〈ケイン・リッジ  その8〉

 

  前回号の後で四谷(カニングハム)ミッション設立百年記念で久しぶりで来日され

た同財団理事長で、めじろ台キリストの教会の設立宣教師であったハロルド・シムズ

宣教師夫人ロイスさんが信州バイブル・キャンプ場を訪問中に突然帰天されました。

  葬儀は主のご栄光を表すに相応しいもので感謝でした。  シムズさんに主の慰めを

お祈り致します。

  シムズさんは今回のケイン・リッジ2百年記念祭に出席なさったので、お話を伺い

たく願いましたが、とうていそのような状況ではなく、お伺いできませんでした。

 

  特に私が知りたいと願っていることの一つに主の食卓に関することがありました。

  私が想像していたのは手搾りの葡萄液か発酵した葡萄酒だと思っていたのですが、

実際には市販されているウエルチの葡萄ジュースを使ったそうです。  パンは普通の

パン、すなわち、イースト菌を入れて焼いたパンをちぎって、出席者めいめいが酒杯

(チャリス)に浸して口にしたとのことです。  現在2百年前に使われたものと同じ

形の酒杯、または古くなって使っていないチャリスの入手に努力中です。  教会用の

いろいろなチャリスが販売されていますが、いずれも高価で手がとどきません。

 

  2百年記念礼拝はオリジナルなログ・ハウスの傍に大きなテントを張って約千人が

参加したのだそうです。  テントの中に二つのテーブルを一緒にくっつけて一つとし

て設置し、ディサイプルズの Richard Hamm リッチャード・ハム牧師が司式なさった

とのことです。  そのようなテーブルが6脚用意され、6人の男女長老がテーブルに

配置されたようです。  坐っていた人々はグループごとに立ち上り、テーブルに向か

い、主の晩餐、すなわち聖餐にあずかったとのことです。

 

  2百年前のしきたりを踏襲するという努力はなかったとのことですが、8月1211

時から始まった礼拝は The Great Sacramental Communion Serviceという名がつけら

れていますので、この地上では無楽器教群に属している私には、呼称から判断します

と、少なくとも2百年以上前の長老教会的な発想が残っているのかなと思います。

 

  当日はケイン・リッジ会場以外でも、近隣3教会においても聖餐にあずかれるよう

招待しており、ゲスト・スピーカーたちが説教を担当し、礼拝後にはそれぞれの担当

教会が礼拝出席者たちのために愛餐会を用意したようです。

 

  主の食卓の席で歌われた讚美歌は One Bread One Body というもので、仮私訳です

が、「一つのパン、一つの御身体」というものだったそうです。  この楽譜を入手し

たいと努力中です。  歌詞は次のようです。  歌詞は当日の主題でもありました。

 

                   One bread, one body, one Lord of all,

                   One cup of blessing which we bless.

                   And we though many, throughout the earth,

                   We are one body in this one Lord.

 

                   Grain for the field, scattered and grown,

                   Gathered to one, for all. (Repeat Refrain)

 

                   Gentile or Jew, servant of free,

                   woman or man no more. (Repeat Refrain)

 

                   Many the gifts, many the works,

                   One in the Lord of all. (Repeat Refrain)

 

  聖書箇所はコリント前書1123節~26節が読まれたという報告がありました。

以上の情報は Ulysses Gibson ジャック・ギボンさんの協力で入手したものです。

 

  その間に、 "The Cane Ridge Meeting-house" by James R. Rogers / Cincinnati,

1910, The Standard Publishing Company を入手しました。  驚いたことに、ただの

古本だと思っていましたが、レキシントン図書館のスタンプがあちこちに押してある

品物で思わず躊躇しました。  法外な値段50ドルを請求され、しかも航空便で入手し

たものですから、スタンプ類を見た瞬間には心が穏やかでありませんでした。  調査

の結果、図書館が古書として放出したものであることが判明し安堵した次第です。

珍しい白黒写真が幾枚かありますので50ドルの価値があると思わないと高すぎます。

 

