《イェスを殺しているのは誰か?  その2》

 

  私ども夫婦の住んでいる八ヶ嶽南麓から西北のそんなに遠くない赤石山脈(別名

南アルプス)の山中に高遠という町があります。  古くから軍事・交通の要所でした

が明治以降に鉄道が通らなかったので、戦国時代から比べますと、次第に寂れて来た

町だそうです。  その山中の町のことですが…

 

  江島事件で流刑された大奥女中の江島(一説では絵島)の墓があり、また高遠城跡

は桜の名所として知られています。  余談ですが、1714年に江戸城大奥将軍徳川家継

の生母月光院に仕えていた女中江島らが寛永寺と増上寺参りの帰路立ち寄った劇場で

の遊興が発覚、関係者とその家族たちが咎められ処分された事件を指します。

 

  さて、高遠城址の桜を見物しようと毎年大勢の人々が訪れて来ます。  自家用車

で来る人もありますが、観光バスの数が相当に多いのにも驚かさせられます。

 

  観光客はそれぞれのバス・ガイド嬢が掲げる旗に従って団体行動をしています。

このような集団行動の光景を見慣れている私たちには、高遠でのそのことを別に異様

だと思わなくなっています。  添乗員嬢はいろいろと懇切丁寧に、あたかも幼稚園児

に語りかけるように諸注意を説明しています。

 

  それは駅のプラットフォームでは『電車が来ます。  白線から下がって下さい』

車内放送は『ドアが開きますので手を挟まないで下さい』『携帯電話は他人の迷惑に

なりますので使用を控えて下さい』『終点です…お忘れ物なきように願います』など

と乗客に呼びかけています。  オトナを相手に馬鹿げた奇妙な「親切」です。

  これでは私たちに自主性だの個人の責任感などが育つわけがありません。

 

  外を見れば子供でもわかる筈なのにNHK の天気予報でも『今日は洗濯できません』

『今日は洗濯日です』『今日は傘を持って出かけましょう』『今日は長袖を持参しま

しょう』などと懇切丁寧にやっています。  これも必要のない余計なお節介です。

 

  躾に失敗した親が、放任状態の子供が回転ドアーに挟まれると、相手の所為にして

責め立て、親の監督責任を一切問いません。  マスコミにも同じ傾向があります。

 

  戦争状態の国に、最悪の場合も充分にあり得る状態の混乱状態のイラクに、自らの

意志で飛び込んだ成人男女と、それを覚悟して、むしろ誇りに思って送り出した筈の

家族が、一旦その地で子供たちが捕捉されると、ヒステリックになって政府を責め、

戦闘状態の国で通信網が途絶している非常事態を無視して、情報不足に苛立つという

姿も、自分の権利だけをひたすらに主張して「個人の主体性」「個人の意志と責任」

という発想が完全に欠落している形式的偽民主主義国家日本の実情だと、情けなく、

腹立たしく私は常々そのように思っています。

 

  起承転結の「起・承」部分が長くなりましたが、では「転」の部に入ります…

それは、私たちの信仰にも同じようなことが言えるのではないのかという点です。

 

  4月4日号「ベタニヤつうしん」で『誰が今でもイェスを殺しているのか?』と

いう拙文を書いておきました。

 

  聖書が語っていない、教えていない「聖職者制度」「職業的聖職者制度」「聖職者

位階制度」など呼称はいろいろとありますが、いわゆる牧師・教団・神父・教皇など

の制度を築き上げて、自分たちで聖書を読み、自分たちで自分たちの子供らに聖書を

教えることの特権と責任を完全に放棄して、「牧師先生サマ」に教会のことをすべて

任せ預けて、牧師や神父が振る旗の下で「アーメン・ソーメン教」の「教会ゴッコ」

をやっていてよいのだろうか?ということを問いかけてみました。

 

