《ケイン・リッジ  その7》

 

  先ずその後に入手した資料源から報告を致しておきましょう。

今回のテロリストによる事件で、汎太平洋航空便の禁止状態が続き、諸資料の到着が

遅れていました。  やっと昨18日あたりから少しずつ到着し始めました。

ストーンやケイン・リッジを今後研究なさる後輩たちのために列記しておきます。

 

  ディサイプルズ歴史協会の季刊誌 Discipliana1994年春季版に二つあります。

  The Sacramental Character of the Camp Meeting で著者は Keith Watkinsです。

他はThe Power of Christ's Sacrifice: Barton W. Stone's Doctrine of Atonement

で著者は D.Newell Williamsです。

  前者を「キャンプ・ミーティングの典礼的特質」とでも仮私訳しておきましょう。

後者を「ストーンの贖罪観・キリストの犠牲の力」と仮私訳しておきます。

 

  次に同じくディサイプリアナ誌の今年2001年夏季版にも二つあります。

"A Practicall Remembrance" Cane Ridge in Historical Memory by L.E. Schmidt

Barton W. Stone, Portraits on the Half-Century by Anthony L. Dunnavantです。

  前者を「歴史的記憶としてのケイン・リッジ・実質的記憶」ではどうでしょうか。

後者を「バートン・ストーン、その半世紀の実像」と、取り敢えず訳しておきます。

 

  なお、後者は今年2月に47歳で惜しくも癌で帰天されたレキシントン神学院の学長

兼教会史教授の論文です。  墓はケイン・リッジの敷地内にあり、同地内に埋葬され

た人としては80年ぶりだそうです。  ストーンの研究家でした。

 

  余談ですが同大学院は現在はディサイプルズ教群の神学大学院になっています。

日本人では聖学院学院長の大木英夫氏が学ばれたことがあったと記憶していますし、

無楽器教群初期宣教師であるユージネス・スナッドグラスとジェームズ・ムーディ・

マッケイレブ、それに彼らを日本に紹介したウインストン・ケンドリック・アズビル

らが卒業したカレッジ・オヴ・ザ・バイブルがその前身であることを知る人は少ない

ようです。  また、スナッドグラスの個人的遺品、とりわけスナッドグラスが小石川

で日本語で出版した貴重な文献などが同校図書館地下室に無造作に放置されているの

が痛ましい次第です。

 

  さらに、北米・カナダ讚美歌協会 The Hymn Society から198410月号のバック・

ナンバーを入手しました。  19世紀アメリカでの讚美歌、特にリヴァイヴァル讚美歌

特集号です。  これにはディサイプルズの親子2代目の牧師で音楽の教授が書かれた

小論文が掲載されています。  今まで知らなかったメソジストたちの働きが大きかっ

たことを、これを読んで、恥ずかしいことですが、初めて知りました。

 

  The American Revolution in Hymnody by Richard H. Hulan  と題する著者の卒業

論文は「復帰運動における讚美歌」と仮私訳できる興味ある文献です。  気さくな方

でいらっしゃり、卒業論文のコピーをおねだりして入手することができました。

  さらにこの教授が、2百年前に歌われていた讚美歌のいくつかを調べて、楽譜をも

捜し出して送って下さるとの約束をして下さいました。  ついでに、ご自分で歌って

下さるなり、楽器を使って復元したものをテープかCDに録音して下されば、日本での

今後の研究にとても助かりますが…と身勝手で無理なお願いをしているところです。

  月末までには更にケイン・リッジ関連の資料数冊が到着の予定です。

 

                                               

 

「余言者」に脱線は付き物ですが、教会史の勉強をする時に一番最初に捜さなければ

ならないのは助けて下さる人物です。  まずそのような人々を捜し始めます。

楽な仕事ではありませんが、忍耐強く工夫をして捜すと大抵は見つかるものです。

  日本と違い、いわゆる「偉い」はずの先生たちがアメリカ在住の方ですと、初めて

の連絡やお願いでも快く応じて下さる方々が多いということは有り難いことです。

一生懸命に忍耐して捜すと、必ずというほど見つかるものです。  嬉しい一瞬です。

 

