《コルネリオがクリスチャンではなかったんですって?  マサカ?!

                          使徒行伝10章1節と22

 

  私たちが言う「信仰」という場合、それは、神の御子で救世主イェス・キリスト

を心の底からそのように信ずることを意味するとでも言えるかと思います。

  イェスの十字架上での贖罪の業を信じ、その埋葬を信じ、その復活を信じ、やがて

また再臨し給うことを信じて、イェス・キリストの贖罪の業によって罪ある私たちの

罪が一方的に恩寵によって赦され、主の者とされ、主の栄光のために生きる者とされ

たのだと、いろいろと定義はできますが、まずそのように言えるかと思います。

神さまに対して心から己の魂、己の砕けた心を向ける者と言えるかとも思います。

 

  使徒パウロはそのことをコリント後書4章13節で「信仰の心」と言っています。

「信仰の霊」でもよいでしょう(原語は pneuma 、英語は the spirit of faith)。

ロマ書3章27節では「信仰の法則」「信仰の原理」(原語は nomos、英語は law

によるのだと言っています。  旧約聖書イザヤ書66章2節は『私が顧みる人はこれで

ある。  すなわち、へり下って心悔い、わが言葉に怖れおののく者である』と説明し

ています。  神さまに向かって心砕かれ、神さまもその人の崇敬な心の態度を認めて

下さるような人のことを「信仰者 the believers」と呼べるのかと思います。

 

  私たち日本に住むクリスチャンにとって、イェスの名すら耳にしないままでこの

世を去って行った私たちのご先祖さまの魂はどうなるんですか?  どうなったのです

か?…などに就いて教会や牧師はどう返答をしているのでしょうか?

 

  隣国の北朝鮮も中国も共産主義独裁政党が支配する地域です。  そのなかでも特に

北朝鮮の人々がイェスの名を聞く機会は殆どないでしょう。  イェスを信じていると

わかれば強制労働所送りか炭坑に送られ死を迎えるということになりましょう。

このことはイスラム世界においても大体において同じであろうと思います。

 

  イェスの名を聞いたことがないままで、世界の多くの人々は喘ぎ苦しみながらこの

世をかろうじて生き抜き、そのあと挙げ句の果てに死を迎えているのです。

  これらの魂は、イェスを信じなかったからという理由で永遠の滅びに到るのでしょ

うか?  これは余りにも不公平な話です。  そして、そのような神さまであると仮定

するならば、余りにも無慈悲で冷たくて恐ろしい神さまだということになります。

そんな神さまなら私は信じたくありません。  イスラム原理主義派が唱える報復殺戮

を容認する?アッラーの神さまとたいして違いがないように思えます。

 

  このことに関しては、すでにいくどかロマ書2章から説明を試みました。

すなわち、イェスの名を知らなくても、旧約の律法を知らなくても、各自に与えられ

た良心というものを用いて、何かしら超自然的な人格=神の存在を感知して、義しい

と信じることを行って生きた者には、公平で恩寵に満ち給う創造主なる神さまが正し

い裁きをして下さるとロマ書2章には記されているといくども述べたとおりです。

 

  このことは、特にユダヤ・キリスト教文化圏外に住む世界中の多くの人々にとって

極めて大切な聖書箇所であると私は信じています。  しかし教会は考えないのです。

  その人がユダヤ・キリスト教文化圏に住む人であれ、そうでない人であれ、そして

また旧約聖書の時代に住んでいた人であれ、新約聖書の時代に住む者であれ、神さま

を信じるということは、特定にキリスト教会の教えや信仰告白を順守するということ

ではなく、ある特定のキリスト教の教派や教団に属するということではなく、『ただ

ただ信仰によってのみ義とされる』という点において少しも変わらないのです。

 

  旧・新約聖書のどこを読んでみても、信仰以外の方法で神を知り、神を誉め称え、

神に喜ばれる方法があるなどとは書いていないのです。  「信仰によるのみ」なので

す。  それ以外の方法・手段で人が義とされ、救われるなどということはあり得ない

のです。  人の努力や業によって人が義とされるということは不可能なのです。

 

