《亀の卵と恐竜の卵》

 

          教友エド・ファッジ博士から伺った譬話からの展開ですが…

 

  ある悪戯坊やが海岸で二つの異なった動物とその卵を見つけたのだそうです。

一つは海亀の産卵を見たあとで卵を掘り出したことです。  あとの一つは海岸の崖に

そそり立つ樹の上に猛禽が営巣しているのを目撃し、その巣の中に海亀の卵を入れて

おいたという話です。  もちろん、海亀の卵と猛禽の卵は固さからも違います。

これはあくまでも譬話でしょうが、一つの真実をわかり易く伝えていると思います。

 

  猛禽の卵から雛が2羽ばかり孵化しました。  親鳥交代でせっせと雛に餌を与えて

巣立ちを迎える時期が迫りました。  そしてひとりで飛ぶことを教え始めました。

時が来て親鳥が雛鳥を巣から押し出しました。  こうして雛鳥は無事離巣しました。

 

  次に親鳥は海亀の子にも疑うことなくせっせと餌を補給し育てました。

親鳥は自分の雛鳥に教えたのと同じように、子亀にも両方の翼(四つ足)を力一杯に

ひろげて羽ばたくことを一生懸命に教えました。  そして充分に子亀が育ったと判断

した親鳥は子亀を巣から押し出したのです。  亀の子はそのまま海岸に落下してしま

いました。  二つの動物はそれぞれ性質も形態も特徴も全く違うのです。  猛禽の子

が海中を遊泳できないのと同じように子亀は空中飛行などできるわけがないのです。

 

  主イェスさまは、ヨハネ伝3章によりますと、ニコデモというユダヤ教の指導者と

対話をされました。  『ひと新たに生まれずば神の国を見ることあたはず』と多くの

日本語聖書は訳していますが、「新しく」と訳された言語「ano ハノ」は本来ならば

「上から」とか「上にあるものから」「高い所から」などと訳されるべき単語です。

英語なら that which is above, upwards, from above, from a higher placeです。

 

  どんなに一生懸命に羽ばたこうとしても、亀の子が猛禽の子のように空中を舞うの

は無理ですし猛禽が海中を潜るということも無理なのです。  性質が違うからです。

 

  それと同じように、罪ある私たちがどれほど一生懸命に努力をしてみても、それで

私たちが神の国に入れるということはあり得ないのです。  『上からのもの、高い所

からのもので生まれ変わらなければ誰であっても人が神の国に入ることはできない』

とヨハネ伝3章3節は語っているのです。

 

  罪ある私たちが、罪という最大の問題を解決しないで、罪を担いだままで、汚れた

ままで、天国に入る、入れるということはあり得ないのです。

 

  「教会ゴッコをしているから」神の国に入れるということはあり得ないのです。

『誰々先生にバプテスマして貰ったから』とか『むかし日曜学校に通っていたから』

天国に入れるということでもないし、『ミッション・スクールを卒業したから』神の

国に引っ越しできるということではないのです。  人の行為は役に立たないのです。

 

  天国を目指したい者は、神さまと「新しい関係に入る」ということを考えなければ

ならないのです。  「教会ゴッコ」ではないのです。  「神さまとあなた自身の関係

がどうなっているのか」だけが厳しく問われているのです。

 

  エゼキエル書3625節~27節には、「神さまとの新しい関係にはいった人の状態」

がはっきりとしるされています。  このような「関係」が大切なのです。

  ヨハネ伝1章26節~33節でバプテスマに関して、物質的な水と霊的な水=聖霊とが

比較されています。  人は新しく、そして天からのものによって生まれ変わる必要が

あるのです。

 

  使徒行伝2章37節~40節やロマ書6章を熟読してみますと、人はイェスの十字架の

出来事、すなわち福音を聞き、罪を悔い改める決意をし、イェスを神の子であり救い

主であるとして信じてそのことを公に告白し、バプテスマに与り(可視面では水だが

不可視面では聖霊による)、罪の赦しを頂き、聖霊の賜物を頂き、歪み曲がりきった

この世から救い出され、神さまの永遠の家族に加えられるということが必要であると

学びます。  こうして神さまと「新しい関係」に入ることを恩寵で得るのです。

 

  新しい性質を頂き、神さまと新しい関係に入ることによって私たちは神さまの子と

して頂けるのです。  亀の子は空を飛べませんし、猛禽が海中に潜ることはできませ

ん。  どんなに選ばれたとされている人でも、罪あるままで人が神の国に入ることは

できないのです。  ファッジさんの亀の卵と猛禽の卵の話しから学んだことです。