまはそのようなことをおっしゃっていません。

そのように教えているのはローマ・カトリック教会の実体変化という教えです。

つまり、ローマ・カトリック教会のミサの席で、ローマ教皇の代表であり代理である

  司祭がミサを執り行うとき、パンと葡萄液がイエスさまの御身体と血潮に本当に

物質的に変質するという教えです。

 

  然しながら、私たちがパンと葡萄液を指してイエスさまの御身体と血潮を象徴的に

表しているのだと言うとき、それらがただ単に象徴であると言っているのではありま

せん。  それらを指して『ただ単なる象徴である』とにべなく言い切ってしまう時、

その様な時の主の晩餐の席においては、全く何も起こらないのです。

 

    一方では『単なる象徴的なものだ』といいながら、もう片方では『ただ単なる

象徴的なものではない』などと申し上げれば、その矛盾はどうなるのでしょうか。

 

  この点で私たちは私たちのバプテスマを考えてみたいと思います。

私たちの友達がバプテスマのことを「ただ単なる象徴的なものだ」と発言するのを耳

にするとき私たちは気分を害します。  (そして害するのは当然のことです。)

 

  バプテスマをただ単なる象徴的なものだと言い切る友達は、バプテスマは結局のと

ころ、実際には本当に大切ではないのだ、と言っていることになるのです。

  そして彼らが言うことは、『大切なのはその意味なのであって象徴的なものではな

い』ということです。  このような理解では、バプテスマにおいて殆ど何も起こらな

いのです。

 

  しかし、その反対のことを言いますと、それはバプテスマを「魔法仕掛け」のよう

なものにしてしまい、そしてそれはローマ・カトリック教会が説くバプテスによる

新生(バプティズマル・リジェネレーション)を信ずると言うことになります。

 

  私たちは、このようなローマ・カトリック教会の教え、すなわちバプテスマが人を

救うという教えを信じてはいません。  しかし、私たちはバプテスマにおいて何かが

起こると信じています。  確かにバプテスマは象徴的なもの、しるしではあります

が、その象徴的なも、そのしるしによって私たちはイエス・キリストの死と埋葬と

復活につながれ、一つとされるのです。  そのしるし、その象徴的なものによって

私たちはキリストの汚れを洗い清める血潮に触れるのです。  そのしるしによって、

その象徴的なものによって私たちの罪は洗い去られるのです。

 

  私たちはバプテスマの水が文字どうり私たちの罪を洗い去ると信じているのでしょ

うか?  もちろんそのようなことはありません。  更にまた、私たちはバプテスマの

水が、不思議なことに、魔術のように、イエス・キリストの血潮に文字どうり変化す

ると信じているのでしょうか?  もちろんその答えはノーです。

  象徴的なものが、しるしが、信仰から離れて、信仰なしで、何かをする、生み出す

とでも信じているのでしょうか?  決してそのようなことはありません。

  それではどうしてバプテスマの水が私たちの罪を洗い清め去るというのでしょう。

どうしてキリストの血潮が私たちを救うのでしょう。  それは霊的な洗い清めをを

意味するのであって、物質的なこと、物理的な洗い清めを言っているのではありませ

ん。

 

    それと同じことが主の晩餐にも当てはまるのです。  パンと葡萄液が物理的に

キリストの御身体と血潮そのものでは決してありませんが、それらは霊的な意味に

おいてキリストの御身体と血潮なのです。  信仰によってパンと葡萄の液は物質的な

食物であることを越えて霊的な食物なのです。

 

  一致・復帰運動初期の指導者たちもこの理解において同意見であったのです。

  ストーンにとって、私たちは物質的な食物を食べるだけではなく、『キリストの

血潮と御身体に共に与る者』となると語りました。

  ミリガンは主の晩餐を『飢え乾いた魂に対する霊的な食物としての媒体』と呼んだ

のです。

  ローマ・カトリック教会の司教パーセルとの宗教討論会の席上、アレキサンダー・

キャンベルはローマカトリック教会の教えの一つである実体変化説(トランサブスタ

ンシィエーション、すなわち司教が主宰する聖体拝領、ミサにおいて、パンと葡萄液

がイエス・キリストの御身体と血潮に変質すると説く教え)に対しはっきりとそれを

否定して対決しています。  しかしキャンベルは、『私たちが主の晩餐に与るとき、

私たちはキリストの御身体と血潮に接しているのだ』と語っています。

  キャンベルはバプテスマと主の晩餐との間には共通点があることを見抜いていま

す。  『バプテスマにおいて水は霊的に私たちの道義心を清めます。  それと同様に

私たちが主の晩餐に臨むときパンと葡萄液は私たちの魂を養ってくれる』のです。

 

