《ケイン・リッジ  その6》

 

  前回号最終部分でケイン・リッジ関連文献を紹介しておきました。  そのあとにも

数点の善い参考資料が存在することがわかってきました。  今回は先ずその後に判明

した資料源から紹介しましょう。  後に続いて研究なさる方の出現を期待します。

 

  ディサイプルズ歴史協会 Disciples of Christ Historical Society 出版の会報誌

のバック・ナンバーにもケイン・リッジ関連資料2点を自宅の本棚から見つけ出しま

した。  1994年春版に2論文がありました。  The Power of Christ's Sacrifice:

Barton W. Stone's Doctrine of Atonement by D. Newell Williams と、もう一つは

The Sacramental Character of the Camp Meeting by Keith Walkinsです。

両者は共に Christian Theological Seminary の教授です。  私は同協会の特別維持

会員ですので主要資料は定期的に受け取っています。  参加をお勧め致します。

 

  さらに今夏号に "Practicall Remembrance"  Cane Ridge by Leigh Eric Schmidt

と、Barton W. Stone, Portraits on the Half-Century by Anthony L. Dunnavant

の二つの論文が出るのは承知していました。  (上記英語スペルは原文のまま)

  前者は先週号で紹介済の Holy Fairと同じ著者です。 Holy Fairはスコットランド

の信仰復興運動が新大陸へと伝わって行ったリヴァイヴァル運動を追った文献のよう

です。  絶版で古本を入手努力中です。  近くペーパー・カヴァー版で再発行の予定

のようです。  著者はプリンストン大学宗教部の教授です。

  後者は今年2月に47歳の若さで癌のため帰天されたディサイプルズの教授です。

ケイン・リッジ関連講演記録文など多くの遺稿があるようで入手努力中です。

 

   Cane Ridge, America's Pentecost by Paul Keith Conkin は今年末には発行され

る予定のようで申し込みました。

 

  その他に判明した本で1910年出版の The Cane Ridge Meeting House by James R.

Rogersがあります。  これには最近補足文を加えた上で再版されるそうです。  注文

しましたが、ハード・カヴァー版は50ドル以上するそうで、特別注文のようです。

 

  その他に、ボストンに北米・カナダ讚美歌協会 The Hymn Society という研究機関

があり、私もその会員になっていますが、古い資料から1984年発行のリヴァイヴァル

特集号を発見し注文しました。  今回の米国テロ同時多発事件で太平洋航空便が全面

ストップとなり入手が遅れています。  これが到着すれば昔の信仰復興運動時に讚美

された讚美歌の種類などが更に詳しくわかるでしょう。

 

  さらに、かねてから私淑しているトム・オルブライトとおっしゃる文字道理のもの

知り博士からケイン・リッジ集会を調べるのならスコットランドのグラスゴー近隣の

村、キャンバスラングの1742年の集会から調べるようにcとの提案を頂きました。

  教授のタイプ・ミスを疑いもなく信じこんでいた私は先週号表紙挿絵の下の紹介文

にキャンバスランドと書きましたが、これはキャンバスラング Cambuslang のタイプ

ミスであることがわかって来ました。  インターネットで資料の一部を調べ始めて、

知らなかった教会史が一杯あるのを知り驚愕し、自分の限界を教えられた次第です。

 

  その他にも数点の資料があるようですが、英語が苦手の私には読み切れないと判断

してそれ以上の入手を控えています。  あと、地元レキシントンやケンタッキー各地

の新聞が特集号を出したようですので、友人たちに依頼して収集しています。

以上が先週号以降に知り得たケイン・リッジ関連文献に関する追加情報です。

 

  さて、先週号5頁最下段のストーンが提案したとされる諸長老教会の聖餐に関する

ことから書いて見ましょう。

 

  私たちは聖餐「式」とは呼んでいませんし、そのように呼びたくもありませんが、

2百年前のストーン牧師の時代には、あるいはそれよりも前のスコットランドでは、

サクラメントとして、サクラメンタル・サーヴィセス sacramental services として

執り行っていたようです。  宗教的儀式・典礼としての匂いが濃いと思います。

 

