《誰がイェスを殺しているのか?
その1》
© 山岳寒村僻地ですから地方新聞を購読する人が圧倒的です。 朝日だの毎日だの
といった『トケー(都会)の新聞なんて…』という風潮の強い田舎です。 ましてや
『夕刊までとるのけぇ?』と新聞店は嫌がります。 人口約1万人弱の長坂町で朝日
だの毎日の夕刊までを一緒に購読する家庭は数軒しかないのです。 最低でも1日は
遅れて翌日の朝刊と一緒に配達されます。 夕刊が紛失して届かない時もあります。
© 27日(土)の毎日新聞夕刊1面左側にメル・ギブソンの「パッション」、即ち、
主イェス・キリストの受難時の12時間を描いた映画評が大きく紹介されていました。
しかし、その夕刊を私が目にしたのは、当然ですが、日曜夕方のことでした。
© その日の朝の礼拝で、そのような記事を載せた夕刊が間もなく届くとは想像だに
しなかった私は、映画「パッション」(=受難の意)を起承転結の「起」に使って、
『誰がイェスを今でも十字架に架けているのか?』と皆さんに問いかけていました。
©マタイ伝27章20節~25節を読んでみますと、そこには当時の宗教的指導者たちが
群衆をそそのかし、嫌がるローマ占領軍司令官ピラトを圧倒的な群衆の声で脅迫し、
イェスを十字架に送ったことを知ることができます。
その群衆とはユダヤ人のことであり、ユダヤ教徒でもあり、主イェスのエルサレム
入城の時には自分たちの上着を脱いで道に赤い絨毯の代わりに敷いて、手には樹から
切り取って来た棕櫚の小枝を振りながら、『ホサナ!万歳!』とイェスを歓迎したの
です。 マタイ伝21章の初めの部分にもそのことが詳細に書き残されています。
ユダヤ教の宗教的指導者たちと、彼らに操られたユダヤ教徒たちがイェスを十字架
に送り込んだことは明白な事実です。 27章25節には、自分たちのやっていることが
どのようなことなのか、どのような結果を招くことになるのかを充分に承知した上で
の決断であった…ことを伺い知れます。
この箇所を聖書的根拠に反ユダヤ主義運動を煽るヨーロッパ人が今でも沢山いるよ
うです。 シェクスピアーの有名な「ヴェニスの商人」にもそのような反ユダヤ教徒
傾向を読み取ることができます。
© そこで、ここで質問が思い浮かんで来るのです…
それは、『もし今ここにイェスさまがいらっしゃったとするならば、誰がイェスさま
を再び十字架に架けるのであろうか?』ということです。 事実に反する仮定の質問
ですから『そのような質問は愚問だ!』と言ってしまえばそれだけのものですが…
しかし、この質問は、極めて重要な意味を持っていると思うのです。 どうですか?
© 『今もしここにイェスさまがいらっしゃるなら、誰がイェスさまを裏切り、誰が
イェスさまを十字架に送り込むのに一番積極的であろうか?』ということです。
聖歌400 番、黒人霊歌の『君もそこに居たのか?
Were You There ? 』を持ち出し
て来て、『それは私です!』などと仰る前に、冷静に考えてみて下さい。
© 誰が主イェスを十字架に架けているのでしょうか? 『職業的宗教人たちだ』が
答だと私は確信しているのです。 そして、職業的宗教人たちに無責任にくっついて
歩き回っている私たちアーメン・ソーメン教の日曜日朝の教会ゴッコのメンバーだと
思っているのです。 その答はエペソ書4章11節~16節にあると考えているのです。
© エペソ書4章13節~16節を読みますと、イェスをキリスト、神の御子、私たちの
救い主と信じる者たち、すなわちエクレシア、この世から呼び出された者たちの仕事
は、エクレシアのお互いが助け合って、神さまの御子イェスを信ずる信仰の一致と、
キリストを知る知識の一致とに到達して、全き人となり、キリストの満ちたりた徳の
高さにまで到達するためであると、そのように説かれています。
© そして、愛に在って真理を語り、私たちの全人格のすべての点に於いて成長し、
頭であるキリストに達することであり、キリストを基礎として、私たちクリスチャン
たちのすべてがお互いにキリストの生きた身体の節々として助け合い、お互いが互い
にガッチリと組み合わされ、各自がその分に応じて働き、キリストの身体、すなわち
エクレシア=教会を成長させ、共に愛の内に育て上げられることであると、そのよう
に説かれているのがよくわかるはずです。
© 教会=エクレシアを生きた身体と捉えて、めいめいがその一部分として自覚し、
みんなで協力しあって、主イェス・キリストの教会を、もちろん霊的な意味ですが、