  何年か前にトーマス・キャンベル作詞の讚美歌 Upon The Banks Of Jordan Stood

を日本に紹介したことがあります。

  2001年9月16日号の「ベタニヤつうしん」に今回の一連の調査でストーン作詞にな

る讚美歌を入手しましたので紹介しておきました。  この文章の最後の頁にあらため

て全歌詞を添付しておきます。    百年前に歌われていた讚美歌には楽譜がついてい

ませんが、曲は聖歌 677で歌われると良いかと思います。

 

  今回さらに、「ケイン・リッジ」と題した讚美歌詞を入手することができました。

Caleb Jarvis Taylor テイラーという、メリーランド州出身の元ローマ・カトリック

教徒が作詞したものです。  カトリック教徒が多かったメリーランド州からノース・

キャロライナ州に移住し、そこで沢山の信仰復興集会の讚美歌を作詞した人でした。

現在、何とかして楽譜か曲の手がかりを求めています。  曲名は Nettletonです。

  この歌詞もストーン作詞の讚美歌と共にこの文の最後に添付しておきます。

たぶん讚美歌 285番か聖歌の 240番か 241番が合うと思いますが、私個人の意見とし

ては聖歌 241番の曲が一番相応しいかと考えています。  アメリカ初期の曲です。

 

  ついでですが、ストーン牧師もアレキサンダー・キャンベル牧師も共に音楽的才能

はなかったようです。  二人とも作詞はしたようですが作曲の方は得意ではなかった

とディサイプルズの牧師で「信仰復興運動讚美歌・リヴァイヴァル・ヒム」で論文を

お書きになった Dr. Richard Huffman Hulanヒュラン博士が教えて下さいました。

 

  なお讚美歌第2編 230番の作曲者トーマス・キャンベルは、私たちのTキャンベル

ではありません。  この人は1777年にスコットランドのグラスゴーで生まれた人で、

1844年にボゥロン?Boulogneで召天され、ロンドンのウエストミンスター・アビーに

埋葬されています。  私たちのトーマス・キャンベルやアレキサンダー・キャンベル

が音楽的才能に恵まれていたという記録はないようです。

 

  ストーンが牧していたケイン・リッジ Cane Ridge とコンコードConcord にあった

二つの教会ですが、周辺の人口が増加していたのにもかかわらず、教勢のほうは全く

ふるわず、若いストーン牧師には焦りがあったようだと先週号に書いておきました。

 

  そして西南の無法者地帯のローガン郡や、すぐ下のテネシー州のシャイロ Shiloh

で仲間の長老教会やメソディスト教会の牧師たちが中心になって行われていた一連の

伝道集会では、ストーンが今まで聞いたことがない不思議な現象が起っているという

情報が焦っていたに違いないストーンの耳に到着しつつあったと書いておきました。

  そこで、ストーンは自分の目で確かめようと、ローガン郡を訪問することにしたの

でした。  1801年の早春のことでした。  このあたりまでを先週号で紹介しました。

 

  なお、コンコードのことですが、1954年に名前を初めて聞いてから47年が過ぎてし

まいました。  ケイン・リッジは1954年に晩秋に教会史の勉強で初めて訪れたことが

あります。  留学先の学校の隣村なのですぐに覚えることができました。  けれども

コンコードがどこにあるのか、あったのか、この47年間わかりませんでした。

  8月にケイン・リッジで記念集会が営まれると聞いて、あわてて捜し始めましたが

なかなかわかりませんでした。  何しろ私は日本の八ヶ嶽南麓にいるのです!

  ストーンを研究していらっしゃる多くの学者や自称復帰運動研究家たちに尋ねても

ケイン・リッジは皆さんご存知ですが、コンコードとなるとご存知ではありません。

 

  レキシントンやパリスから東北に約80粁ほど古い連邦政府国道 US-68をオハイオ河

に向かって行きますと、古いメイズヴィル Maysvilleという州境の町に到ります。

この町には今でもアレキサンダー・キャンベルたちが建てた石作りの教会堂が残って

いますし、橋を渡れば北部のオハイオ州です。  橋を渡らずに河添いに右折して15

20粁も行きますと確かにコンコードという町がかろうじて存在しています。  人口

僅か65名の町です。  アメリカで郵便局がない町は、ある意味で、町とは考えないの

ではないかと思うことがあります。  このコンコードもそのような集落です。

  しかし、ケイン・リッジから90粁も離れた所まで2百年前にストーンが馬か馬車で

通って牧会していたとは私にはとうてい信じられないことでしたので、何人かの学者

や素人歴史家の提案を私は受け入れていませんでした。

  茨城基督教学園への元宣教師だったマッケイさんは冗談混じりで『お前という奴は

こん日の地図には出ていない、消えてなくなってしまった町や集落の名前を掘り出し

てはどうしてしつこく質問するのか?』とあきれ果てていらっしゃいました。

 