  さて、使徒行伝10章1節と22節を熟読してみますと…

コルネリオという、カイザリヤ地域(ガリラヤ湖の北約50粁の地域)を占領していた

ローマ帝国陸軍イタリヤ部隊所属の兵士百人を統率する将兵のことを記しています。

  コルネリオは明らかにユダヤ人ではなく、ユダヤ人から見れば異邦人です。

しかも、ユダヤ人が最も憎しみを覚えていたローマの占領軍の将校です。

  しかし『信心深く、家族一同と共に神を敬い、(貧しい)民に数々の施しをなし、

絶えず神に祈りをしていた』と使徒行伝の記者はコルネリオのことを書いています。

  22節では、『正しい人で、神を敬い、(占領下にあった)ユダヤの全国民に好感を

持たれている百卒長コルネリオ』と再び強調して紹介しています。

 

  二千年前のローマ帝国時代には、すべての民がローマを中心とする巨大な領土内を

「まるでローマを中心とする大きな池のように回遊していた」と教会史は説明してい

ます。  ほとんどの人々は現在のように定着・定住しないで、行商人や旅役者や奴隷

の身分で、領土内を旅する軍人や政府役人たちに追従して歩き回っていたのです。

 

  マタイ伝2535節、テモテ前書3章2節や5章10節、ヘブル書1113節ペテロ前書

2章11節などが語っている、その日その日の一食一泊すら他人の情けにすがりながら

生きざるを得なかった『旅人・宿れる者・寄留者』という表現の裏には、そのような

事情があったのです。  アブラハムやモーセの時代から人々は彷徨していたのです。

 

  そのような訳ですから使徒行伝11章2節でいう「貧しい民」というのは、必ずしも

カイザリヤ地域に定住する民だけを意味していたのではないと私は思っています。

  それですから、コルネリオの善行は、死ぬまで帝国領土内を歩き回って居た難民や

移動民を媒介して全ユダヤ・イスラエルの間に知れわたっていたと理解できます。

  そしてコルネリオはユダヤ人でもなければ、クリスチャンでもありませんでした!

憎きローマ占領軍の将校の一人でした!  極めて異例のことであったのです。

  クリスチャンでもなければ、旧約聖書の律法を信じて生きているユダヤ人でもない

異邦人を聖書は『信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しものをなし、

絶えず神に祈りをしていた…正しい人で、すべての民に好感を持たれていた』と紹介

しています。  このことにほとんどの教会は注目していないように思えます。

 

  『おいらはイェスを信じるクリスチャンだから天国行きは大丈夫さ!  お前らは

イェスを信じていないから地獄行きだ!』などといとも単略的に説く傾向のある教会

の牧師や信者たちにとって、このコルネリオに関する聖書の証言をどのように説明し

ようとするのでしょうか?  安易な自己満足的「アーメン・ソーメンの教会ゴッコ」

では片付けられれない問題提起だと私は思うのです。  如何でしょうか?

 

  コルネリオは「義しい人」として扱われています。  神に対する心からの畏敬の

念と神を信じる謙虚な心と、それを他者との関係で実行に移していたという事実から

判断して、また旧新約聖書が主張する「信仰によって義とされる」という正当な定義

から見てみても、コルネリオが神さまの御旨にかなった人物であるということを否定

することはできないのです。  重ねて強調しますが、コルネリオはクリスチャンでは

なかったという事実です。  しかし、神さまの目に留まっていた義人でした。

 

  マラキ書1章11節を読みますと『日の出る所から没する所まで、国々の内に吾が

名は崇められている。  どこでも香と清い捧げ物が吾が名によって捧げられている。

これは吾が名が国国の間に崇められている…と万軍の主は言われる』とあります。

  預言者マラキが主張していることは、主なる神は全世界に御自分を啓示されている

ということです。  そして神を信じる者たちが多く存在しているということです。

 

