《 十字架はアクセサリーですか? 便利なお酒ですか? 》
★ 先日のことですが、久しぶりで都内を走る私鉄に乗りました。 小田急線です。
千歳船橋駅から代々木上原駅までを各駅停車で、帰りは急行で上原駅から経堂まで…
私たち夫婦が東京を離れて八ヶ嶽南麓に移住してすでに20年を越えました。
駅のプラットフォームで電車を待つ人も、車内の人も、服装もマナーもすっかり変わ
り、「お上りさん老夫妻」には戸惑うことが数多くありました。 特に若者たち…
それでも老夫妻に座席を譲ろうと声を掛けて下さった方々もあり安堵しました。
★ 上下線車内で見かけたことの一つに若い女性たちのアクセサリーがありました。
十字架型のイヤリングやネックレスでした。 それらの女性がクリスチャンだとは
思いませんでした。 そして、『どうして十字架を?』と心の中でひそかに訝イブカ
り
ました。 『アクセサリーなんだから、そういちいち目角を立てるな!』とも自分に
言い聞かせました。 そう言えば
NHK-TV 女性アナウンサーも身に着けていることが
ありますしね… まぁ、短時間でしたけれど人間ウォッチングを楽しみました。
★ ところで、十字架といえば、それはやはりコリント前書1章18節~23節です。
『十字架の言コトバ
は滅び行く者には愚かであるが、救いに与る私たちには神の力で
ある。 すなわち、聖書に「私は智者の智恵を滅ぼし、賢者の賢さを空しいものにす
る」(イザヤ書29章14節)と書いてある。 智者は何処に居るのか!? 学者は何処に
居るのか!? この世の議論家は何処に居るのか!? 神はこの世の智恵を愚かにされた
ではないか!? この世は自分の智恵によって神を認知できない。 それは神の智恵に
適っている。 神は宣教の愚かさによって信じる者を救おうとなさったのである。
ユダヤ人は標シルシ
を求め、ギリシャ人は智恵を追求する。 しかし我らは十字架に
架けられたキリスト Christ crucified を述べ伝える。 このキリストはユダヤ人
には躓きであり、異邦人(=神を知らない人々)には愚かなものである。 しかし、
(十字架のみ許に)召された者には、ユダヤ人であろうが、ギリシャ人であろうが、
キリストは神の力、神の智恵である。 神の愚さは人よりも賢く、神の弱さは人より
も強いからである』
★ イェスが神の国を説いて活動されていたころ、また使徒パウロがキリストに遭遇
して改心して福音宣教に従事していた頃の世界は未だローマ帝国の支配下にありまし
た。 当時の地中海世界内では、ユダヤ人たちは何世紀にも亙る外国支配から軍事的
に解放され、自分たちの国を回復し、国の繁栄を切望していました。
王国の解放と統一と回復の標を求めていました。 その為に救世主が出現すること
を切望していました。 選民意識という考え方に凝り固まった世界の宗教的指導国民
だとの誇りを抱いて、エホヴァという神ひとりを中心に動く民族でした。
ひと握りの職業的宗教人、位階聖職者意識と組織と伝統に生きるが、冷たい律法と
いう「神の言葉」を振り回しながら、それでも自分たちは神から選ばれた特別な民だ
という強い自負心で凝り固まった民族でした。 余りにも人間的な神々を中心とする
ギリシャ人を軽蔑していたのは言うまでもありあません。
★ 一方、地中海文化の担い手を自負していたのがギリシャ人でした。
二元論という思想も蔓延していました。 ユダヤ人を軽蔑していたと思います。
目に見えない神に生贄イケニエを捧げて得々としているユダヤ人を蔑視していました。
確かにキリスト前約四百年にはソクラテスという哲人がいました。
弟子にプラトンという哲人がおり、さらにその弟子にアリストテレスがいました。
これらの智恵者・議論家たちが、現在に到るまで、キリスト教会を含めた西欧文化に
深く影響を与えていることを否むことはできません。
しかし、ギリシャ人の神々は、よく考えてみますと、酒の神だの、戦争の神だの、
ミロのヴィーナスが代表するような色恋の神々だの、人間が抱いている本能的慾望を
実によく表現した神々です。 人間のミニチュア版そのものです。
自らは地中海沿岸文化の担い手のように錯覚していたのでしょうが、しょせん人間
の物慾や性慾や権力慾や所有慾の縮図にしか過ぎなかったと思います。
★ イェス・キリストや使徒パウロの時代の地中海沿岸世界には、ユダヤ人に言わせ
れば、そのほかにも「まことの唯一なる神を知らぬ民たち」が居たのです。
ローマ帝国内にいて、ローマを中心に歩き回って居た諸国の民で、ユダヤ人は彼らを
神を知らぬ哀れな「異邦人」と呼んで蔑んでいました。
★ その意味では、私たち日本人も天地宇宙の創造者、聖書の神を知らない異邦人の
一部です。 そして日本人が信じている神の実態、神のほんとうの姿とは、私たちが
毎日毎晩テレビで実は身近に見ているのです。 気がついていないだけです。