  そういう便利な制度を設立・維持して、自分たちが自分たちの決断でいのちを賭け

て・懸けて聖書信仰を厳守しようとする姿勢を回避して、複数形の長老たちによって

エクレシアを守り治めるという聖書の教えから目を逸らして、聖書が知らない職業的

宗教人制度・牧師制度にあぐらをかくということや、牧師先生サマを養成する学校を

維持しようとすることを一度も問い直したことがないということは、『何かおかしい

Something's wrong!』のではないかと、そのように問いかけたわけです。

 

  各エクレシアが聖書の定めた長老(監督)の姿を取り戻す努力を誠実にそろそろ

始めてもよいのではないかと私個人は考えています。  そのために各教会なりに工夫

と努力を重ね、人格的にも信仰的にも優れたクリスチヤン・キャラクター、基督者の

品格を備えた男性指導者の養成に取り組む必要があると確信しています。  更にまた

そのような男性養成を支える信仰的な女性たちを育成する必要がありましょう。

 

  またそのために、後述しますが、既存の神学校や聖書学院の教師たちを利用して、

彼らを各教会に招き、各教会の責任で教会で聖書や聖書に関連する学びを更に積極的

に促進してゆく必要があろうかと、私個人はそのように思っています。

 

  更に、各家庭において、父親の権威を取り戻して、一家の長として、一家の信仰

の成長を祈り願う父親の養成を教会は真剣に考えるべきであろうかと思います。

  太平洋戦争敗戦以降、私たち日本人の生活の中から父親の権威も尊厳も責任も全部

どこかに失ってしまったまま60年を経てしまったと私は思っているのです。

 

  『教会に行く』という暴言がまかり通っている今のエクレシア理解もおかしいと

思うのですが、それは家庭単位で、父親の指導と責任で、家族一同が共に聖書を読み

祈るという日々の努力をしようとする理解を私たちがしていない以上、これらも改善

されることは恐らくないだろうと私は思うのです。

 

  「教会」というものは西洋式の建築物ではないはずです。

  また、教会に「行く」というのもおかしな話です。  教会=エクレシアとはイェス

を信じる者たちが一緒にいる状態を指す言葉であっても、建物や場所ではないはずで

す。  イェスを信じる者たちの一番身近な単位は、それは家庭であるはずです。

 

  家庭そのものが主イェス・キリストへの礼拝を中心として築かれたものであり、

そのような家庭が幾つも集まって日曜朝ごとに公同礼拝で主イェスの十字架と埋葬と

復活、そしてやがて再び来たり給うという信仰告白を主の食卓によって共に確認する

状態と共同作業をエクレシアと呼ぶのではないのでしょうか?

 

  家庭で父親が指導して、家族全員が共に聖書を読み、聖句を暗証し、聖書から話題

を選んだり、社会問題を論じてみたり、クリスチャンとしての責任を語り合ってみた

り、讚美をしたり、讚美歌・聖歌の歴史を調べて発表したり、人生の目的を語りあっ

たりするのが正常な、当たりまえの姿だと思うのです。

 

  そこでは主婦も、子供たちも、対等な立場で自由に発言したり、率直に意見や疑問

をなげかけることができるはずです。  わからないことがあれば全員で協力しあって

調べることもよいことですし、信仰の成長に役立つと思います。

 

  聖書自身を共に学び、新しい讚美歌を学び、讚美歌の作詞作曲者たちのことを学習

し、特定の讚美歌が生まれてきた時代的背景や立地状態なども勉強したらよいと思い

ます。  教会史の学びもできましょうし、ユダヤ・キリスト教の背景や地中海沿岸の

文化史の勉強もしたらよいと思います。  そのほか考古学やキリスト教の影響を受け

た芸術の勉強もよいでしょう。  各方面でよい参考書もたくさん出版されています。

 

