《ケイン・リッジ  その13

 

  今からちょうど二百年前、西部開拓僻地であったケンタッキー州のケイン・リッジ

(籐が生い茂る畝または丘陵地域という意味)で開催された長老教会のサクラメント

(聖礼典)の聖餐が執り行われようとした時に、二万人とも三万人とも言われた人々

が約九千頭の馬や馬車を利用したり徒歩で集まり、食料品が底をつくまでの数日間を

異常な雰囲気の内で過ごし、北米教会史上もっとも有名な聖霊体験の信仰復興集会が

開催されたと学習してきました。

 

  さらに、このケイン・リッジ集会を理解するためには、1742年のスコットランドの

グラスゴー郊外で開催されて、ケイン・リッジと同じような聖霊体験が見られたとも

言われているキャンバスラング集会 Cambuslang Meeting も調べてみなければならな

いと教えられました。  現在この集会についての資料を入手中です。

 

  こん日を生きている私たちにとって、二百三十年ほど前の新大陸・新世界で新しい

国家、自由と独立した国を建設しようとしていた人々のこと、彼らが旧世界で味わっ

ていたことや、彼らが新しい天と地、新しいエルサレムを求めて北米大陸に移住して

来た時の信仰や信念などを理解しようとすることは、極めてむつかしいことです。

 

  すでに学びましたように、アメリカの$1ドル紙幣の裏側の左側に印刷されている

ピラミッドを中心にした絵に、移住開拓者たちの理念が端的に表されています。

  「旧世界より移住して来た白人から見たという意味での新大陸・新世界です」が、

新大陸に黙示録20章が約束している新しい天と地を、新しいエルサレムを、イェス・

キリストの千年王国を俺たちの手で建設するんだ…という気迫を表したものです。

 

  そのような共通のエトスがあったので、クエーカーズも、シェーカーズも新大陸に

やって来ましたし、新世界の住民たちもそのような宗教的興奮状態の中にいました。

  千年王国待望理念が強く開拓者たちを支えていましたので、旧世界では考えられな

かった宗教運動が「自由と独立と平等」というスローガンの中で起りました。

  アドヴェンティスト(再臨)運動、モルモン運動、エホヴァの証人(ものみの塔)

運動などが、そのようなエトスの中で建国後に生まれて来るようになったのです。

 

  上記はいずれも新大陸・新世界で生まれた北米独自の宗教運動です。

これらの動きよりも前に、独立宣言が布告された直後から、自由と独立と平等を謳う

新大陸で、ほぼ同時多発的にいくつかの異なる地方で「クリスチャンだけになろう」

という運動が生まれて来ました。  大覚醒時代のうねりの後半期でもありました。

 

  ニュー・イングランド地方ではバプテスト教会員を中心にアブナー・ジョーンズと

エライアス・スミスが率いる運動が起りました。

  ヴァジニア州や南北キャロライナ州やジョージア州ではメソジト教会を中心とした

オケイリーの運動というのがありました。

  そしてケンタッキー州中南部ローガン郡近辺のバプテスト教会のジョン・マルキー

の運動、ローガン郡のマクグレディら長老教会牧師とマッギー牧師らの信仰復興運動

もありました。

  そしてケイン・リッジのストーン運動もほとんどほぼ同時に起ったのでした。

  これらは旧世界から新世界に持ち込まれてきた既存の宗教制度や組織や教義などを

拒否して、自由と独立と平等を謳う新世界で、『俺たちだけがクリスチャンではない

けれども、俺たちはただのクリスチャンだけになろう』と主張した動きでした。

 

  これらの運動に共通した特徴は:

  まず第一に、教会の名前は「クリスチャン」、「クリスチャン・チャーチ」または

「キリストの教会」だけで充分であり、メソジスト(キチキチまじめに几帳面に物事

をやるという意)だの、バプテストだの、長老だのという人間的な名前を主イェス・

キリストの教会に付けるのは良くない…と考えた点があります。

  次に、各エクレシアを治めるのに諸教派が旧世界から持ち込んできた信仰告白文や

信条などは不要で、新約聖書の教えることだけで充分である…という点です。

 