酒や自動車や健康保険や薬用酒や清涼飲料水、グルメ食堂行列熱や百貨店地下街の
食料品売場行列熱、新年福袋殺到熱、数え始めれば、何本指があっても足りません。
そのほかにも家内安全・商売繁盛・無病息災・入学祈願…いっぱいあります。
正月の三ヶ日だけ考えてみても延べ一千万人も二千万人もの「善男善女」が神社で
貪慾な望みを切望しています。 二月には「福は内・鬼は外」とやります。
群衆の中には十字架のアクセサリーを身につけている女性も大勢いるのです。
アメリカの原理主義福音派教会のハレルヤ絶唱集会も、韓国のそれも同じようだと
私は思っています。 日本の多くの教会の「ハレルヤ主よっ!」も同じだと思ってい
ます。 オウム教団で「修業している絶叫集団」と外見は違うように見えても中身は
ほとんど同じです。 宗教という酒に酔っ払っている異常集団です。
★ いずれにしても、この世の智恵者であれ愚者であれ、聖書が説く十字架の福音の
力というものの前には、今ここで述べてみましたような神々も、智恵者も権力者も、
まったく力がないし、意味もないと思うのです。
それは、この世の智恵も学問も議論も神々も、天地万物を創造なさり、これを治め
たもう神を測ることもできないし、洞察することもできないし、代役を勤めることも
できないのです。
ヨハネ第1書4章16節が言うように、『神は愛なり』ということを説明することが
できないし、そのような神の方向に私たちを導くことができないのです。
★ 神を知る唯一の方法は十字架を通してです。 十字架を見上げることからです。
十字架を熟考することからです。 讚美歌
142番と聖歌 158番は『十字架を仰ぐ』と
翻訳していますが、英語原文では survey 「精査する、しげしげと見る、鑑定する、
調査する」などの意味です。 時間をかけて詳しく調べるという意味です。
十字架がこの私にとってどのような意味を持っているのかを熟考することによって
神が愛であることを知り得るのです。 人がそれ以外に神を知ることはできません。
ヨハネ伝15章13節でイェスは『人がその友のために己の命を捨てることこそ最大の
愛である』と弟子たちに語られたのですが、その時の弟子たちにはイェスのこの発言
の意味は全く理解できなかったのです。 十字架の出来事に遭遇して、イェスが埋葬
されて、そのイェスが復活なさった後になって、ようやく理解できるようになったの
です。 イェスと三年間も一緒に居ながらイェスがわからず、十字架を通して初めて
イェスを理解できるようになって行ったのが弟子たちでした。
★ それよりも、その人が「己を日々十字架に架けて主イェスに自分の出来るペース
でやりたい」と願っておられるのかどうかということが大切だと思うのです。
ロマ書12章の最初の部分で使徒パウロはそのことの重要性を説いています。
『神の憐れみによってあなたがたに懇願するが、あなたの体を神に喜ばれる、生きた
聖なる生贄イケニエとして提供しなさい。 これこそが神への理に適ったあなたの礼拝
(=仕えること)である。 そしてさらに、この世(=時代)に適合・順応・従わせ
ないようにしていなさい。 それよりも、あなたの心を一新することによって、別の
性格・性質・構造に変化・転換され、神の御旨が何であるのか 、何が善いのか、
何が神を喜ばすことなのか、何が完全なものなのかを立証しなさい』
★ しかし、このロマ書の使徒パウロの誠実で厳粛な勧めとは裏腹に、私たちは何か
困ったことが起るとお祈りと称するものを口ずさむようになります。
黙って聴いていると何のことはない、ご利益宗教むき出しの『~してちょうだい』
式です。 小田急線の車内で目撃した「十字架のアクセサリー」と殆ど同じです。
1968年以降、韓国に五十数回渡り、各地で朝四時からの早天祈祷会というのに出席
しました。 床の上に正座して一時間ほど彼らの熱心な祈りを黙って聴きました。
韓国語がわかり始めて気づいたことなのですが、熱烈な彼らの祈りの大部分には、
『主よ、~してちょうだい』が多いということでした。 大きな驚きでした。
★ ルカ伝23章39節にはイェスと一緒に十字架に張り付けにされた強盗の捨て台詞が
書いてあります。 『それだからよう、おいらを救ったらどうなんだい!?』です。
自称・他称クリスチャンの殆どの祈りは結局のところ『~してちょうだい』です。
『病気が直りますように…』とか『試験に受かりますように…』です。
★ 『このことにおいて主の御旨が成されますように…』という祈り、ゲッセマネの
園のイェスの祈り(マタイ伝26章39節)と同じような祈りを聴くことは極めて少ない
かと思うのです。 ご利益宗教の祈りと本質的に何も変わっていないのです。
恥ずかしい次第ではありませんか? 讚美歌
337番を歌えるような状態からはほど
遠いように思えます。 ピリピ書1章21節をどう読んだらよいのでしょうか?
