《出来高ばらい》

 

  一度も顔と顔を合わせてお目にかかったことがないのですが(長女の恩惠メグミ は

ありますが)、テキサス東南部に在住の教友で親しく文通をしているビル・シェリル

Bill Sherrill さんとおっしゃる方がいらっしゃいます。  そのビルさんが若い時に

『オヤジから聴いた話しだが…』と逸話の一つを話して下さったことがありました。

We'll pay you what you are worth”という、或る青年の雇用に関する小話です。

 

  或る一人の青年が職を求めて訪ねて来ました。  ビルさんのお父さんが面接をされ

ました。  当然のことですが、給料について話し合いになりました。

  直訳しますと、『君の価値に応じて我々は君に支払う』 We'll pay you what you

are worth.となります。  「出来高払い」とでも日本では言うのでしょうか…

  『うえっ!  そんじゃ食って行けないよ!』と青年は絶望的に叫んだそうでした。

それを聞いたビルさんのお父さんは爆笑されたとのことです。  古い昔の話でした。

 

  しかしそのことから、私たちと神さまとの関係を考えてみますと、私たちも同じ

ように絶望的な叫び声をあげなければならないだろうと、そのように思いました。

 

  もし、神さまが、私たちに対して、「私たちの価値に応じて報いて下さる」という

基準を適用なさると仮定すれば、だれ一人として「生きて行けない!」ということに

なりましょう。

 

  自力本願という言葉があります。  その一方には他力本願という言葉もあります。

他力本願は何だか怠け者で気弱に聞こえます。  自力本願には生命力に溢れて力強く

生きて行く開拓者精神のようなものを感じます。  自力本願でしかこの世知辛い世を

生き抜けないように私たちは日々の生活の中でいやというほど体験しています。

 

  しかし、こと私たちの心の問題、魂の問題、人格の問題、永遠との関係で出て来る

問題、自分と他者と神のと関係、自分と自分の罪と罪の支払う代価である死との問題

を考えるとき、そして自分のこの肉体の死の彼方に待っている別の世界の問題などを

考えますと、私たちは決して自力本願では生きて行けないことを、誰も公然と認めた

くはないのですが、ひそかに認めざるを得ないのだと思います。  如何でしょうか?

  「人」という漢字は、人はお互いに支え合ってこそ初めて成り立ち得るものだと、

人間関係をそのように語っているように思える漢字です。

 

  まして、私たちは罪ある不完全な自分と、完全な神との関係を考えるとき、私たち

には何も勲功イサオシがないことを一番よく知っています。  神さまの一方的なお赦しを

頂かなければ、就職で面接に来た上記の青年のように、『そんじゃ生きて行けない』

のではないのでしょうか?  一方的に赦されること、恩寵を必要としているのです。

 

  一方的な神さまからの赦しの恩寵こそ一番すばらしい「他力本願」の道ではないか

と思います。  神さまの恩寵、赦しというものがなければ、私たちはだれ一人として

生きて行くことなどできないのです。  惨めな哀れな存在であるということを誰もが

ほんとうは知っているのです。  そのような私たちを繕い、贖って下さるのは神さま

の赦しの恩寵なのです。  十字架の上にそのことがはっきりと示されているのです。

 

  先ほどご一緒に讚美しましたように「罪が緋のように朱アカいものでも雪の如く白く

なり、紅クレナイのように赤いものでも羊毛のように白くなる‥」とイザヤ書1章18節は

約束しています。  十字架の上でイェスが流して下さった血潮が私たちの罪を赦して

下さると聖書は教えています。  私たちはわたしたち自身の罪を拭い去り、洗い清め

ることなどできないのです。  どんなに立派な人でも自力本願は通用しないのです。

十字架の主イェスの贖いという他力本願でしか私たちに救いの道はないのです。

 

  『こういうわけで、今はキリスト・イェスに在る者は罪に定められることがない』

ロマ書8章1節はそのように証言しているのです。  『そんじゃ生きて行けないよ』

と叫ばなければならはいはずの私たちが罪を赦された者として『生きて行ける』ので

す。  これを恩寵というのです。  すばらしい「他力本願」、イェスを信じる新しい

人生そのものなのです。  醜い私たちが洗い清められて奇麗なすばらしい人生を堂々

と目標を天に定めて歩くことができるようになるのです。  如何でしょうか?