  これらの運動体に重要な思想を与えることで、これらの運動に深く関わりを持った

り影響を与えたにもかかわらず、残念ですがほとんど何も知られていない重要な人物

にライス・ハガード Rice Haggard というメソジスト教会の指導者があります。

  当然ですがこの人物についても学ばなければなりませが、時間不足でほとんど何も

手をつけられないままでいます。

 

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  前回号はケイン・リッジ集会に参加したものの余り評判が良くなかったバプテスト

教会のジェームズ・ガーランド牧師や、黒人バプテスト教会の牧師で通称オールド・

キャプテンらの名前が残っていると、そのように書いて終わりました。

 

  今回は、ケイン・リッジ信仰復興集会(本当は長老教会の聖餐式という名目で開催

されたものでしたが)に参加したバプテスト教会について紹介しておきましょう。

 

  ケイン・リッジで長老教会のサクラメントが行われていたと同時期に、バプテスト

教会でも彼らだけの集会がケイン・リッジから約9キロほど離れたヒグビー集会場で

行われていたのです。    もう少し正式に言いますと、エルクホーン・バプテスト・

アソシエーション Elkhorn Baptist Association at Higby's meeting house です。

  ヒグビーという部落がどこにあったのか?  所持しています50年ほど前の地図には

出ていませんん。  現地歴史家の協力を得るか古い専門地図を入手する以外にすべは

なさそうです。

 

  エルクホーン(オオ鹿角の意)バプテスト・アソシエーション(同盟・連盟・協会

の意)の礼拝はバプテスト教会関係者にとっては相当に魅力のある大会であったよう

です。  八千人から一万人もの人々が集まって礼拝をしていたそうです。

  これだけの数の中には相当数の牧師たちがケンタッキー州中部地域から集合してい

たようです。  これには説明が必要かも知れません。

 

  「ベタニヤつうしん」の前回号で、新大陸に移住して来たメソジスト教会が牧師の

絶対数の不足でとっても困っていたと、さりげなく書いておきました。

  この点に関しては、ライス・ハガードの勉強を始めましたら、もう少し詳しく説明

したいと思います。

 

  それに対して、バプテスト教会の方は、僻地開拓地の開拓者たちの中にどんどんと

入って行けたし、開拓者たちに良く受け入れられ、十名から二十名前後の教会があち

こちに生まれ、僻地に容易に浸透することができたのです。

  もちろん、エリート教会、すなわちハイ・チャーチ、たとえばルーテル教会などが

「無学な肉体労働者や農民開拓者」の間に入り込む余地は全くなかったのです(無学

のただ人=使徒行伝4章13節参照、正規の神学教育を受けていないという意味)。

 

  この点で「万人祭司」論を実行していたバプテスト教会は僻地開拓者の気質に良く

合い、容易に受け入れられていたのです。

  メソジスト教会では、英国国教会を経由して、ローマ・カトリック教会の間接的な

伝統と発想が残っていますから、「正規の牧師」でないと典礼の執行を許されていな

かったのです。  長老教会にも同じような位階聖職者制度や意識があったものと推測

しています。  今でも両教会にはそのような意識と制度と伝統が残っています。

 

  ところがバプテスト教会では、普通の農夫が説教をやっていました。  聖職者意識

とか位階制度を重視していませんでした。  普通の信者が奨励や説教をしていたので

す。  ここにも小人数のバプテスト教会が僻地に拡散して行けた理由があります。

 

  バプテスト教会は、その名が示すように、バプテスマを全身浸水・水没 immersion

でやっていました。  このため、彼らは長老教会やメソジト教会の撒水や「滴礼」の

バプテスマを不適切なもの、不完全なものとして軽蔑していました。

(多くのバプテスト教会では今でもバプテスマを主イェス・キリストのからだ、宇宙

的エクレシアにつながるものとして認識せず、結果的に自分たちの教派への入会式の

ようにとらえている場合が多いと、残念ですが、私はそのように理解しています。)