  使徒行伝1723節で使徒パウロはアテネの住民に対して『あなたがたがすこぶる

宗教心に富んでいる人々であると私は理解している。  アテネのあちこちの街角には

あなたがたが拝んでいるいろいろな偶像の祭壇があるのに気が付いた。  知られざる

神と偶像に彫り込まれている偶像のことだ。  あなたがたはその名を知らないようだ

が、それこそが実は天地万物を創造された神なのだ!』と説明しています。

  パウロはアテネの偶像が表している見えない神こそ実は彼自身が信じ宣教している

創造主なる神なのだと言っているのです。  このことは、我が国に於いてちよよろず

の神々を拝む同胞に対する私たちの宣教に対して重大な示唆を含むものであると私は

理解しているのです。

 

  偶像を拝む同胞たちは彼ら自身にはわかっていないけれども、真の神を拝む信仰

の心があるということでしょう。  決して「地獄に行く人たち」ではないと私は思い

ます。  イェスの名を知らないだけの人々であり、イェスの十字架の贖罪の話も意味

もまだ知らない人々であるだけです。  信じる心を充分に持っている人たちです。

 

  イェスの福音を充分に聞いて、その意味を理解した上で、福音を自らの意志と決断

で拒絶した人々では決してないのです。  英語で言うunbeliever「信じていない人」

というよりも、日本語で言うイェスを「未だ信じていない者」という状態だと思いま

す。  世界中のほとんどの人々がそのような状態にあると理解してよいと思います。

  そのような状態にいる人々が、そのまま「真っ直ぐ地獄に直行する人びと」である

などと私は到底考えていません。  神さまがそのようになさるとは信じられません。

 

  使徒パウロのように、それですから、私たちは信じる心を持っている世界中の多く

の人々に、実は知られざる神さまこそ創造主なる聖書の神であり、その神が御自身を

十字架の上で示されたのですよ…と、そのように私たちが宣教する必要があるのだと

説いていると、私はそういう意味で宣教の必要性を強く覚えているのです。

 

  問題なのはむしろ、聖書に充分に接触する機会が与えられており、イェスとその

十字架の意味を個人的に充分に理解する折が与えられていたのにもかかわらず、自分

自身の意志と決断と選びでイェスを拒絶する人、神を拒否し、神を捨てる人こそ問題

だと思うのです。  英語で言えば disbeliever「信仰を否認する者」です。

 

  そしてそれこそがイェス御自身がマタイ伝7章21節で警告されたように、『主よ、

主よ、という者が、すべて天国に入るのではなく、ただ、天にいます吾が父の御旨を

行う者だけが入るのである』という意味であると私は確信しているのです。

 

  「アーメン・ソーメンの教会ゴッコ」参加者のすべてが天国に入れるわけではない

と私は理解するのです。  『自分はクリスチャンだから大丈夫』と口先だけで思って

いる者も、『世界伝道だっ!』と騒ぎ立てているクリスチャンも、そして教会自身も

この点に於いては謙虚に自分の信仰の実態を客観的に洞察し、自分の日常生活の中で

の信仰の在り方を吟味すべきことだと、私はそのように思っているのです。

 

  使徒行伝1114節は『人をやって…ペテロを招いて…その人にあなたとあなたの

全家族が救われる言葉を語って貰いなさい』と語っています。

  イェスのことを知らないまま、知られざる神々を拝している人々に、真の神を説明

し、真の神を信じるように説得する必要と責任がクリスチャンに託されていると私は

考えます。  それがマタイ伝281820節に示されている大宣託の意味でしょう。

 

  『教会に行っている俺さまたちとは違って、彼らはイェスを主と信じていないから

地獄に直行するんだ!  それだから伝道しなくっちゃ!』  というような単略的発想

で世界宣教をしなさいとイェスは命じていらっしゃらないと私は理解するのです。

  何故なら、それらの人々は、それらの人々の理解している範囲内で、神を信じて、

彼らなりに正しく生きようとしているからです。  ロマ書2章が語っている点です。

 