  パソコンが未だなかった時代には、例えばマッケーレブ隊の何人かの女性宣教師を

調べる時でしたが、数百通の航空便を見当をつけた市町村の郵便局、役場、電話局、

警察、新聞社などに送って何週間か忍耐をして待つということから始めていました。

  ほとんどの所からは返事を貰えませんでしたが、約半年後に、私からの照会書簡が

転々と親切な人々の手を経て目指す相手の家族に届けられたこともありました。

  返事があると更に次の手紙を出すという作業が延々と続きました。  切手代が大変

でした。  現在はパソコン通信で楽になりましたが、パソコンの購入費と電話料金が

あることを忘れないようにしないと、決して「楽になった」とは言えません。

 

  良い人物に当たれば、その方々に参考書類を教えて頂きます。  そしてそれを注文

して入手するということになります。  急ぐ場合には航空便で取り寄せます。

  一つの研究課題には数冊の本を購入しますから、何百ドルかになるのが普通です。

老齢年金だけの生活をしている者には一年に数万円かそれ以上の出費は決して「楽」

ではありません。  「情報はタダ」だと錯覚していらっしゃる方々が多いようですが

決してそのような「タダ」などということはあり得ないのです。  お世話になった方

にはクリスマスにケーキを、御不幸の時には花籠を送ったりもしているのです。

 

  そうやって集めた資料ですが更なる問題は翻訳です。  これには更なる時間と忍耐

が必要なのです。  それぞれが1日に24時間しかないのです。  「早く翻訳しろ」と

の声があるのも充分に承知していますが、時間が足りません。  脳味噌も不足気味で

す。  翻訳以外にも、週報「ベタニヤつうしん」の作成があります。  保護している

大型犬6頭の世話もあります。  日曜日の諸準備もあります。  夜は中学生たちへの

英語の奉仕もあります。  伝道学院のための準備もあります。  3時間の授業の為に

はその6倍か7倍の準備が必要なのです。  そして、弱音でも何でもありませんが、

これら一切からは1円の収入も得られないのです。  出費だけです。  喜んで奉仕を

していますが、現在の体力、気力、能力、経済力では、これ以上は無理なのです。

翻訳というのは、本当に時間がかかり、気力、知力、体力、いろいろとかかります。

  「福音誌」に十数年間毎月投稿して来た原稿も、このようにして得たものでした。

こうして得た紹介文や翻訳文はこれまで一切無償で皆さまに提供して来ました。

 

  敗戦直後の日本経済が疲弊のどん底にあった時、極めて厳しい外貨制限が施行され

ていた時に、フルブライト奨学金生以外には海外留学など不可能な時代に、無一文の

私が留学を許されたなど、どう考えても神さまの摂理と恩寵だとしか言い得ません。

  そして、ビタ一文無しの私がアメリカのクリスチャン数名と幾つかの教会に支えら

れて数年間にわたって聖書を学び得られたのは実に神さまのご恩寵でしたので、この

自分にできることを通じて神さまにお礼返しをするのは当然のことと考えてのことで

す。  今は夫婦共に老齢年金生活者ですから今後どこまでやれるかわかりませんが、

でき得ることを誠実にやってお召しに備えたいと願っています。

 

                                             

 

  全世界を震撼させた米国東海岸での同時多発テロ事件(あるは人類が嘗て体験した

ことのない新しいタイプの宣戦布告)で世界中の殆どの人々がおのおのの立場でいろ

いろなことを考えたのであろうと想像します。  愛する者たちを恐怖の一瞬のうちに

失われた家族に祈りを捧げます。  特に機内でテロリストたちに挑戦を試み、航空機

が制御能力を失い墜落した時の勇敢な指導者であったタッド・ビーマーさんは私たち

と同じ教群の仲間でした。

 

  どうして神さまは人類をお創りになっておいて、一部の人々を、例えば十数億人?