 

  バプテスマに関してはそのような共通理解があったので、バプテスト教会員たちの

多くは、ケイン・リッジのストーンが提案していた「クリスチャンの一致の聖餐式」

を快く思っていなかったようです。

  「不完全なバプテスマにあずかったお前らと俺たちを同等に、一緒にとり扱わない

でもらいたいもんだ」という発想があったのでしょう。

 

  しかし、ケイン・リッジ集会で奨励をしたり説教をした人々の中にバプテスト教会

の牧師や、説教をする許可鑑札や、牧師となるための按手を受けていないという意味

での普通の信者たちもいたようです。  ケイン・リッジ集会では説教をしたり奨励を

するために、そのような「資格」は何も要求されてはいなかったのです。

 

  それですから、「御霊に導かれ」、「御霊に満たされた」何百人もの人々が自由に

あちこちで夜を徹して奨励したり説教をしていたのです。  その中には当然ですが、

婦人も含まれていましたし、子供すらも奨励をしていたと記録されています。

  新約聖書教会誕生の日、すなわちペンテコステ以来最大の「聖霊の注入」があった

と教会史の歴史家たちが異口同音に書き残している理由がこの辺りにあるのだろうか

と思います。

 

  ローガン郡での信仰復興運動集会でストーンが目の当たりに目撃して納得させられ

たように、ということは、ローガン郡で「御霊に導かれ」「聖霊に満たされ」て証や

奨励や説教をした人々の普通の日常生活には、そのような「語る」という体験や経験

や環境がなかった人々であったのですが、今回も「普通の人」たちが、ローガン郡で

ストーンが目撃したのと同じように、ケイン・リッジのキャンプ・グラウンドのあち

こちで証や奨励や説教をしていたのです。

 

  「普通のただの僻地開拓農民」となりますと、当時のほとんどの開拓者がどの程度

の識字能力があったのかどうかに関しては調べていませんので何とも言えませんが、

使徒行伝4章13節の「無学の普通のただ人」というのは、すでに述べましたように、

「特定の専門的神学教育や訓練を受けていなかった人」という意味ですから、婦人や

子供たちまでが証や奨励や説教をやったとなりますと、これは考えさせられます。

僻地開拓時代の寿命は短く、多くの人々が再婚し、たくさんの子供を設けています。

  夫は外に働きに出て、婦人は家庭で多くの子供たちの世話をしながら農業に従事し

ていたようですから、読み書きの時間と特権は限られたものだったと想像します。

「大草原の小さな家」を鑑賞していても何となくわかります。

 

  ストーン牧師は、ケイン・リッジで証したり奨励していた農夫や女性や子供を観察

して、「語る」ことが本業でも何でもなかった当時の「普通の人々」の語る内容には

驚いたと記録しています。  ストーンが想像し予想をしていたものをはるかにこえた

彼らの知識、弁舌のさわやかさ、思想や感情の深さに驚いたようです。

 

  集会中に「倒れた」人々の数は、少なく見積もっても一千人だったと思われていま

すが、その他のいろいろな記録によりますと、三百人というものから三千人というも

のまであるようです。  異常な興奮状態や集会に出席した人々の数を考慮にいれます

と、「倒れた」とか「入信した」人々の数を推定することは、今となっては、極めて

困難だというのがおおかたの一致した意見です。

 

  1827年になってからケイン・リッジ集会の報告文が発表されました。

それによりますと、ストーンは1801年の信仰復興集会で「入信」した人々の数を把握

確定することは全く不可能であると述べていますが、五百人から千人前後ではなかっ

たのだろうかと考える人々が多かったような印象を残しています。

  ストーン自身が書き残した自叙伝でストーンはそのような数を書き残すことを避け

ているようです。  そして『その数はただただ永遠の神のみが知るところである』と

しています。

 