  そこでは常に祈りがあり、讚美があり、お互いに切瑳琢磨して信仰の向上を求める

姿勢が保たれるはずです。  家族以外の人々を招き入れることも伝道になります。

  こういう「家庭集会」「家の教会」「核」と呼びますか「細胞」を計画的に徐々に

増やすことを今の教会が真剣に模索すべきだと私は思います。

 

  そういう幾つかの家族が、核細胞集団が日曜朝に一つの場所に集まって、お互いが

学びあったことや体験したことを分かちあったり、神さまの恩寵を讚美しあうという

状態を喜ぶようになれば、職業的宗教人としての牧師先生サマの存在理由は消滅する

筈だと思うのです。  この方が遥かに初代原始教会の姿に近いものだと私は考えてい

るのです。

 

  信仰を中心とした家庭、聖書の教えを大切にする家庭の大黒柱、長としての経験を

積み重ねた父親たちが日曜朝の公同礼拝の席上で各自が十字架理解を語りあい、主の

食卓で恩寵を感謝して告白する訓練を重ねて行けば、職業的宗教人の牧師先生サマや

神父の出る幕などなくなって行くものと考えます。  そのような環境の中から次第に

長老たちが育って来て、やがてエクレシアを担う者たちとなると確信しています。

  そうすれば、神学校を支えて、そこから牧師を派遣して貰うという制度の必要性は

このような積み重ねを加えて行くことで次第になくなって行くだろうと、そのように

私は考えたいのです。

 

  そこには大きな建物も要りませんし、駐車場も要りませんし、建物の維持管理費も

要りませんし、椅子だの説教台も要りませんし、税金だの光熱費だのと諸雑費も要り

ません。  あるのは主イェスを讚美し、主イェスの御旨を更に知り、更に行いたいと

いう願いと祈りがあるだけだと、そのように思うのです。  如何なものでしょうか?

 

  韓国スラム救援活動の一環として西ドイツ諸教会を訪れたことがあります。

  或る日曜の朝、英獨語通訳者の車で深い森の中に案内されたことがあります。

忽然と現れた森の中の大きな平屋の前で車を降りました。  沢山の車が並んでいまし

た。  人々は一言も喋らずに屋内に入り放射線状に並べられた椅子に坐り黙祷をして

いました。  司会者がいるわけでもなく、週報があるわけでもなく、飾りや十字架が

あるわけでもありませんでした。  あったのは厳粛な静寂さだけでした。

 

  誰というわけでもなく、或る男性が立ち上がり祈祷を捧げました。  そして沈黙…

また別の男性が立ち上がり讚美を始めました。  一同がアカペラで実に美しく讚美を

楽しそうに、確信を込めて歌っているように思えました。

 

  讚美が終われば再び沈黙…  しばらくするとまた別の男性が立ち上がり何かを淡々

と語り始めました。  ドイツ語を理解できない私には何が語られたのかわかりません

でした。  その後で全員が再び起立し讚美が再び捧げられ、主の食卓、いわゆる聖餐

が執り行われ、黙祷の後で全員が無言で会場を立ち去り、めいめいの車に乗って森を

下りて行きました。

 

  会場出口に木製の箱が置いてあり、各自が封筒に入れた献金を捧げていました。

献金は教会活動を維持するためのものではなく、第三世界に捧げるものだと、あとで

教えて貰いました。

  閉会前にある男性が立ち上り、祈りを捧げたのち、会衆に対して何かを言っていま

した。  『今日の献金はアフリカで我々の献金を必要としている人々のために捧げる

ものだ』と献金の主旨説明をしたのだと、これもあとで教えて貰いました。

 

  このエクレシアは宗教改革者ヤン・フスの流れを汲む群のようだと感じました。

もしかするとボヘミヤ兄弟団かモラヴィア兄弟団と呼ばれている群だったのかも知れ

ません。  そこには職業的宗教人の入り込む余地は全くあり得ませんでした。

 