  ローマ教会の典礼的な発想、ローマ教会の秘跡的な発想が根底にあって、そのこと

が英国国教会を経由してスコットランド国教会(=長老教会)へと受け継がれて来た

のではないかと、そのように素人の私は考えています。  宗教儀式の要素が強かった

のかなと思います。

 

  私個人は主の食卓をただ単なる聖餐「式」という宗教儀礼として捉えたくないので

す。  十字架の主を覚え、十字架の主の痛みと許しと愛を覚える厳粛なもの、日曜の

公同礼拝の中心と捉えているからです。  イェスご自身がそこにいらっしゃると意識

してあずかっています。  いわゆる説教というものは主の食卓・聖餐を補佐するため

のものであるとの理解をしております。

 

  この点では、伝道学院が主催した1997年9月の講演会でハーディング大学院教授の

ジョン・マーク・ヒックス氏が「主の食事 The Lord's Supper」と題して優れた洞察

をなさっています。  同年7月から10月にかけて、アビリン大学院でスレート教授が

「種入れぬパン」と題する授業をされたように思いますし、同大学主催の電子メール

によるディスカッション・グループでも同じ題で討論が盛んに行われていました。

 

  また、大月教会の伝道者の清水光雄さんと、金沢教会の伝道者の天野智允さんと、

私とが何となく組んでいる「神の声に聞こう会」で、1998年3月には「主の食卓」と

題する特集号を出し、優れた論文6点を翻訳したものを紹介しています。  経済的な

理由で毎回50部前後しか発行できませんが、聖餐に関する格調の高い論文集です。

 

  元に戻り、ストーン牧師のケイン・リッジ信仰復興集会が興った時の長老諸教会で

はコミュニオン communionと称して聖餐「式」を執行しようとしていました。

  今までにも何度か紹介しましたが、無法地帯と呼ばれていた同じケンタッキー州の

中南部、テネシー州との州境近くのローガン郡では同じ1801年の4月にサクラメント

としての聖餐「式」が行われていました。  ストーンはこの事を充分に承知していた

ので同じように聖餐「式」をケイン・リッジでも行いたいと願ったのでした。

  ローガン郡の集会でも、とても多くの人々が集まって、後のケイン・リッジ集会の

時と同じように人々が、まるで戦場で倒れて行くように、地面に倒れるというような

状態が続出していたようです。  ストーンがそのように書き残しています。

  ローガン郡で1800年には二つの聖餐「式」=サクラメンタル・ミーティングがあっ

たようです。  ストーンも参加していたようです。

 

  このようなサクラメンタル・コミュニオン、聖餐「式」には数多くの人々が集まる

傾向がすでにあったのです。  ケイン・リッジ集会より59年もさかのぼった1742年に

スコットランドのグラスゴーの郊外のキャンバスラング Cambuslang での聖餐「式」

にも2万人ほどの人々が集まって、同じような恍惚状態が見られたとのことです。

  このことに関しては、改めておおよそのことを紹介するつもりでいますが、上記の

レキシントン神学大学院(嘗てのカレッジ・オヴ・ザ・バイブル)のドゥナヴァント

教授 A.H. Dunnavant 1992年には "Cambuslang and Cane Ridge" Cane Ridge in

Context と題する文献を編集されています。  オルブライト博士から入手しました。

 

  今までに何回か言及しましたが、ケイン・リッジ集会が具体的にいつから始まり、

いつ終了したのかということを断定するのはむつかしいようですが、おおよその人々

の記録では1801年8月6日(木)の午後か夕方のマシュウ・ヒューストンの説教から

始まったとする説が支持をえているようです。  肝心のストーン牧師自身は40年ほど

してから回顧録で13日(木)か14日(金)から始まったcと記しているようです。

 