  1801年初春のローガン郡での集会より以前には、それよりも一世代まえには、人々

は自分の救い、自分が永遠に滅びにいたるように神によって選ばれ、そのように予定

されているのだろうかどうなのだろうかと、長いこと悩み苦しまなければならなかっ

たのでした。

  あるいは、その反対に、自分は神によって救われるために選ばれ、そのように予定

されているのかどうかが全くわからず、それを確認する方法も手段もなく、どちらに

せよ、極度の、そして長期にわたる苦悩を体験しなければならなかったのでした。

ストーン自身もそのことで長いこと秘かに悩んでいたのでした。

 

  しかし、ローガン郡の集会に自ら参加して、そこで行われている不思議な業の数々

を見て、そこで信仰を得ている人々をまぢかに目撃し、そこで彼自身が得た確信を、

今度は改めて自分が牧会するケイン・リッジの聖餐式の集会で確認することになった

のです。

 

  すなわち、福音を聴くことによって、神が罪人の心をすっかりと変えてくださると

いう新しい信仰の確信を得たのでした。  それ以前までのように、あるような、ない

ような、わかるような、わからないような、また、いつそれがあるのか、いつ来るの

かもわからないような「聖霊の働きを待ってから」入信できるというような不安定な

状態はもはや必要ではなく、罪人が福音に耳を傾ける時に、神が罪人らの心を変えて

下さるという新しい信仰の確信を自らがケイン・リッジの集会で得たのでした。

 

  ストーンは1805年に彼のそのような福音理解を発表するにいたります。

すなわち、人が改宗・入信する前に、人がイェスを主と信じることができるようにな

るために働くとされ、そのように理解されていた「聖霊の働き」というものを経由し

なくても、「神は福音を通して罪人らをキリストの下に喜んで来ることをよしとされ

るのだ」という確信を、ストーン自身がケイン・リッジ集会で得られたというのは、

ケイン・リッジ集会のもう一つの大きな成果、神さまの恩寵であったと思われます。

 

  この後に、ストーンたちは、当然のことですが、自分たちが属していた長老教会や

集会に参加したメソジスト教会やバプテスト教会との関係で多くの摩擦や亀裂や調整

が必要になって来ます。  そして次第に自らを「長老教会員である」よりも、「自分

はキリスト者」であるという意識がますます強くなって行くに従い、それまでは何も

考えたことがなかった、自分が所属して来た長老教会とその組織や神学などに対して

も、聖書の規範を当てはめて考え始めるようになって行ったのです。

 

  これには、前述のライス・ハガードの影響が大きかったと思います。

  すなわち、これからは今まで同様に長老教会とか、メソジスト教会とか、あるいは

バプテスト教会とか、ルーテル教会などの名前を主イェス・キリストの教会の名前の

上に被せるのか、それとも「クリスチャン」という名や「クリスチャン」という名称

だけを主イェス・キリストの教会の名前にするのか…が問われて来たのでした。

 

  それと同様に、今までのように、一部の人間が自分たちだけの都合のために作り、

築き上げた信条や信仰告白文を今後も教会の規範として継続し、立脚して行くのか、

それとも今後は新約聖書を教会の規範とするのか、そのような決断に迫られるように

なっていったのです。  ライス・ハガードの影響はハガードがケンタッキーに移住し

て以降、ケンタッキーのいくつかの信仰復興運動に大きな影響を与えたのでした。

 

  私たちは後世にどのような最大遺物を残してお召しに備えているのでしょうか?