  それでも、やっとコンコードを知っているとおっしゃる学者が名乗り出てください

ました。  何と吉良賢一郎さんの留学先の教会史の教授ロバート・リーさんでした。

また、ストーンの研究家で昨年ストーンの本を出版されたDニュエル・ウイリアムズ

Barton Stone, A Spiritual Biography / D. Newell Williams / Chalice Pressさん

も場所を確認して下さいました。

 

  ストーン牧師が牧会していたもう一つの教会は、ケイン・リッジのすぐ西側にある

パリスから連邦政府道68号に添って北東に約20粁ほど行き、州道3236号(同じ道路

を二つの番号を共有して走っている)で右折して更に10粁も行くと、州道32号はその

まま先ほどの連邦道68号に平行して走るような形で北東方面に向かい、州道36号線は

右下=東下に別れる丁字点となります。  そこが Carlisle *「カらイル」です。

南部の発音ですが、人によっては「カール・らイル」と発音した人もあります。

  *アクセントは「li」にありますので「ら」としました。  バッハのカンタータに

コらールというのがあります。  「ら」にアクセントがあります。  同じようです。

 

  その町から西南方向に向かう州道13号が走ります。  コンコ-ド教会はその13号線

にあったのでした。  町から3粁ほどの地点にあったそうです。  そのまま13号線を

まっすぐ西南に15粁か20粁も美しい丘陵地帯を行けばケイン・リッジに到着するので

す。  何とそのカーらイルなら、留学中の日曜日の朝に、時々でしたが学友に乗せて

貰って、友人が田舎の教会に説教に行く時に何回か通過していた所だったのです。

 

  たったこれだけを調べるのに長い年月を要したことになります。  驚いたことに、

カーらイルから西南に向かう道路は今でもコンコードと呼ばれているという事実でし

た。  コンコードという名前はそのまま現在でも田舎の道路につけられて残っていま

すが、こん日ではコンコードには誰も住んでいないそうです。  カーらイルから西南

に約3粁ほど行った所に、第1コンコード教会と第2コンコード教会がかつて存在し

ていたそうです。  近くに住む下級生の友人にも調べてくれと頼んでいますが、多忙

なのと、なぜそんな廃村に日本人が興味を抱くのかをよく理解できないようです。

 

  ストーン牧師がどちらの教会で奉仕していたのか、両方だったのか、それとも最初

の礼拝堂が何かの理由で第2の集会堂に取り替えられたのか、そこまでは今の私には

わかりません。  こりないで、あきらめないで、謎解きに挑戦中です。

 

  いずれにせよ、カーらイル(またはカらイル)の部落の端には、カーらイル教会堂

(コンコード教会のことです)が存在していたことを示す史跡標識が設置されている

そうですから、将来どなたか日本の後輩研究家たちが訪ねて下さることを願います。

 

  第1教会堂はすでになくなっており、第2教会堂も1960年代に、教会堂を維持する

だけの関心と財源の不足で自然崩壊してしまったと地元の歴史家が証言しているそう

ですが、人によっては颱風で倒れたという人もあるようです。  両集会場は、いずれ

にせよ老朽化して自然に朽ち果てたようです。  最初の集会場があった場所は、現在

では平らになっているそうです。  コンコード墓地とは道を隔てて反対側にあったそ

うです。  第2教会堂は墓地のカーらイル村に近い側に林があり、その中にあったと

のことです。  第2教会堂がかつてそこに存在していたという意識なり知識がなけれ

ば現在では捜し出すのは困難なはずだcとのことです。

 

  ケイン・リッジとコンコード近辺の地図をここに紹介しておきます。  距離を示す

縮尺は正確ではなく大体のものとご理解下さい。  インター・ステイト・ハイウェイ

は地図を複雑にするだけですので敢えて記入しませんでした。

  次回は焦っていたはずのストーンのローガン郡見学から再開です。