  使徒行伝1810節を読みますと、神さまは『その町には、私の民が大勢いる』と

おっしゃっています。  クリスチャンでない人々のことを神さま御自身が「私の民」

と呼んでおられるのです。  神さま御自身が選ばれた人々なのです。

 

  コルネリオと同じ状態に在る人々、「知られざる神」を拝している人々と同じ状態

に生きる人々です。  これら信心深い人々に対して『あなたの信じている、あなたが

その名を知らない神こそ、実は十字架の主イェスなんですよ』と説明してあげれば、

人々はイェスをキリスト、神の御子、救い主として信じることができるのです。

 

  ガラテヤ書4章8節が言うように、『神を知らなかった時に、本来神ならぬ神々に

神々の奴隷になっている』人々であるのです。  真の神へ彼らの視線を導き、向けて

あげればよいのです。  それが私たち主イェスを主と信じている者の責任と特権だと

思います。  それらの人々は『おいらとは違って、地獄に直行する人々』では決して

ないのです。  教会もクリスチャンも改めて考え直さなければならない点でしょう。

 

  それよりも、私たち「教会に行く者=church goers」自身が留意しなければなら

ないことは、前述のマタイ伝28章にしめされているイェスの大宣託の後半部にも説か

れているように、イェスの教えを忠実に学んでいるのかどうかという点でしょう。

 

  エペソ書2章6節~10節に示されているように、私たちは『神の作品』なのです。

『私たちが善い行いをして日々を過ごすように』というのがその目的です。

  これはクリスチャン各個人を指すのであって、教会全体を指しているのではないと

私は理解します。  他者はどうあれ各個人の在り方が問われていると信じています。

 

  ガラテヤ書4章19節ではそのことを『あなたがたの内にキリストが形成される』

という表現を使って説明しています。  私たち一人ひとりの人格の内に主キリストの

御姿・似姿が形成されて行くように…と、これには人がその全生涯を賭けて・懸けて

祈り求め続けて行かなければならない作業目標と課題です。  教会に課せられたもの

ではなくて、各個人に課せられた課題なのです。  各クリスチャンの宿題です。

 

  そのためにガラテヤ書2章19節~20節に示されているように、『神に生きるために

日々キリストに在って自分を十字架に架ける』いう個人的な作業課題があります。

  その目的は、同じくガラテヤ書5章22節~24節に示されているように、私たち一人

ひとりが、時間をかけて、その生涯を通して、御霊に導かれ、育まれ、養われながら

『愛、歓喜、平安、寛容、慈愛、善意、誠実、柔和、自制』という実を内から外へと

実らせて行く特権と祈りの課題を与えられているということです。

 

  「実」というものはインスタントにできるもではありません。  何年も、何十年も

かけて、御霊が創り出してくださる恩寵の賜物であると私は理解しています。

インスタント・クリスチャンというのはあり得ません。  信望愛を抱いて「主を待ち

望む姿勢」が必要です。  人がその人生を賭ける価値のある目標と作業なのです。

  「実」はその枝に留まっていなければ実りません。  イェスという枝につながる・

留まるということです。  ヨハネ伝15章前半の課題です。

  「実」の成長は、外側から眺めていてもわかりません。  実はその内側から外側に

向けて育って行くのです。  御霊が私たち各個人の魂の内側から創り変えて、育てて

下さるものです。  外側から内側に向かってではなくて、内側から外側に向かってと

いうことが大切なのです。  サムエル前書16章7節の問題と同じでしょう。

  どのようにしたらエゴイストのこの自分が愛を宿し、愛に溢れ、愛に富む人となる

のか、なれるのかということでしょうか。  時間と祈りと努力が必要な課題です。

 

