《教会成長って何のことなの?》
2004年4月28日
★ 『お前んとこじゃチットモ教会が成長してないじゃんか? 何やってんだ?』
私の仲間は私に向かって口にこそ出しませんが、そのように言いたいと感じている
人が内外にいても決しておかしくないだろうと考えることが時としてあります。
一方、米国の剣達鬼ケンタッキー州ルイヴィル市内に数万人もの「善男善女」が日曜朝の
礼拝に集まるというサウス・イースタン・クリスチャン・チャーチがあります。
いわゆるメガ・チャーチです。 私の友人・知人もたくさん出席しているそうです。
ソウル市内を流れる漢江ハンガンの中洲に汝矣島ヨイド
という大きな島があります。
韓国の国会議事堂もあったと思いますが、そこにもメガ・チャーチがあります。
集まる人々の人数は確かに多いですが、そこで説かれているメッセージも、そこで
行われている礼拝も、カリスマ的なものが一切ないケンタッキーのメガ・チャーチと
は異なり、ソウルのはペンテコステ派的と言いましょうか、カリスマ的な恍惚状態の
人々で埋っており、私など到底その雰囲気にも教義にも名前にもついて行けません。
ある程度は韓国人の国民性というものも関係しているのだろうかと考えますがc
その程度のものが「教会成長」というものだろうかと常に疑問に思っています。
★ 数世紀にも亙って日蓮宗派の影響が極めて強く、また「よそ者」を寄せつけない
この甲斐の国の山岳寒村僻地に在って、大都会と異なり、職を得ることも決して楽で
ない地にあって、それでもイェスを主キリストと信じて生活を営み、日曜ごとに主の
御名によって集まる者たちが存在しているということ自体を私は恩寵による奇蹟だと
確信しています。 多くの間接的な迫害に耐えて信仰を維持し続けているということ
自体が信仰の内的な成長であっても、決して退化ではあり得ないと確信しています。
信仰の戦いを覚え給う主が、終わりの日に到って、この地の聖徒たちを分に応じて
祝し褒めて下さることは間違いのないことだと私は確信しています。
★ 教会が成長し、神の国が拡大・拡張して行くこと自体は素晴らしいことですし、
そのために私たちが私たちに託された能力に応じて祈り、また努力をしなければなら
ないということは言うまでもなく当然のことです。
けれども、それだからと言って、前にも一度お話をしたことがありますが、私たち
がそのために霊的価値基準や信仰の目標を物質的成長面や数的成功面にだけ設定する
ということ、すなわち success crazy feverサクセス・クレージー熱に惑わされては
いけないということを常に留意する必要があると思っています。
寒村僻地の小さな単立教会が大都会のデッカイ教団や有名な教派の教会の猿真似を
する必要など毛頭もないのです。 私たちにはこの地にあって私たちができることを
聖書から学び、その原則を誠実に実践するのが良いと私は考えています。
★ ロマ書12章1節~2節やコロサイ書3章1節~3節にどのようなことが勧められ
ているのでしょうか? 『この世に妥協せず、流されず、上に在るもの、主イェスを
求めること』を聖書は私たちに求めているのです。
主イェスに愛され、主イェスを愛する者たちが霊的に成長することを聖書は求めて
います。 イェスの恩寵とキリストを知る知識の中に成長することを求めています。
必ずしも数量的な成長というものを聖書は私たちに求めてはいないと思います。
エペソ書2章21節、4章14節~15節、ペテロ前書2章2節、ペテロ後書3章18節は
私たちにどのようなものを求め勧めているのでしょうか? ぜひとも熟読願います。
イザヤ書61章3節は私たちがどのような者になって欲しいのかと、特別な要求では
なくて、ごくあたり前の基準を述べています。
ヨハネ伝15章8節やガラテヤ書5章22節にはイェスに従う者がどのような実を結ぶ
ようになるのかを語っています。 愛から始まり、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、
誠実、柔和、自制です。 そこには数量の増加を示唆する単語はありません。
そしてコリント前書3章6節~7節には、そのための資料源・エネルギー源という
ものが神さま御自身であると説明しています。