立派で堅固な建造物に仕立てて行くことの必要性を説いています。
★ 当時の読者たちには、使徒パウロがここで語っている建造物というものが恐らく
アフロディテ(ギリシャ神話では恋愛と性愛の女神のヴィーナスのこと)偶像女神の
超豪勢な神殿の建築物を念頭に描きながら、主イェス・キリストのエクレシアの霊的
成長を促していたことを容易に理解できたものと私は推測しています。
アフロディテ神殿の超豪華さと、そこに常駐する神殿売春婦や売春夫の存在を全く
知らないなどと言う者は、当時の地中海文化圏の中では、恐らく一人も居なかったで
あろうと私は考えています。
特に現在のギリシャやトルコ、当時のコリント教会があった地方やエペソ教会など
があった小アジア地域、即ちエーゲー海を中心とした文化・宗教・哲学・政治・医薬
や外交などの世界に於いてアフロディテ神殿は大きな影響力を持っていたのです。
★ 更に、当時のエペソはローマ帝国アジア州の首都であり、狩猟女神アルテミスの
壮大豪華な神殿が存在していました。 古代七不思議の神殿とも呼ばれていた。
使徒パウロのエペソ教会宛書簡を読んだエペソのクリスチャンたちにとって、使徒
パウロが「大きくて堅固な建築物」と書いている時、それがその地のアルテミス神殿
や、ギリシャのアフロディテ神殿のことをたとえに語っていたことを、誰でも容易に
理解できたものと私は考えているのです。
© そのために、神さまは、『ある人を使徒とされ』、『ある人を預言者とされ』、
『ある人を伝道者とされ』、『ある人を牧する者=教師とされ』て、クリスチャンを
整えて奉仕の業をさせ、キリストの身体=エクレシアを堅固な身体に築き上げること
を計画されたと、11節~12節で説いています。
© 大切な箇所ですので、そして『誰が主イェスを十字架に架けてまた殺すのか?』
という重大な質問と深く関係していると私は思いますので、この箇所をもう一度よく
読んで見ましょう。
© ここで使徒パウロが使っている「使徒、預言者、福音伝道者、牧者・説教者」は
すべて複数形です。 先ずこのことに注意を払う必要があります。
© 使徒たち
apostolous は、当然のことですが、主イェスに直接任命されたお弟子
たちの一部のことですから、今日では存在していません。
© 預言者たち
profetas とは、「誰かのための代話者」という意味で、「神さまの
ために語り・神さまの代わりに語る者、神さまの真理を説き明かし得るための賜物を
与えられた者」という意味です。 「教会の徳を立てることができる語り手」という
意味でしょう。 旧約時代の豫言者と同じではありません。
© 福音伝道者達・福音宣教者たち
evangelistas は、英語ではエヴァンジェリスツ
evangelists と言い、同じギリシャ語の単語から同じ意味を表す英単語が作り出され
ているのですす。 日本語にはありません。 そこで福音伝道者とか伝道者、または
宣教師などというように日本語の言葉を造るしかありません。 本来のギリシャ語を
そのまま使って「福音者」というように使いません。
「福音説教者」ならまぁまぁ
何とか意味が通じるのかも知れませんが…
ただ、日本のプロテスタント諸教派教会の殆どに於いては「伝道師」という制度・
職名があって、「牧師先生の下にいる見習・実習・研修中の神学生」といったような
意味で使っているようです。 そういう意味での「伝道師」では勿論ありません。
© エペソ書4章11節が言う「伝道者」とは、「福音を述べ伝える説教者・宣教者」
という意味です。 クリスチャンでない人々に対して、この世界に対して、『イェス
はキリスト、救い主である』と解き明かしする説教者のことです。 世間一般に今日
使っている意味での「牧師」のことでもありません。 大切な点の一つです。
© 更に大切なことは、11節最後の「牧会者・教師」または「牧会者および教師」と
いう単語です。 これは一人の人が担っている二つの大切な仕事を表す単語です。
これも、こん日の私たちが一般に使ったり理解したりしている「教会の牧師さん」
や「日曜学校の先生」という意味では全くないのです。 とんでもない誤解です。
一人の人が牧師で、もう一人の人が教師…という意味でもありません。 神さまが
一人の人に与えられた二つの大切な仕事という意味です。 大切な点なのです。
© ここで聖書が言う「牧者
poimenas 」というのは、「牧会者」という意味です。
現在の世界で使っている「牧師さん」という制度は、新約聖書の中には全く出てこな