のイスラム圏に住む人々が各自の自由意志でエホヴァ・ヤーゥエの神さまでなくて、

彼らのアッラの神を信じるようにさせておいて、聖書の神さま・エホヴァの神さま、

ヤーゥエの神さまを信じない人は救われないなどと、そんなむごい、不条理なことを

定められたのだろうか?…このような質問が、比較的感情的にならなくて済んだ多く

の米国に住む人の心の中に起ったに違いないと、私はそのように思っているのです。

 

  神学論争に入るためにこのような質問を出したわけではありません。  ロマ書2章

6節から14節を読んでみますと、そして神さまが愛と義の神さまであることを考えて

見ますと、すなわち、神さまの計り知れない愛とご恩寵と、神さまの義というものが

公平ということを意味している以上、イェス・キリストの名前を知らなくても、聞い

たことがなくても、その人がその人なりの正しい在り方、生き方をしていれば、それ

ぞれの人々のことを私たちが心配しなくても、神さまが公平に愛を持って扱って下さ

ると、私は聖句を読んで全く安心しているのです。  神の国は想像を超えて広いもの

と信じています。

 

  キリスト「教徒」の中にも原理主義者がたくさんいますし、そのような「狂徒」に

は上記ロマ書2章の中の聖句を恐らくは読んだこともなく、そこの聖句が意味してい

る真理を深く読むこともできず、神さまの愛と義に感動した事もないだろうと想像し

ています。  己が作った神・欲望・己の腹に仕えているからです。  ロマ書1618

の問題です。  『主よ、主よと言う者のすべてが天国に入るわけではない』とイェス

はおっしゃっています。  マタイ伝7章21節から22節にかけて厳しいお言葉が記され

ています。

 

  それよりも、私がここで先日のニューヨークやワシントン特別区で惹き起こされた

事件との関連で、イスラム教徒たちのことを神さまの創造のご計画の中で考えてみる

時に、神さまの主権というむつかしい神学上の問題に当面する時に、実はこれこそが

ケイン・リッジで2百年前に悩み続けていたバートン・ウォーレン・ストーン牧師の

悩みと本質的に同じだということを、皆さんに気付いて頂きたいのです。

 

  まだまだストーンのことを深く調べたわけではありませんので詳しいことを述べる

わけにもゆきませんが、そしてさらに調べたら、将来、何であんなつまらないことを

書いたのだろうと恥じるだろうと思いますが、今の時点で私が理解しているストーン

牧師の悩みとは、やはりウエストミンスター信仰告白やカルヴイン主義から来る悩み

ではなかったのかと想像しています。

 

  今アメリカで多くの人々がわからなくなっている点と同じような問題だろうと思い

ます。  神さまの主権と人の自由意志の問題だろうと思います。  神の義と神の愛、

神の主権と神の恩寵の問題だったのだろうと思います。  神さまが人をお創りになっ

ておいて、その人が神さまを信じられないような状態に置かれていて、予定されてい

て、それでいて、なおかつその人の不信仰の故に神さまがその人を裁かれるというこ

とは一体全体どういうことなのであろうか、人間がその人の自由意志で神さまを選べ

ないものなのだろうか、神さまの恩寵というものは、それではどういうことになるの

だろうか?…というような問題だったのではないかと私は思っています。

 

  現在でも一部の長老教会やバプテスト教会では神さまの主権を余りにも強調し過ぎ

て、常識から考えてもおかしな、ちっぽけな、安っぽい、悪意に満ちあふれた絶対的

独裁者の神さまを作りあげて信じ、それを教会に来る人々に教えているのです。

  『神は誰々の息子がホモになることを予定されていた』とか『誰々の娘が麻薬中毒

患者になることを計画されていた』などと説教しているバプテスト教会に『私は現在

通っている』と報告をしてくれた教会史研究仲間の一人が書いて来ました。

  極端なカルヴィニズムというものは、ストーンの時代だけかと思っていましたが、

今でもまじめに説いているのですから、人々が不安になるのも当然だと思います。

 

  ストーンは1793年にノース・キャロライナ州でウイリアム・ホッジ William Hodge

牧師から「神は愛なり」というメッセージを聞いて大いに感動しています。  また、

1795年にはオケイリー派のメソジスト教会の牧師ホープ・フル Hope Hullからもその

温厚な人格を通して福音の温かさに接していました。  その直後に、ジョージア州の

ワシントンにおもむいた時に、長老教会のジョン・スプリンガー John Springer牧師

に出会い、その寛容な交わりの精神に接して感動しています。

 