そのような成長とは、私たちがイェス・キリストと一つとなることによって可能で
あると、ヨハネ伝15章1節~6節やエペソ書4章16節が説明しています。
もう一度ここで申し上げたいと思いますが、教会成長とは、数が増えるということ
ではなく、私たち一人一人が霊的に成長し、どのように神さまに忠実・誠実であるか
ということです。 どのようにイェス・キリストの御心に近づくかということです。
主キリスト・イェスの御旨 Mind of Christ を知り、それに従うかということです。
★ 先週の週報で「パスカの記念祝宴に集まった旅人・ホームレス」を語りました。
その中で説明しましたように、初代原始エクレシア(こん日のような意味で教会と
呼ぶには余りにも掛け離れた姿だと思いますがc)は森の中の大きな樹の下や洞窟の
中や、ユダヤ教の会堂や、あるいは持ち家を所有していた比較的裕福な信仰者の家庭
を開放してもらって集まっていました。 こん日のような集会専門の建物や教会堂と
いうのはまだ無かったのです。 それらは2百年ほど後から出現するのです。
使徒行伝12章12節、コロサイ書4章15節、ピレモン書1節~2節などを読みますと
「ハウス・チャーチ、家の教会」という言葉が使われています。
そしてそこでは信仰者たちが主イェスに忠実・誠実であることが求められています。
使徒行伝2章47節、5章14節、更に11章24節を読みますと、初代教会に集まる人々
の数が増えていたことがわかります。
そうかと言いますとその一方で、使徒行伝8章2節には教会に対する迫害が起り、
信仰者たちが地方に避難して行ったことから信者数の減少を容易に推測できます。
また、使徒行伝9章31節では、地方に拡散して行った諸エクレシヤが平和を保ち、
確かなものとなり、主を畏れ、聖霊の慰めの内に在って増えて行ったともありますの
で、迫害にもかかわらず、クリスチャンたちの集まるエクレシアが質量共に弱体減少
していったとはとうてい考えられません。
このような視点から、いわゆる「教会成長」というものを改めて考えて見ますと、
マタイ伝6章33節でイェスが仰ったように、神の国とその義を追い求めることが何よ
りもまず大切なことであり、その他のこの世俗的な基準というものは、この第一次的
な霊的・信仰的な基準というものによって計られるべきであろうと思うのです。
★ 東京にいました時には、しばしばこの「教会成長」という言葉を、福音派という
グループに属している諸教派の間で語られているのを見聞きしていました。
しかし、一体全体この「教会成長」とは何を意味しているのでしょうか?
一つのエクレシアに集まる信仰者の数が増加するということなのでしょうか?
他教会から「羊を盗んでくる」ことなのでしょうか? 「未信者」と烙印を押されて
いる人々を、イェスを救い主として信じさせること、すなわち、いわゆる入信させる
ということを意味するのでしょうか?
数だけで「教会成長」ということを言うのなら、田舎の教会や僻地の教会に希望は
皆無に近いと言っても過言ではないでしょう。 私はそうは考えないのです。
★ 八ケ岳に永住して来て改めて初めて学んだことがあります。
それは、ガラテヤ書5章22節~23節の「御霊の実」の結び方に関することです。
私たち夫婦が購入した土地は溶岩が流出した跡地です。 何万、何十万個もの岩石
の荒れ地でした。 花を植えたり植木を移植したりするのは殆ど不可能に近い土地で
す。 それでも唐松が何とか生きのびようとしていますが、颱風に打たれると簡単に
根本から倒れてしまうのを数多く目撃して来ました。 それは根を地中に深く降ろす
のが極めて困難だからです。 土がなく、深い所まで岩石ばかりだからです。
樹木は先ず深く真っ直ぐに根を地中に降ろし、そして地面の中で左右にも拡げて行
かなければなりません。 それが果たせれば幹もがっしりと太く高く成長できます。
そうすると自然に丈夫な多くの枝が左右にたくさん伸びて行きます。 丈夫な枝に
花が咲き、そして実が実るのです。 岩石の中で生きようとしている唐松の細い根を
全部一つに繋げてみますと何と数キロにもなるそうです。 それでも倒れるのです。
標高も高いので果樹が実を結ぶということは当地では甚だ困難のようです。
★ このように考えて見ますと、私たちのエクレシアの根はどうなのでしょうか?
