待降節にスラムで想う
アジア各地のスラムを何十回か訪れ、多くの事を学ばせて頂きました。
その中でもクリスマスが近づくと必ず思い出すことが一つあります。
零下20度のスラム、凍土の上に薄いビニールのシーツを1枚敷き、同じよ
うな薄い赤・白・ブルー色のシーツで天井をこしらえたテントに或る未亡人と
数名の幼児を訪問したことがありました。 天井のビニール・シーツを支える
ために一本の棒杭が二畳ほどの「家」の中央に立ててありました。
厳寒の韓国ソウル清渓川貧民窟のクリスマス・イヴのことでした。
チョンゲチョン
40センチほどの入り口を這って中に入り、凍土の上にあぐらをかいて坐ると
頭が天井のビニールを揺れ動かします。 幼児数名が互いに抱き合って一枚の
布団を彼らの周囲に立てるように張り巡らせて暖を取っていました。
天井を支えるための中央の棒杭の横には食卓に使う汚いリンゴ箱があり、
その上に一本のローソクの焔が薄暗い「家」を照らしていました。
臭気と寒気が全身を遠慮なく襲います。 腰と足は感覚を失います。
家具も寝具も食器もありません。
『モクサニム、パンガップスムニダ!』
(=牧師様、久し振りにお目にかかれて嬉しいです)と、頬を真っ赤にした
未亡人が、全身で本当に嬉しいことを表しながら、笑っています。 日立市の
椎名宏さんが彼女を「ニコニコおばさん」と名付けていたほどに笑う人です。
人口6万人の清渓川スラムの中でも最悪の地域の最低で最悪の地域に仮住居
する彼女ですが、彼女は常に微笑みを忘れたことのない素敵な婦人でした。
狭い「家」の外、暗黒の中で彼女が汚水を使って食事の準備を始めました。
零下20度です。
火力の弱い練炭の上で、私の家の犬の食器よりも汚い「鍋」
で、麦が殆どの米飯を準備し始めました。 中心部だけ何とか煮えた麦飯を、
どこかで拾って来た汚れた新聞紙の上にポンと打ちあけました。
次に同じ「鍋」にハラワタつきの魚一匹を洗いもせず、切れない包丁を回転
させるようにしてブツ切りにして、豆腐と味噌と唐辛子で煮込み始めました。
異臭がする得体の知れぬ鍋料理ができ上がった頃には、先の麦を主とした飯
は汚い新聞紙の上で冷凍食品のように冷たくボロボロになっていました。
彼女がこれだけの飯を炊いてくれたが、明日からこの幼児たちは一体どう
やって、何を食べるのだろうか?と内心不安になり、同時に、この汚い、臭い
非衛生的な「ごちそう」をどうやって断わったら良いのだろうかと、心の中は
穏やかでありませんでした。
そして痛くなるほどに全身が寒いのです。
儒教の教えの厳しい国の礼儀正しい国です。 幼児たちは私の食事の終るの
をじっと無言で待っています。
その後で彼らの番が回って来るのですから。
『モクサニム、マニチャプシュセヨ!』
(=牧師様、沢山召し上がって下さい!)と彼女は微笑んでいます。
絶対絶命です。 下痢を覚悟で食べるほかありません。
食前の感謝の祈りを捧げて箸に手をかけようとしたその時です。
ローソクの揺れ動く焔が作る私の大きな影の横に、
「もう一人の客人」がだまって坐っているのを初めて知ったのです。
クリスマス・イヴの夜、スラムでも最悪の状態の未亡人が、持っている物の
のすべてを捧げて私のために厳寒の中で食事を備えてくれた席で感じました。
「もう一人の客人」、即ちイエス・キリストの姿を見たように感じた瞬間、
私は初めて自分の驕慢さを教えられ、総てを捧げきって、
与える喜びに浸る美しい姿と感動をその婦人から学んだのです。
『人はパンだけで生きるものではない』ことを(マタイ 4:4) 初めて学びました。
スラムでの忘れられない素晴らしいクリスマス・イヴでした。
(注:この婦人は後に南陽湾に移住、野村が購入し教会を通し贈った中古家屋
で子供たちを立派に育て、現在はソウルで家政婦をしていると聞いています)