  (注  音を字で書くということは極めて困難なことです。  まして外国人の名前を

カタカナで示すということも難しい仕事です。  ジェームズ・オケリ James O'Kelly

もどのように発音して良いか久しく迷っていました。  米国人に訊ねてみてもその人

の出身地によって発音が微妙に違う時があります。  今までは「オッケリー」と使っ

て来ましたが、今後は「オケリー」と統一するつもりです。  ただし「オ」は長音で

はなく短音で発音します。  なお「O'~」は「誰々の子、誰々の子孫」という意味の

アイルランド語です。  戦後の映画にモーリン・オハラという女優がいました。)

 

  前にも書きましたが、ストーンは、いわば「北風」的教師や牧師と出会い戸惑い、

「太陽光」のような温かい教師や牧師に出会って励まされていました。  長老教会の

厳しいカルヴィニズムだけでは窒息しそうになっていた時に、このような先輩に出会

い更に深く神の愛、神の恩寵、個人の選択の自由などを考えるようになっていったの

ではないかと思います。

 

  ストーンが未だノース・キャロイライナ州の Caldwell Academy コールドゥエル・

アカデミィに在学中の仲間でウイリアム・マッギーとジョン・マッギー William and

John McGeeという兄弟がありました。  弟のジョンはその後メソディスト教会の牧師

になりました。  兄弟二人もテネシー州に移住し、弟は巡回牧師をしていました。

ストーンは二人にテネシー州内で1796年8月に再会します。

  場所はテネシー州中部で、ケンタッキー州との州境からすぐ下側、ナッシュヴィル

市の北東北の方向に位置するサマー郡のシャイロ Shiloでした。  無法者の居住区で

有名なケンタッキー州のローガン郡のすぐ下に位置しています。

  (余談ですが、ここには前千年王国論に立つ、仲間のギャラテン教会があります)

間もなくストーンは後妻さんを迎えることになりますが、エリサ・キャンベル Elisa

Campbell嬢も確かこのあたりの出身だったように記憶しています。  マッギー両兄弟

との再会も独り悩んでいたストーンにある種の影響を与えることになります。

 

  話が飛びますが…  ストーンの悩みの日々との関連で、別の長老教会牧師ですでに

紹介したことのある、「地獄の焼け尽くす裁きの炎」hell fire preaching で有名な

ジェームズ・マックグレディーらが牧会する教会がローガン郡を流れる三つの川辺に

ありました。  ギャスパーGasper River、マディー Muddy River、レッド Red River

の三つの川です。  いずれの川も蛇行して流れるカンバーランド河にそそぎ、さらに

ナッシュヴィル市内を西北に流れて、やがてはミシシッピ河に入ります。

  その三つの川辺に集まっていた集会の一つで、メソジスト教会の牧師になっていた

ジョン・マッギーが伝道集会説教をしていましたが、何人かの聴衆が集会中にまるで

「殺されたように」突然に地面に倒れたことがありました。  ストーンはこの話題を

耳にしました。  ストーンにとってこのことは大きな衝撃であったようです。

 

  また、1800年夏から秋にかけて、お母さんの死でストーンは東隣りのヴァージニア

州とノース・キャロライナ州に旅行に行かなければならなかったことがありました。

  キャロライナ訪問の旅を終えたストーンは、仲間の長老教会のジェームズ・ホール

James Hall牧師と一緒にテネシー州経由で帰宅途上にありました。  ヴァージニアと

ノース・キャロライナを旅行中のストーン牧師はすでにテネシー州とケンタッキー州

で注目すべき信仰復興集会が開かれていたことを耳にしていました。

 

  友人のホール牧師と一緒にケンタッキーに戻る途中の原生林の中で、テネシーから

戻って来る何人かの人々に会いました。  ホール宛ての書簡数通を持っていました。

手紙のどれもがサマー郡のシャイロ Shiloh, Summer County, TN  での集会の詳細な

報告文で埋まっていました。  (現在この名の村は正式には存在していません)