  人々が木曜日と金曜日を中心に聖餐「式」=サクラメントの為に集まり始めた時、

ケイン・リッジに集まっていた2万人前後の人々の中から大体8百人から千人の人が

聖餐「式」に参加したようです。  あのケイン・リッジのログ・ハウスが会場であっ

たそうですから長い列ができていたことだろうと推測します。  グループごとに中に

入り、長老教会の牧師たちが司式したそうです。  現在のように司式者の他に聖餐を

廻すアッシャー、介助者がいたのではなかったようです。  牧師だけで施行したとの

ことです。

  ユナイテッド・サクラメント、すなわち一致のためのサクラメントと告示宣伝され

ていましたが、長老教会員以外でサクラメントにあずかったのはメソジストだったと

言われています。  バプティストたちは参与しなかったという人もあれば、いや確か

に参加していたし、その他の教派からの参加者もあったことを示唆する文献もあると

言う学者もいます。  そこに居たわけでありませんので私は何とも言えません。

 

  日曜日にサクラメントは行われたようです。  その日はどしゃ降りの雨の日だった

そうです。  ログ・ハウスの中に入った人々は長いベンチに坐りました。  あの建物

には約百人が坐れます。  聖餐の食卓は8基用意されていたそうです。  長老教会の

牧師ロバート・マーシャルが説教をし、各食卓には8名の長老教会牧師が聖餐「式」

執行の任に当たりました。  このようにして、次から次へとグループが入れ替わって

パンと葡萄酒に与ったそうです。  たくさんの参加者があったので午後にまで及んだ

そうです。  地元のメソジスト教会の牧師ウイリアム・バーク William Burkeはこの

式を「一致のためのサクラメント」と理解して喜んだようですが、ストーンを除いた

長老教会の人々はそれほど嬉しい顔をしていなかったとの記録もあります。

 

  このサクラメントを中心として、ケイン・リッジ教会を取り巻く周辺の長老諸教会

やメソジスト教会などの複雑な動きは、D.Newell Williams の本の60頁などに詳細に

説明されています。  ここではこれ以上の詳細は省略します。

 

  トーマス・キャンベルがペンシルヴァニア州西南部でサクラメンタル・サーヴィス

を執行した時にも、キャンベルの個人的信仰理解から、キャンベルが属していた教派

(アンティ・バーガー派)の長老教会員以外の長老教会員たちやメソジストの人々を

も聖餐「式」に招いていました。  開拓僻地ですから巡回牧師が少ない地域です。

  それらを考慮して、そしてすでに心の中では聖書的に基督者の一致を模索していた

のだと思いますが、寛い心の持ち主の彼には、僻地での聖餐「式」に他派の人々をも

一緒に招く事に何も躊躇などなかったものと私は理解しています。  定住牧師がいな

い地域ですからサクラメンタル・サーヴィスを一年以上もやれなかった僻地の教会も

多くあったようです。  メソジスト教会員のための牧師はいませんでした。

  当時のサクラメンタル・サーヴィスというものが年に何回あったのかという点でも

確かな回答を得られたわけではありませんが、年1回というのもあれば、2回という

のもあり、年4回とするものもあれば、毎週という教会もあったようです。  しかし

おおかたの学者は年に2回から4回だったのではないかと考えているようです。

 

  さらにまた、信者の人生というものを、主イェスの死、埋葬、復活との関連で覚え

ながら、サクラメンタル・サーヴィスに参加することが多かったようです。

  それに、このこととの関連で覚えておきたいことの一つは、当時の長老教会の人々

の特徴が敬虔さ(パイェティー piety)にあったという点です。  その敬虔さのゆえ

にサクラメンタル・サーヴィスを大切に守っていたようですし、旧大陸から新大陸に

持ち込んで来たと言う事実でしょう。

 

  サクラメンタル・サーヴィスというものは、こん日の私たちが主イェス・キリスト

の十字架の出来事を中心に、主イェス・キリストの再臨の瞬間に到るまで、主の死を

告げ知らせる(コリント前書1126節参照)という厳粛な記念・思い出の時間と場、

主イェス・キリストとの出会いの瞬間として大切に守るという理解と違っているのか

も知れません。  それがどんなに敬虔なものであっても、私にとっては、ただ単なる

「式」のような儀礼的・典礼的なものではなくて、そこでその瞬間に、私の全存在が

主と出会うという厳粛な時と場だと理解しています。  皆さんは如何ですか?