いものです。 ここでいう「牧会者および教師
poimenas kai didaskalous 」とは、
エクレシアを正しく牧し、エクレシアに正しい教えを教える者という意味です。
© ポイメナスとは「羊などの群に付添う者」という意味です。 牧者とか羊飼いと
か管理者とか世話人というような意味の単語です。 複数形です。
© このことを別の言葉で使徒行伝20章28節は説明します。 「監督または長老」と
いう意味です。 監督と長老は、新約聖書では、同じ意味で使っています。
主イェスが己の血潮をもって贖い出された貴い群を守り、養い、導く霊的指導者の
ことです。 この役を現在の殆どの教会では職業的宗教人としての「牧師」がやって
いるのです。 しかし、本来はそうではなかったのです。 現在の殆どの大きな教会
の長老たちが本来は現在の殆どの教会の牧師がやっている仕事を神さまから委ねられ
ていたのです。 現在の形での牧師というのは新約聖書の中には出てこないのです。
聖書が認めていない現在の長老職をやって欲しい、現在の牧師制度の下にあって、
殆どの場合、牧師よりも権限の少ない役職に留まってよいなどと、新約聖書は教えて
いないのです。 それは神さまの御旨でも何でもないのです。 冒涜です。
© エペソ書4章11節が語る「教師たち
didaskalous」とは、すでに述べましたが、
「日曜学校の先生」という意味ではないのです。 「教える人」とか「ラビ
rabbi」
(ヨハネ伝1章38節)という意味です。 宗教的・信仰的に人々を指導できる、聖書
的に充分によく学んだ人のことを意味しているのです。 それが聖書でいう牧者なの
です。 教師のことなのです。 それが本来の長老・監督の仕事なのです。 現在の
牧師のことでもなく、現在の牧師の仕事を意味するものでもないのです。
© これらの職務を神さまからお預かりした者たちがエクレシアを護り育て導くので
す。 これが新約聖書を通して神さまが私たちに意図されたエクレシアの在り方なの
です。
こん日の「牧師さん・神父さん・法王さま」を頂点とする「何々教団・何々教会」
などを新約聖書は全く知らないのです。 教えていないのです。 歴史の過程で人間
が勝手に主イェス・キリストの身体である教会・エクレシアにくっつけてしまったも
のなのです。 聖書的なものではあり得ません。 聖書が示していない歪んだ教会の
理解や姿を私たちは後生大事に死守しているのです。 殆どの人が、牧師ですら全く
わかっていないこと、考えたことさえないこと、そして衝撃的なことなのです。
★ もちろん個人的には私の尊敬している牧師さんもいらっしゃいます。
「仕える者」として夫妻で一生懸命に仕えきっておられる牧師夫妻です。 たとえば
品川バプテスト教会の日隈光男牧師夫妻は尊敬の念でしか考えられない素敵なご夫妻
です。 とにかく仕えることの専門家だとしか説明がつけられません。 ただし教会
の皆さんがそのことを当たり前のこととされているならば残念なことですが…
★ 私がこの地上で属している群は、新約聖書に忠実に在りたい…などと豪語してい
る群です。 それですから「牧師」という名称を避けて敢えて使いません。
その代わりに「伝道者」という言葉を選んで使っています。 しかし実際には他の
殆どの教団や教派が使っている聖職者としての「牧師」の仕事をやっているのです。
言葉で誤魔化しをやっているなぁと私は苦笑しながらもその群の中に今もいます。
© そういうわけですから私は『イェスさまを再び十字架に架けているのは誰か?』
と問いかけているのです。 もちろんその答は、一握りの職業的宗教人と位階聖職者
制度、そしてそれを容認し、支持し、追従している私たち「アーメン・ソーメン教」
の「教会ゴッコ」族なのです。 考えたこともない恐ろしいことなのです。
© 神さまがもともと意図されたこととは、各教会は単立であり、各教会は複数形の
監督(長老と同じ)によって指導され、訓練され、主イェス・キリストのエクレシア
を皆が祈りと智恵と力を合わせて築き上げるということでした。
前述の使徒行伝20章28節やテモテ前書3章1節~13節に明記されていますように、
神さまが願われたような複数形の長老たちが、人格的にも信仰的にも優れた長老たち
が選び出されて、エクレシアの物質面の世話をする執事の助けも得て、教会をイェス
さまの栄光を表すように、神さまが意図されたように活動させることでした。