  それですから、運動初期指導者たちは、私たちがバプテスマに与るとき主イエス・

  キリストがそこにいて下さると同じように、私たちが主の晩餐に与るときにも

主イエス・キリストはそこに御臨在くださっているのです。

  このように申しますと、ある人は次のようにおっしゃるかも知れません。

『ああっ、霊的にねっ。  イエスさまは霊的に私たちと一緒にいて下さっているんで

すねっ。  それじゃ、本当はそこにはいてくださっていないんですねっ。』

  そのような発言は一体全体どういう意味をなすのでしょうか。  クリスチャンが

このようなことをどうして言えるのでしょうか?  霊的なものが同時に現実のもので

あるということを私たちは信じていないのでしょうか?  神さまは霊なるお方では

ありませんか?  そして、同時に、その霊的な神さまは、現実に、今ここにもいらっ

しゃるお方であると私たちは信じていないのでしょうか?

 

  主イエスさまは主の晩餐の席に霊的に御臨在なさっていらっしゃいます。  そして

また、主イエスさまは、私たちの目には見えませんけれども、私たちとご一緒に、

実際に、主の晩餐の席にいらっしゃるのです。

  新約聖書においては、「霊的なもの」は決して「現実のもの」と対照あるいは対比

させられていないのです。  「霊的なもの」が対照し、対比させられているものは、

それは「肉的なもの」や「物質的なものもの」との対比なのです。

  キリストは決して肉体的に、物質的に主の晩餐のパン葡萄液の中にいらっしゃるの

ではありません。  主はそこで霊的に私たちとご一緒して下さっているのです。

本当にそこにいらっしゃるのです。  ロバート・リチャーソンがかつて主の晩餐の席

で述べたことですが、『諸現実と接するものは真実であり、実在するものであり、

事実であり、本当のもの』なのです。

 

    それでは、私たちの運動の指導者たち、すなわち、いろいろな、さまざまな

クリスチャンたちが聖書に戻って一致しようと呼びかけた運動の初期指導者たちが

主の晩餐の席に主イエス・キリストが霊的にそこに御臨在なさっていると理解してい

たにもかかわらず、現在のキリストの諸教会に広く行き渡ってしまっている見解、

すなわち、主の晩餐はただ単なる記念である、あるいは象徴的なものであるとする

考えを、私たちは一体全体どうしてどこから得たのでしょうか?

  それはおそらく宗教的論争から出て来たのかも知れません。  今世紀の初めになっ

てローマ・カトリック教会の誤った教えと混同されるのを避けるために、「象徴的」

「しるし」と言った表現を、例えばEGソーウェルなどの指導者たちが使い始めたか

らかも知れません。  次のような文献が残っています。

 

  『パンと葡萄液は、我々のために裂かれたイエスの御身体と流された血潮を表す

    ものである。  ローマ・カトリック教会ではパンは本当にキリストの身体であり

    葡萄液は本当にキリストの血であると教えている。  いわゆる実体変化の教えで

    ある。  そこで我々の兄弟たちが考えたことは、ローマ・カトリック教会の過ち

    を避けながら、兄弟たちにとって主イエス・キリストの食卓がどのような意味を

    なすのかを一番わかりやすい言葉で表すのが最善であるとの結論に達した』

 