 

  いずれにしても、ケイン・リッジの時もそうでしたが、そのようなサクラメント、

聖餐「式」は日曜日にだけ執り行われたことは間違いないようです。

 

  大勢の人々がサクラメンタル・サーヴィス、すなわち、聖餐「式」の食卓の回りに

集まるという習慣は、スコットランドからいろいろな派の長老教会員たちが新大陸に

持ち込んだ慣習だったようです。  トーケンを食卓に置いてから聖餐にあずかったよ

うです。  食卓は通常長く、集会場を横切って入口にまで達していたようです。

葡萄酒は発酵したもので、パンはイースト菌を使っていないものだったようです。

 

  トーケンとはコイン型の金属片で、一種の表象コインです。  恐らく聖餐「式」に

列席するために教会が教会員に発行していたのでしょう。  グラスゴーに滞在してい

たアレキサンダー・キャンベル青年の物語にも出てきました。

  (私がむかしニューヨーク市の地下鉄やバスを利用していた時には回数券や料金の

代わりに丸い小さな硬貨のようなトーケンを入口の箱の中に投げこんで乗車したこと

を覚えています。  今はどうなっているのか知りません。  半世紀も前のことです)

 

  さて、一部の学者は、当時の長老教会のサクラメンタル・サーヴィス、すなわち、

聖餐「式」は、現在の私たちが執り行っているような方法ではなかったと言っていま

す。  パンと葡萄酒だけにあずかり、こん日の我々が言う、いわゆるフル・サイズの

日曜礼拝形式を備えた説教や讚美や聖書朗読はなかったというのです。  讚美や聖書

朗読があったはずだという学者もいます。  今の私にはそれ以上のことはわかりませ

ん。  葡萄酒と言えば、それはもちろん酒杯chalice チャリスに入れたもので、一つ

の食卓に一つの酒杯(別名聖杯)が平らな皿の上のパンと共に置いてありました。

古い酒杯を手に入れたいと試みています。  新品は高価すぎて手が届きません。

 

  どの聖書が具体的に読まれたのか、それは今のところ確認をとることができません

でしたが、私たちが読む聖句箇所が読まれたのはほぼ間違いないと思います。

  例えばマタイ伝2626節前後や、マルコ伝1421節前後や、ルカ伝2214節前後や

コリント前書1016節以降や、同書1123節以降などが考えられます。  旧約聖書の

過ぎ越しの祭りなども読まれたかも知れません。  歴史の事実に憶測を持ち込むのは

良くないことですが、聖書箇所に関しては内容に変化はないので許されるでしょう。

 

  2百年前のサクラメンタル・サーヴィスとしての聖餐「式」で、それではどのよう

な讚美歌が歌われていたのかということですが、すでに述べましたが、当時の讚美歌

についての特集号があることを知り取り寄せています。  多発同時テロ攻撃が発生し

たために、緊急措置として国際航空便が現在は停止状態にありますので、予定どおり

本号で紹介することができなくなりました。

 

  ストーン自身が作詞した讚美の詩を先日入手しましたが、これは当時のカルヴィン

主義に凝り固まっていた長老諸教会の環境の中で、よくも大胆な発想で作詞したもの

だと感心させられる内容です。  スペースが許せばこの号で紹介したいと思います。

 

  曲は Away in a manger で歌ったそうです。  この Away in a manger には二つか

三つの異なった曲があったと私は理解していますが、どちらの曲をストーンが考えな

がら作詞したのか、これは今の私の力では推測すらできません。

  昨夜テネシー州在住のマッケイさんに電話をして電話口で私が歌ってみましたが、

讚美歌研究を趣味とされるマッケイさんにも決定的なことはわからないようでした。

  作詞年・作曲年が1800年より後の曲はまず排除した方がよいでしょうし、それより

以前に作曲されている曲なら大丈夫だろうと想像しています。

  聖歌 667の曲と「ふくいん子どもさんびか」の9番は共に歌われていた可能性があ

ります。  マルティン・ルッターの曲ですから。  他の曲の方は、残念ながら日本で

発行されている讚美歌や聖歌、それにインマヌエル讚美歌、勝利の歌IとIIなどには

記載されていません。  いくつかの異なった英語讚美歌には出ています。

教会史の勉強は芋蔓式に次から次へと新しい課題と挑戦が出て来ます。  また次号で