とりわけテモテ前書3章に明記されている長老たちの資格は厳格なものです。
© それら新約聖書のどこにも現在のような形でのローマ・カトリック教会の姿や、
またローマ教会の腐敗堕落に抗議して飛び出したはずの抗議者たち=プロテスタント
たちの現在の姿は、ローマ教会と同じように人間の都合や勝手で制度化し組織化した
ものであって、プロテスタント諸教会の姿や在り方も、非聖書的・反聖書的なものに
しか過ぎません。 ローマに在った一教会が一人の長老(監督)の地位を高めたのが
現在の法王です。 明らかに聖書的根拠を欠く制度と法王だと私は信じています。
© 神さまが新約聖書の中に単純明白に示された神さまの教会に関する教えから離脱
した姿でしかありません。 それが「当たり前のこと」になってしまって、どなたも
そのことが異常であり、おかしいと思わなくなってしまっているのが現在の教会の姿
だと私は信じています。
© 牧師さん・神父さん・法王さまを頂点にしたピラミッド型の教会の姿はおかしい
のです。 長老というのも牧師の下に隷属しているのが正直な現実だと思います。
© 本来各教会は単立であり、各教会は複数の長老(監督)たちによって治められる
べきものだと新約聖書は教えていると私はそのように新約聖書を読んでいます。
長老たちによって教会は自治、自養、自伝、自教するのが神さまの御計画であった
と確信しています。 自らを治め、自らを養い支え、自ら伝道し、自らそのメンバー
に聖書を教えるように神さまは御計画されていたと確信しています。
© ほかの国のことは知りませんが、私たち日本の教会にとって、宗教法人上の役員
があたかも長老たちの職務を果たしているかのように錯覚していることが多いのも、
これも私にとっては大きな驚きです。 宗教法人格を持たない小さな教会を見下げる
ような雰囲気すら感じることがあります。 情けない発想だと思います。
宗教法人法というのはその教会が置かれている地の政治行政権力に対して、税金や
土地財産対策のために定められた人間の法律であって、霊的なこととか教会に関する
聖書の教えとは全く関係のないことです。 カイザルの物と神に属するものを混乱・
混在・同一視させてはならないのですが、このことを理解しない宗教人が多いです。
© そして更に衝撃的なことは、そして私たちがそれを当たり前のことと錯覚してい
ることがあります。 それは、本来は各教会は単立であり、教団だの教派本部などと
いうものを新約聖書は知らないのですが、本来の長老たち・監督たちがその貴い職務
を放棄してしまって、教会の殆どすべてのことを牧師先生サマに任せてしまっている
ことと、私たちも私たち自身を「平信徒」とか「一般信徒」と呼んで、長老さんたち
と同じように、牧師先生サマの旗の下に集まり、牧師や神父や法王の言いなりに従属
して、日曜日の朝だけ「教会ゴッコ」をやっているという哀れな現実です。 これは
新約聖書において神さまが示されている姿勢とは全く掛け離れた堕落した状態です。
© このことを疑わず、私たちは便宜さから、伝統だからという理由から、牧師制度
というもの、宗教的プロフェッショナリズムというものを考案してしまったのです。
神さまがお定めになった長老・監督の職責を放棄して、私たちの怠け癖も手伝って
私たちに便利な牧師制度という、新約聖書が知らない「専門職としての牧師制度」、
職業的聖職者制度、位階聖職者制度を神さまが御自分の御子イェスの貴い血潮で贖い
戻して下さった神さまのエクレシアに強引に押しつけてしまったのです。
© 更にです… この牧師制度というプロフェッショナリズムを恒久化する目的で、
私たちは「神学校」や「聖書学校」などの組織制度、インスティチューショナリズム
でこのプロフェッショナリズムを擁護し、両者が持ちつ持たれつの奇妙な関係を遂に
作りあげてしまったのです。 誰もおかしいとは思わなくなっているのです。
© エペソ書4章や使徒行伝20章やテモテ前書3章などの聖書の明白な教え、神さま
ご自身が本来意図なさっていた御計画と神さまがお作りになった制度を完全に軽視か
無視するようになってしまったのです。 長老・監督も信者も、完全に怠け者になっ
てしまって、聖書を読まず、聖書に従わず、便利な牧師制度に寄りすがって、牧師を
絶やさないために神学校を作りあげてしまったのです。 神学校が牧師を生み育てる
のです。 新約聖書の何処にそのような組織が描かれ、説明され、正当化されている
というのでしょうか? 聖書が語っていないことをどうしてやれるのでしょうか?