  「モラヴィアの兄弟たち」は聖書に基づいて家庭教育に熱心な群であり、聖書信仰

によってキリストに戻り、厳しく自分自身と家庭を聖書で律し、日常生活の場にあっ

てクリスチャン同士の交わりを深めることに熱心であり、福音宣教活動や愛の奉仕の

業においても熱心な敬虔主義傾向の強い群だと教会史で学んだことがありました。

 

  獨逸福音教会というゴシック建築のデッカイ教会堂を沢山訪問しましたし、田舎の

幾つかの小さな古いルーテル教会堂においても突然に雷鳴が轟くようなオルガン音が

会衆からは見えないような二階の奥の方から流れて来ていました。

 

  そのようなドイツのルーテル教会を数多く訪れた私には、森林の奥深くで出会った

あの単純なクリスチャンたちのエクレシアの姿に接した時、初代原始新約聖書教会の

姿を垣間見た思いで、深い感動に襲われたことを生涯忘れることができません。

 

  日本にせよ韓国にせよ、中国もそうでしょうが、今までの封建主義体制から急速

に離脱し始め、経済的発展をなし遂げ始めた東洋の国では、同時に急速に父権の喪失

現象が見られるようになり、父親が占めていなければならない一家の長としての地位

や責任を、母親が侵略し占拠してしまっていると、私個人はそのように見ています。

  父権喪失状態と母権の異常な覇権主義傾向というものは決して聖書的な健全な姿で

はないと思っています。

 

  聖書は創世記の初めから男と女の神の前における相互平等の地位と責務や、父親と

母親の責務が異なったものでありながら主の前には対等な責任と地位を有するもので

あることを明確に定めており、両者が助け合い、祈りあって主に栄光を顕すことがで

きる家庭を築き上げるようにと聖書が命じていると私は創世記1章27節を読みます。

 

  私たち自称クリスチャンたちがどんなにか聖書を読んでいないのかがよくわかると

思うのです。  クリスチャン・ホームを在るべき姿に復元する必要があります。

父親の積極的な責任の自覚と、母親の賢明な謙譲さが求められていると思います。

 

  このような聖書的なパターンを取り戻すことによって、私たちは職業的宗教人ら

とそれに追従している無責任な私たちにによる「イェス殺し」を少しでも防止できる

のではないかと、そのように真面目に思っているのです。

  そうでないと、私たち自身も今もイェスを殺していることになるのです。

 

  神学校や聖書学校に従事し仕えている者たちも「自分たちの学校中心主義」から

解放されて、各単立エクレシアに対して主が与えられた最初の使命を理解し直して、

教会に仕えるという謙虚さと積極性が求められていると私は考えています。

 

  日本では神学校や聖書学校に入学を希望し学ぶ者の数は極めて少ないのです。

それなら、神学校や聖書学校は積極的に各教会に奉仕することを申し入れ、各教会は

主体的に神学校や聖書学校を活用して、自分たちの教会で自分たちのメンバーの聖書

教育の充実を図るのがよいと私は信じています。

 

  神学校や聖書学校が新約聖書の中に示されていない制度や組織であると断罪する

よりも、この方が現実の状況を考える時に、聖書的・建設的だと思います。

 

  前回申し上げましたように、請われてピンチ・ヒッターとして大阪聖書学院に赴き

教会史を学生さん一人と学んだこともありますし、東中野でアメリカン・クリスチャ

ン・カレッジの設立に手を貸し、そこでも教会史を担当しましたし、仲間たちと開設

した手作り伝道学院でも教会史を担当していました。  これらは、上記のような理由

が私の心の中にあったからでした。  しかし聖書的に眺める時に、これらの教育とは

各家庭や各教会が本来やらなければならない責務だと信じています。

 

  4日の週報の中で『次回述べることがあります』と書いておきましたが、それは

以上のようなことを申し上げたかったのでした。  私は異端者なのでしょうか?

  それにしましても、皆さんご自身はどのようにお考えになりますか?