  伝道集会に集まって来た僻地開拓者たちの多くが『神の慈悲を求めて泣き叫んでい

る』と異口同音に記されてありました。  また、それらおびただしい人々が『救われ

て神さまを誉め称えて喜んでいる』とも書かれてありました。

 

  主イェス・キリストの十字架の上での贖罪の業と、そこに示された神さまの恩寵、

個人の自由意志、そういう大切なものと神の絶対主権を強調するカルヴィニズムとの

関係での苦悩…ストーンはこれらの点で独りで相当に悩み続けていたわけですから、

シャイロで起っていた出来事はストーンにとって大きな衝撃であったようです。

 

  1796年の冬にストーンはケンタッキー州(レキシントンの近郊)ケイン・リッジと

コンコードに移住して来たのですが、それ以降のケイン・リッジ集会もコンコ-ドの

集まりでも、信仰的教勢は「まぁまぁそこそこ、少しずつ動いている」といった状態

であったようです。  それは他のケンタッキー州内でも大体同じようであったのでし

た。  それですからすぐ南のテネシー州の僻地での集会の報告はストーンにとっては

仲々に信じられないような内容であったと推測します。  彼の心の中で苦悩していた

神学論争どころではないような報告を聞いてしまったのです。

 

  その当時のケンタッキー西部僻地一帯では、人口は2倍に膨れ上りつつあったので

すが、その地帯で一番会員数が多かったメソジスト教会ですら、1792年から1800年に

かけて会員数が67名減ったと報告されています。ストーンにとって、彼自身の心中の

神学的な悩みの他に、ケイン・リッジやコンコードを始めとする長老諸教会の力が減

少していることも、共に大きな悩みであったようです。

 

  そのような時にテネシー州中北部のサマー郡や、そのすぐ上のケンタッキ州中南部

のローガン郡で行われていた信仰復興運動の活気に溢れる報告が次から次にストーン

の耳に入って来ていたのです。  焦っていたのかも知れません。  マッグレディ牧師

の他にも、かつてノース・キャロライナで学んだ学友たちや先輩牧師たちが説教して

いたローガン郡の集会を視察に行くことを決めたのです。  1800年春のことでした。

 

  そこでストーンが目撃した不思議な諸光景は、すぐ後に、ケイン・リッジでも再現

されることになるのですが、それらの不思議な現象はそれまでの長いあいだストーン

が独りで悩み続けていた救いに関する疑問を解く鍵を与えることになるのです。

 

  すなわち、神さまが人間をお創りになっておきながら、一部の人間を神さまを信じ

られないようにされておいて、その人が神さまを信じないからという理由で、神さま

がその人を裁かれるというのはどうしても納得がいかない、そのような不条理をなぜ

神さまは企てられるのだろうか?  それはカルヴィン主義が教えることで、神さまは

そのようなひどいことをお考えにならないのではないか?  十字架上の贖罪の業とは

そんなむごいことを含むのだろうか?  人はその人の自由意志と求めで神さまの救い

に与ることができないのだろうか?  いや、できるはずではないのだろうか?

 

  このような長年の疑問が、ローガン郡の伝道集会でストーンが目撃した、それまで

に目撃したことのなかった不思議な現象から、ストーンに彼なりの答を見いださせた

のでした。  聖霊の働きを彼はローガン郡で初めて目撃したと理解したのです。

 

  もちろんストーンには初めての体験でしたが、実はそのような現象はすでに新大陸

でも見られていましたし、英国やスコットランドでも観察されていました。

  メソディスト教会にとっても長老教会にとっても、それは決して珍しいことではな

く、特にメソディスト教会ではそのような現象に人々がおちいることをむしろ奨励し

ていました。  1742年にスコットランドのグラスゴーの郊外の寒村キャンバスラング

Cambuslangの集会でもそのような現象が見られていたのです。  敬虔な長老教会員や

メソディストの信徒たちがそのような伝統を新大陸に持ち込んでいたのです。

 

  このことは次回号で更に学んでみましょう。  教会史の勉強は面白いですね。