© 本来、クリスチャンの家庭と、クリスチャン家族が集うエクレシヤがやらなけれ
ばならないクリスチャン自身への聖書教育や訓練、クリスチャンの両親がやらなけれ
ばならない子女への聖書教育や霊的訓練を私たちは完全に放棄してしまったのです。
クリスチャン・ホームと、クリスチャンが集まるエクレシヤほど大切な単位はない
のです。 そこで行われなければならないことを私たちは放棄してしまったのです。
そして、キリスト教主義の学校に、とりわけ神学校に私たちの子女への聖書と信仰
訓練を委任してしまったのです。 私たちに神さまが委託して下さった特権と責任を
放棄したのです。 『誰がイェスを再び十字架に架けようとしているのですか?』
★ しかし、私は仲間たちが集まって、祈って作った手作り神学校に相当する学校で
教会史を教えていました。 宣教師に乞われて東中野でもクリスチャン・カレッジの
設立に手を貸し1年間無給で奉仕しました。 吉良賢一郎さんが生まれました。
時間的に逆の並べ方ですが、大阪聖書学院から乞われて、或る宣教師が教えておら
れた教会史をピンチ・ヒッターとして集中講義という形で、新幹線を利用して1年間
通ったこともありました。 もちろん、いずれも交通費だけ頂いて、あとは無料奉仕
でありましたが…。 良き交わりと楽しい学びができたことは感謝でした。
★ 日本のような非キリスト教世界にあっては、本来なら各家庭と各教会がやらなけ
ればならない貴い責務を家庭も教会も全く果たしていないという現実と、それが極め
て困難な状況の中にあることを充分に認識して、本来の家庭や教会の姿に戻すために
は、聖書の知識をまず特定の青年たちに教え、青年たちにも私たちが抱えている大き
な自己矛盾に気付いて貰い、少しずつ理想的な、そして本来在るべき姿に家庭と教会
を戻したいと祈りながら、仲間と一緒にそれらの学校の設立や運営にも協力したので
す。 誰にも話したことはあませんでしたが、複雑な思いや痛みが私の心の中にあっ
たのは事実でした。 今でもそうです。
★ また、新約聖書教会の在るべき本来の姿を上記のような個人的確信から強く主張
することが、神さまの諸教会間の交わりに対立や分裂を招いてはいけないという思い
も強くあって、教会の一致を保つために、必要以上に強調しては来ませんでした。
私のような教会観を理解して下さる方は少ないであろうと思いますから、そのこと
を強く主張し過ぎれば更なる分派を生み出すことにつながるであろうと怖れました。
既存の私たちの諸教会間の交わりの中で、忍耐と希望と確信を抱きながら、聖書的
な教会の姿を少しずつ一緒に模索する方が更に善いことであろうと思う次第です。
© 話を元に戻します。 主イェスを十字架に架けたのはユダヤ教職業的宗教指導者
たち(デスク・ワーカーズとも呼べるかも知れませんが)と付和雷同の信者たちでし
た。 彼らの手からイェスは神を、福音を取り戻して、信望愛を信じる者たちの手に
戻されたはずでした。
★ マタイ伝4章23節~25節を参照しますとヨハネが捕らえられたとお聞きになった
あと、ガリラヤに退かれ、そこからイェスさまの公生涯を始められました。
ガリラヤ全土を徒歩で巡回され、ユダヤ教の律法がユダヤ教の律法学者や長老たち
によって説かれていた会堂にイェスさまが入られ、そこでイェスさまは宗教的指導者
たちが説いていた解釈の誤りを指摘して神への正しい信仰を示されました。
御国の福音を説かれたとあります… それまで無知であった人々に希望を与えられ
たという意味です。 民の中にあったあらゆる病気を癒し、人々の心の奥深くに秘め
ていた悪しきさまざまな邪念から人々を解放し、愛することを教え、愛を与えられた
のです。 信望愛を人々に与え、神を人々の手の中に取り戻されたのです。
© しかし、そのイェス・キリストの教会もまたすぐにキリスト教という職業的宗教
指導者たちの手によって再び教会堂という神殿の中に閉じ込められてしまったままな
のです。 『イェスを再び十字架に架けて殺すのは誰ですか?』と問いました。
その犯人とは、そのような職業的宗教人、位階聖職者制度を認め、支持し、それに
従属する私たちなのです。 如何なものでしょうか? 私は「異端」でしょうか?
© 主の聖晩餐の席に侍る時、もう一度お赦しを得る必要があるのは私なのです。
皆さんは如何でしょうか? (注©=本文という意味。 ★=脱線補足箇所の意味)