  誤った教えを避けること自体は高尚な目標です。  けれどもそこで注意しなければ

ならないことは、過ちを避けるためだといって極端に走ってはなりません。

  そうでないと、そのような過ぎた試みも過ちとなってしまいます。  興味のある

ことですが、バプテスマが人を救うというローマ・カトリック教会の教え、すなわち

バプティズマル・リジェネレーションの誤りを避けるために、それでもバプテスマの

必要性を主張したソーウェルは彼の言葉を諦めなかったのです。

  また更に彼は、「肉的なもの」或いは「物質的なもの」と「現実的なもの」または

「真実なものもの」とを誤って結びつけ、関連ずけていました。

  主イエス・キリストが主の晩餐の席に私たちと本当にご一緒しておられるという

ことを信じ教えるということは、そこに主イエスさまが文字どうり肉体的に、目に見

えるかたちで私たちと一緒にいらっしゃると教えて良いということではありません。

 

              それでは、どのような違いをもたらしますか? 

 

  復帰運動初期指導者たちが信じていたことは、新約聖書は、イエスさまが主の晩餐

の席に本当に霊的に御臨在なさっていたということです。  私たち今日のキリストの

諸教会につらなる者たちが、そのような信念、そのような確信を初期指導者たちと

共にするならば、それはどのような違いが私たちの礼拝に出てくるのでしょうか?

 

  ずいぶんと違ってくると思います。  その一例として、パンと葡萄の液に対して

祈る私たちの祈りが変わってくるかも知れません。  私たちが主の晩餐の席でよく耳

にする祈りには次のような祈りがあります。

 

  『主よ、私たちはこれらの象徴が大切なものであることを知っています。

    それですから私たちはこのパンと葡萄液に感謝を捧げます。』

  『主よ、私たちは、あなたのご命令に従順に従うために集まっております。』

  『主よ、あなたの裂かれた御身体のみしるしであるこのパンを祝して下さい。』

  それらの祈りはいずれもそれぞれが誠実な祈りであり、それはそれで  良いのかも

知れませんが、実はそれだけでは充分ではないのです。

 

  本当に私たちが主の晩餐の席に主イエス・キリストご自身がいらっしゃるのだと

確信しているのなら、私たちの祈りは変わり、主の晩餐に対する私たちの心の態度も

当然ですが変わってくるのです。  主の晩餐はバプテスマと同じだけの重みを持って

いるはずです。

 

    『何かがここで今この瞬間に起こった!』のです。  バプテスマで私たちは

キリストの血潮によって霊的に新しく生まれ変わったのです。  新生のあと、生まれ

変わったのち、私たちは食べ物が必要になります。  そして主の晩餐において私たち

はイエス・キリストの御身体と血潮を霊的に食べ、また飲むのです。  この食事に

よって、この主の聖晩餐によって、私たちの魂は養われるのです。

 

  もし私たちがこれらのことを本当に信じるのなら、主がそのようにお命じになった

ので、私たちはただ単にその主のご命令に従うために主の晩餐を守るというようなも

のではなくなります。  示された模範だからこれに従う、というようなものではなく

なります。

  ただの象徴、ただのしるしというたぐいのものではなくなるのです。

それは私たちの食べ物となり、飲み物となって私たちの信仰を養うものとなります。

私たちの心の隅々までをキリストの御臨在で満たすものとなるのです。  そして、

これこそが神さまがイエス・キリストをとうして私たちにして下さったことに対する

私たちの讃美と感謝、とこしえに神さまとご一緒できることへの私たちの魂の感謝と

喜びの礼拝、心の礼拝ではないのでしょうか?

 

  私たちは、私たちの礼拝において、何を変える必要があるのでしょうか?

私たちの伝統的遺産の一番良いものを維持することそのものを変更してみてはいかが

でしょう。  それは聖書的な変更です。  私たち自身をキリストのに姿へと一変させ

るような変更です。  お互いがお互いに対し、そして全世界に対し「主の晩餐の席で

何かが起こった!」と宣言しようではありませんか。

 

  1998年5月8日  翻訳  野村基之    校正  野村順子

                                              ヨリコ

  訳者注:

    著者ゲイリー・ハロウエイGary Halloway さんはテキサス州オースチンにある

キリスト教研究所(仮私訳)で教会史を担当。

  ペパダイン大学(ロサンゼルス)発行 The Leaven (パンだね)誌より翻訳許可

入手済

 

  次の翻訳論集は『教会に於ける婦人の働き』と『礼拝』に関するものを計画中です