「教会成長」を謳う都会の教会の隠れた所にある根はどうなのでしょうか?
「教会成長」を強調する教会はイェスの十字架と埋葬と復活と再臨を説いているので
しょうか? 信仰者の霊的成長をエクレシアとして祈り求めているのでしょうか?
私たち一人一人にとって、私たちに日常生活の場にあって、何が最優先事項なので
しょうか? どこに関心事があるのでしょうか? 信仰者一人一人が真剣になって群
全体として一緒に主イェスの恩寵と知識の中に育とうと、互いに誠実に真剣な努力を
していると言えるのでしょうか?
それとも聖書が知らない「牧師」というものをカネを払って雇って、職業的宗教人
に自分たちのエクレシアのすべてを任せて、自分たちは「アーメン・ソーメン教」の
「教会ゴッコ」を日曜朝の1~2時間だけやっているのでしょうか? そんなことで
自分たちのエクレシアの「教会成長」が可能だと私たちは考えているのでしょうか?
★ ロサンゼルス市のクレンショウ地区にあった日系のウエストサイド教会に仕えた
ことがあります。 一世の方々は古い讚美歌の限られた曲だけを知っていました。
聖歌を紹介しました。 最初は抵抗と戸惑いがあったようでしたが間もなく皆さんが
気にいって愛唱され始めました。 讚美で信仰告白や表現方法が拡がったからです。
八ヶ嶽南麓の集会でも私は日曜ごとに讚美歌や聖歌などから新しい讚美の曲を最低
でも一つか二つを紹介するように努力をしています。 讚美の歌の作詞作曲者たちの
信仰背景や時代的背景も説明し、讚美の時間を最低でも30分は確保するように努力を
しています。 神さまを讚美するのですから、讚美する時に相応しい姿勢についても
提案しましたし、英語の美しい讚美テープを折に触れ皆さんに贈呈しています。
聖書もいろいろな訳を活用するように勧めています。 皆さんに祈って頂くように
心がけています。 まず男の人たちに順番に信仰の証をするように勧めてみましたが
これは今のところ期待どおりに殆ど進んでいません。 テモテ前書3章に示されてい
る長老・監督や執事の成長を祈っているからですが前途遼遠の感があります。
★ これらを通して私たち全員が自分の心の中に神さま専用のお部屋、神さまが永住
され、定住して下さる場所を確保したいと願っています。 そのような信仰者たちが
集まるエクレシアに神さまの恩寵が溢れ、神さまが下さる平安と安らぎを各自が実感
できるような交わりに成長することを願っています。
宮沢賢治ではありませんが、東西南北いつどこにでも飛んで行って、お互いに慰め
励ましあって、共に御国を目指す巡礼者の道を歩みたいと願っています。
私たちの在り方を通して人々が私たちの中に住まわれるキリストこそ栄光の希望で
ある(コロサイ書1章27節)と感知して下さるようになれるようにと祈っています。
一廻りの始めの日に裂くパンと、葡萄の実からできたものに与るとき、主イェス・
キリストの十字架と埋葬と復活を覚え、更に主の再臨を祝福に満ちた希望(コリント
前書11章26節、テトス書2章13節)を待望することが心の底からできる信仰者たちが
集まるエクレシアになりたいと、そのようにいつも願っているのです。
今日という日に、主イェスの御旨を伺い知り、それを恩寵の中で誠実に実践できる
ような者たちの集うエクレシアに育ちたいと心から祈り求めているのです。
そこでは「数」という魔物は、殆ど問題にならないと私は考えているのです。
エクレシアに集う人数の多寡が問われているのでは全くなくて、主イェス・キリスト
への私自身の、私たち自身の誠実さが先ず問われていると思っているからです。
「教会成長」、この寒村僻地に在って、私はこのように考えているのですけれどc
私はやはり「異端的」なのでしょうかね? 皆さん、どうお考えでしょうか?