  テトス書2章11節は『すべての人を救う神の恩寵が現れた』と証言しています。

神さまによって救いの完成を待ち望む者に対して神さまの霊が助けて下さるのです。

それは人の力では到底できないことで、「とこしえ」に関係する最大の仕事です。

  イェス・キリストの似姿を宿す者となりたいと願う者にとっては、神さまの恩寵が

どうしても必要になってきます。  人の業では到底できないことなのです。

 

  コリント後書5章19節で使徒パウロは、キリストに在ってこの世は神さまと和解

させていることを語っています。  神さまはその罪科の責任をこの世に在るすべての

人に負わせることをなさらないで、その前に、むしろ私たちクリスチャンに対して、

私たちに和解の福音の責務を委ねられたのだと、そのように語っています。

 

  今まで不注意に聖書を読んでいた教会にとって、牧師にとって、また善良な信者に

とって、この箇所を注意して読んでみますと、これは衝撃的な箇所です。

  『すべてのノン・クリスチャンは地獄に直行するのだ!』などと聖書は語っていな

いのです。  多くの教会とその牧師たちが熱心に『ノン・クリスチャンたちは裁かれ

て永遠の滅びに行くのだ。  それを防ぐために伝道するのだ!』と叫びがちですが、

それらの人々に、彼らが信じている名前不詳の神こそ、実はそれがイェス・キリスト

であると説明し、十字架の意味を説明に行く必要があるというのが妥当でしょう。

 

  しかし十字架の福音を充分に聴く機会が与えられていながら、自らの選びで福音

を拒絶する者こそ、 disbelievers こそ滅びに行くしかほかの道がないようです。

  聖書は unbeliever まだ福音を聴いたことのない人々、未だイェスの名を知らない

人々が神さまによって裁かれるとは言っていないのです。  むしろ、自ら神を自分の

意思で拒否する者こそ恐ろしい結末を迎えると教えているのです。

  それですからヘブル書6章4節~8節は『いったん天よりの光を受けて、天からの

賜物を味わい、聖霊に与る者となり、神さまの善き御言葉と来世の力を味わった者』

が自分の意志で神さまを拒否し、堕落する場合にこそ、恐ろしい結末を迎える』と、

そのように警告していると私は考えています。

 

  目の不自由な人が神の創造の奇しき業を見ないからといって、神さまがその人を

裁くということはあり得ない筈です。  聴力の不自由な人が讚美の歌を聴いたことが

ないから讚美していないということで裁かれるなど、これもあり得ないことです。

 

  北朝鮮やイスラム世界に住む人がイェスを知らないからといって神さまに裁かれる

ということはあり得ないことです。  神さまは彼らをも神の愛の対象として創造され

たのですから、彼らが福音を聴くことができない状態でこの世を去っても、公平で愛

に富み給う神さまは、神さまのご判断で彼らを扱って下さる筈だと私は確信していま

す。  そうでないとロマ書2章12節~16節の説明がつかなくなります。  むしろ福音

伝道を怠けているクリスチャンたちこそ神さまに問われるであろうと思います。

 

  人々に必要なことは、人々が十字架の福音を聴く充分な機会を与えるということで

あると思います。  そしてその和解の責務と特権とは私たちクリスチャンに託されて

いると解するのが正しいと前述のコリント後書5章19節が教えているのです。

 

  詩編 145編8節『主は恵み深く、憐れみに満ち、怒ること遅く、慈しみ豊かです』

と語ります。  神さまは公平なお方です。  それが『神は義なり』という意味です。

 

  私たち一人一人に与えられている祝福と特権と責任を改めて覚えたいものです。

イェスを救い主として信じていない多くの他者のことではなくて、まず私たち自身が

私たち自身の信仰を吟味し、私たちの内にキリストの似姿・御姿が形成されてゆくの

を願うことでしょう。

 

  そして『あの人たちはイェスを信じていないから滅びの国に行くのだ』などと軽軽

に口にしないことです。  彼らが安全であることを神さまは充分にご存知です。

  そのような状態にある多くの人々にイェスの十字架の意味を語ることが大切です。

むしろ彼らが私たちの日常生活の在り方を熟視していることに留意すべきでしょう。