『私にとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である』ですが…
★ また「宗教という名の酒」(エペソ書5章18節)に酔っ払っている人々はとかく
安易に『私は神に仕えるのだ』と豪語する傾向があるようです。
しかしそのような「神がかった熱心な人」が言うほんとうの意味は、もしかすると
『私は神の助言者役をやるのだ』というような傲慢さを秘めていることもあります。
『俺が神さまに手を貸してやってんだ』ということです。 とどのつまりは「自分」
なのです。 「私」なのです。 「Me-ism」なのです。 中心は神ではないのです。
「神さまに日々仕えているのは俺さまだ」と自慢しながら、「実は一度も神さまと
接していないということに気づいていないのは本人だけ」ということもあり得ます。
★ しかしマタイ伝10章38節~39節、ルカ伝9章23節~24節、14章27節、17章33節、
ヨハネ伝12章25節を読んでみますと、十字架というものは、「困った時の神頼み」式
に十字架にやって来るものでもなければ、自分の都合のよいように物事が動くように
と十字架の上のイェスを見上げることでもないことが「よぉ~く」わかると思うので
す。 『先ず神の国と神の義とを求めなさい』(マタイ伝6章33節)です。
『誰でも私(イェス)に付着して来たいと思うなら、自分を捨てて、毎日の生活の
中で自分の十字架(=つらいこと)を背負って私に密着して来なさい。
自分の(この世での)命(=含む財宝)を救うおうとする者はそれを失い、私の為に
自分の命を失う者はそれを(神が支配される現世を含む神の国で)救うであろう』。
★ また、イェスはマタイ伝7章21節でおっしゃっている大切なことがあります。
『私に向かって「主よ、主よ」と言う者のすべてが天国に入れるのではい。
ただ、天にいます吾が父の御旨を行う者だけが入るのである』と…
★ 十字架は、あなたにとって、おまじないですか? アクセサリーですか?
それとも自己陶酔できる便利なお酒ですか? 麻薬ですか? どうなんでしょう?
それとも『私はキリストと共に生きるために…キリストと共に十字架に架けられた』
(ガラテヤ書2章19節~20節)なのでしょうか?
更にまた十字架の故に、十字架で『私は日々死んでいる』と使徒パウロはコリント
前書15章31節で言っていますが、あなたにとって十字架とは、適当に自分を宗教的に
熱心な者であるかのように錯覚させるための便利な陶酔道具なのでしょうか?
それとも「かっこいいアクセサリー」なのでしょうか? 即席魔法酒でしょうか?
十字架とは、「あなた」にとって、一体全体どのようなものなのでしょうか?
主の食卓に与るたびにこのことを自問自答し、十字架の主に答える必要があります。
そして、日々の生活の中で十字架を覚える誠実な生活であろうかと思いますが…
少し言葉が過ぎて厳し過ぎたでしょうか? それならそれで「余言者」の「余言」
をお許し願います。 ロマ書13章11節~14節をお贈り致します。
『今は眠りより覚むべき時なり。 初めて(十字架のイェス・キリストの福音を)
信ぜし時よりも今は我らの救い近ければなり。 夜更けて(キリストの再臨の)日
近ずきぬ。 然れば我ら暗黒の業を捨てて光明の鎧ヨロイ
を着るべし。 晝ヒルの如く
正しく歩みて宴楽・酔酒・淫楽・好色に、闘争・嫉妬に歩むべきに非ず。 ただ汝ら
主イェス・キリストを衣キ
よ。
肉慾のために備えをすな』(文語訳聖書より)