《新しい春が八ヶ嶽にもやって来ます》

 

  新しい春が徐々に八ヶ嶽南麓にも登坂して来ているようです。

灰色の空のもと凍土の中で息をひそめていた植物が新し生命の芽を出し始めました。

昨夜の小雨で芽を出したばかりの草の葉のほこりを洗い流してくれたようです。

葉っぱは奇麗に見えますし、小鳥の歌声も気のせいか軽々と響いているようです。

 

  私たちが主イェスをキリストとして、神の子として、救い主として心から信じ、

口でそう告白し、使徒行伝2章38節以下に記されているように、初代原始教会の最初

の宣言のように、罪の赦しを頂くために主イェスのお名前でバプテスマに与り、聖霊

の賜物を頂き、この歪みきった曲がった世から救い出して頂いたことを、春の小雨の

あとで改めて思いだす次第です。

 

  バプテスマが私たちの罪をことごとく完全に洗い清めてくれると信じているため

に、むかしから一部の教会ではその人が死の直前に到るまでバプテスマをすることを

拒否していたというような事実が教会史を学ぶとわかってきます。

  死の直前までバプテスマを延ばせるだけ伸ばしておいて、最後の瞬間の直前になっ

てバプテスマに与れば、とこしえの御国により少ない罪で入ることができるからと、

そのようなことを主張していたようです。

  もちろんこれは神さまが与えて下さる救いということを誤解しているからですし、

バプテスマそのものをも誤解していたからです。

 

  使徒行伝2216節には『そこで今、何のためらうことがあろうか?  主イェスの

御名を唱えてバプテスマに与り、あなたの罪を洗い落としなさい!』と使徒パウロと

なるサウロにアナニヤは強く勧めています。

 

  『見えるようになりなさい!』(聖書協会訳)、『立ちなさい!』(新改訳)と

13節は言います。  (原文は anablephon アナブレフォン=上を仰ぎ見る、もう一度

見る、視力を回復する…マタイ伝11章5節、同1419節、ルカ伝4章18節を参照)

  これはただ単に使徒パウロとなる直前のサウロに対して、キリスト教徒を迫害して

いた残忍な迫害者サウロに対して、彼の肉体的な視力の回復を勧めたというだけでは

なく、『霊的な視力を得なさい!』、『イェス・キリストに在るこれから先の無限の

人生をよく洞察しなさい!』と励ましているのではないかと、私は個人的にそのよう

にその箇所を読むのです。

 

  少し脱線しますが、私たちの人生の中で大切なものはそんなに多くないのです。

もしかすると「一つだけしかない」のかも知れません。

  ルカ伝1041節~42節にはそのことを示唆するイェスのことばがありますし、同じ

ルカ伝12章全体でもイェスは弟子たちに天国のものの考え方を語られています。

 

  私が好きな祈りが民数記2310節の終わり部分にあります。

『私は義人のように死に、私の終わりは義人のようでありたい…』です。

  自分は自分の人生をどのように終わらせるのか?…それは取りも直さずず、自分は

他者と神との関係において、どのように自分の死を迎えるのか?ということです。

  他者と神との関係で、自分はどのように「義人として」死を迎え、どのように永遠

の国に引っ越しができるのか?…という質問です。

 

  自分と、他者と、神との三者の関係を自分の人生でどうしようとしているのか?

自分と、自分の罪と、罪の払う値アタイ としての死、この三者の関係をどうするのか?

  罪の赦しと、罪を赦された今の自分と、罪を赦して下さった神を自分は自分の人生

でどのようにしようとしているのか?…他者とどのように生きているのか?…です。

  サウロさん、そこまで深く、広く、高く、遠く、自分の人生を考えているのか?…

考えられるのか?…  見えるのか?…  見ているのか?…  ということです。

 

  若い人に対しては、エレミヤ書2911節~14節と、同じくエレミヤ書33章3節を

熟読されるように強くお勧め致します。

  神は若い人たちに対して私たちが想像だにすることができないほどの壮大な計画と

将来と希望を抱いて臨もうとされていることを示す、若者たちの心の奥底から激しく

揺るがすような感動をもって迫って来る聖書の箇所だと、そのように私はいつも考え

ています。  ぜひ祈りの心で何度も読み返してみて下さい。

 

  アナニヤが迫害者サウロに迫った『見えるようになりなさい』という言葉の意味は

そういう深い、壮大な神の御旨を含んだ勧めの言葉であったのではないかと、私個人

はそのように読むのです。

 

  もとのバプテスマの話に戻ります。

  主イェスを救い主として心に信じ、そのことを口で公に告白し、バプテスマされて

罪の赦しを受け、聖霊の賜物に与り、神の家族に加えられ、とこしえのいのちを受け

た私たちには、それ以上の喜びはあり得ません。使徒パウロはロマ書6章前半部で神

の恩寵によるバプテスマの神秘さを確信をもって堂々と宣言しています。

  使徒ペテロもこのバプテスマの不思議さ、神秘さについて、ペテロ前書3章21節で

イェス・キリストの復活との関係で語っています。  むかしあった儀式的な洗いの式

ではなく、「明らかな良心を神に願い求める」こととして、良心との関係で、イェス

の復活との関係で、神の約束を信じたうえで、バプテスマを語っています。

 

  ロマ書4章3節や5章8節~21節で使徒パウロは、私たちは御子イェス・キリスト

の十字架の犠牲を通して、神の恩寵として、何も勲功イサオシのない者が、アブラハムが

その信仰によって義と認められたように、私たちも義とされたのだと語っています。

創世記15章6節にまでもさかのぼった事実を根拠に使徒パウロは語っているのです。

 

  遅い春が標高千メートルを越える当地にも徐々にやって来ているようです。

小雨が降るたびに凍土であった地面が柔らかくなり、新しい命の芽が顔を出し始めま

した。  餌台に飛来する野鳥の数が減りました。  その分だけ原生林の中でかれらの

創造主への讚美の囀りの歌声が増えているようです。

 

  先週あたりから朝の外気温が零下から解放され、日々春の登山を感じます。

きょう11日8粁下の長坂町では桜も連翹レンギョウ も姫辛夷ヒメコブシ も木蓮も満開でした。

標高千メートルを越す小海線線路山側の当所にも少しずつ春の到来を感じるこのごろ

です。  そのようなとき改めてエレミヤ哀歌3章22節~23節の聖句を想います。

  すなわち『私たちが滅びなかったのはエホヴァの仁愛イツクシミ による。  その慈しみ

は絶えることがなく、その憐れみは尽きることがない。  それは朝ごとに新しい。

神の誠実マコト はまことに大きい』

 

  『神が光の中にいらっしゃるように私たちも光の中を歩むのなら、私たちは互い

に交わりを保ち、御子イェスの血が私たちを清める』と第1ヨハネ1章7節は語って

います。  「清めた」という過去形ではなく継続形で「清める」に留意しましょう。

 

  ロマ書4章6節~7節は、『不法を赦され、もろもろの罪を覆われた人たちは幸い

である。  主が、その人に対する罪を認めない人は幸いである』と告げています。

  主の恩寵によって救いに与った私たちはとこしえに到るまで本当に幸いな者です。

感謝なことです。  春の小鳥の囀り以上に神を讚美する声を揚げたいものです。