 

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  10章と12章の中で、ストーンがずいぶんと後になって書いた回顧録の文献の中に、

ケイン・リッジ集会にバプテスト教会の牧師たちや教会員たちも参加したとの言及が

あると紹介しておきました。

  また、本13章では黒人バプテスト教会(たぶん多くの黒人奴隷が含まれていたもの

と想像します)や、白人バプテスト教会もケイン・リッジ集会に参加していたようだ

と書いておきました。

 

  すなわち、黒人バプテスト教会では通称オールド・キャプテンと呼ばれていた牧師

や、白人バプテスト教会からは余り評判が良くなかったジェームズ・ガーランド牧師

も名前を連ねていたようだと、そのようにしるしておきました。

 

  また、ケイン・リッジ・キャンプ・ミーティングから6マイル・9キロほど離れて

いた所にあったヒグビー集会場で、エルクホーン・バプテスト・アソシエーションが

大集会を開催し、約8千人から1万人の開拓者たちが集まっていたと紹介しておきま

した。  ヒグビー集会場については留学中に聞いたこともありませんでした。

  ヒグビー集会場と、エルク・ホーン・バプテスト・アソシエーションについては、

その後も執拗に捜し続けましたが期待していたような成果をあげていません。

 

  その後の3年間ほどは全く手がかりがない状態が続いていました。

2003年になって、私が留学していたウンチェスターの隣町マウント・スターリングの

ローリング・ヒルズ・キリストの教会員で、ケイン・リッジ集会のアマチュア研究家

がいらっしゃるという情報を、茨城基督教学園に派遣されていた宣教師マッケイさん

から耳にしました。

 

  早速電話をかけ、当方が持っている情報を送り、夫人にはバラの花束を送り、著書

を購入し、徐々に交流を深めることができるようになりました。

 

  2004年7月になり、相当なお年のエヴァレット・ドナルドソン Everett Donaldson

さんに再度電話をして調査をお願いし、その結果、調べて下さった限りの下記情報を

頂くことができました。

 

  『具体的な名を挙げて特定できるようなバプテストたちが1801年のケイン・リッジ

集会に参加していたということを確認することはできなかった。

 

  個人的にケイン・リッジ集会に参加したバプテストたちもいただろうが、ケイン・

リッジ・キャンプ・ミーティングと時期を同じくして、たくさんのバプテストたちは

エルクホーン・バプテスト・アソシエーソンの集会に出席していた。

 

  ケンタッキー州のバプテスト教会員でバプテスト教会史の研究家たちは、ケイン・

リッジ集会のような感情的行動が目立ったキャンプ・ミーティングであれ、その他の

いかなるキャンプ・ミーティングにも、バプテスト教会員たちが参加していたという

事実はないと、このように主張し続けている』…のだそうです。

 

  更に、以下はバプテスト教会員でバプテスト教会史研究家のフォード S.H. Ford

さんの、当時の証言です。

 

『バプテスト教会に属する者たちが(野村補足注:牧師たちや信者たちが)個人的に

ケイン・リッジ集会に参加したことは疑いもない事実である。

そしてまた集会中に彼等があちこちで何らかの役割を担ったことも事実である。

 

  しかし最初からバプテスト教会としては、牧師であれ信者であれ、長老教会員たち

の無節制でとっぴもない奇怪な諸行動に対して、これを非難したのである。

  その故に、バプテスト教会としては、バプテスト教会の牧師であれ、信者であれ、

一人として、語られたような奇怪な諸現象を伴ったと言われている、そのような集会

に参加したという記録を保有するものではない。

 

  私は、その時点においてバプテスト教会員であって、そのような諸行動を目撃した

という数名の元会員たちと現在に到るまで接触することができている。

  それら元バプテスト教会員たちは、異口同音に、その当時のバプテスト教会の牧師

たちが、そのような無節制でとっぴもない奇怪な行動に否定的な見解を抱き、むしろ

そのようなことを思い止どまらせようと努力していたと、証言している。

  また、その種のキャンプ・ミーティングを主催したこともないと語っていた。

 

  それらの奇怪な行動の多くを目撃したウイリアム・ヴォーン牧師 William Vaughan

は、バプテスト教会がケイン・リッジ・キャンプ・ミーティングに参加していないと

する、疑うことができない証言をした』と、このように書き残しているそうです。