《ケイン・リッジ その12》
1801年6月6日(木曜)前後からケイン・リッジを目指す幌馬車(スクーナーとも
呼ばれていたと思いますが、連続テレビ名画「大草原の小さな家」でローラ嬢の両親
が乗っていたような幌馬車)や、現在でいう自家用自動車に相当する、馬一頭で曳く
二輪馬車、あるいは二頭の馬が曳く馬車、馬の背中にまたがって行く人、徒歩で行く
人、とにかくありとあらゆる輸送手段を使って何千人もの人々と馬ですべての砂利道
は埋まっていたようでした。
砂ぼこり、路上に散らばる無数の馬糞、馬のひずめが大地を叩く音、ワゴンの車輪
がきしむ音、讚美の歌声、興奮状態で合唱するアーメンの大合唱、ぐずる子供などと
私たちの想像を越える路上光景だったと思います。 ストーンやほかの参加者たちが
書き残した文面から容易に想像できます。
8月8日(土)と9日の日曜日だけでも一万人から二万人もの人々、あるいはその
数を上回った数の人々がケイン・リッジ周辺の農地に集まって来たようです。
先週の「ベタニヤつうしん」の表紙に、ケイン・リッジ周辺の草原地帯を90年ほど
前に撮影した写真を紹介しておきました。 ただし、90年前も現在も周辺一帯の風景
に変化はないと私は考えています。 半世紀ほど前に私が留学していたころと現在の
周辺の風景にほとんど変化を見いだしていないので、そのように思うのです。
比較的近郊からケイン・リッジに来た人々の多くは日帰りか翌日には一応それぞれ
の家に戻って行ったそうです。 そのようなことを毎日繰り返していたようです。
キャンプ地での長期滞在を予定して幌馬車で遠くから来た人々も、当然ですがいま
した。 日帰りであれ、1泊か2泊であれ、長期型滞在者であれ、多くの馬や馬車が
いたわけですから、相当な駐車スペースが必要だったようです。
当時のケンタッキー州の総人口は22万95人でしたから、ケイン・リッジに二、三万
もの人々、あるいはそれ以上の人々が、一時的とはいえ、僻地の小さな田舎の部落に
集中したのですから、州の総人口の10分の1を越えた集会となります。
確かにこれは画期的な出来事であったのです。
集会に参加する以外にも、水の確保だ、食料品の調達だ、薪炭の調達だ、炊事だ、
育児哺乳だ、洗濯だ、干し場だ、トイレだ、医薬品だ…私たちの想像を遥かに超えて
当時の僻地開拓者たちの生活の臭いが信仰復興集会の陰からぷんぷんとしてきます。
土曜日朝の最初の説教はログ・ハウスで語られました。 午後にはログ・ハウスと
テントで間断なく続けられました。 セイラム長老教会の牧師のジョン・ライルは、
オハイオ州のキャビン・クリークからケイン・リッジにやって来たストーンの仲間の
マクナマーの説教を聴きましたがその説教が気に食わず、まるでメソジストの説教を
聴いているようだったと苦情を記録しています。 しかし、マクナマーの説教の内容
は、ストーンたち以外の誰もまだ説いていなかった「新しい福音 true new gospel」
と同じだとも書き残しています。 マクナマー自身は嘗てケイン・リッジ長老教会の
長老でしたが、オハイオ河を越えてオハイオ州に移住して行った人物です。
その他にも、ライル牧師はその後にストーンたちの間におこってくる論争の火種に
ついて記録としての最初の文を書き残しています。 すなわち、『彼らのように気性
の激しい、せっかちな男たちの行動や彼らの教えの影響とか結果というものは、必ず
キリストの教会を分離・分裂させることになろう the conduct of these hot-headed
men and the effect of their
doctrine will separate the church of Christ 』と
のライル牧師の観察と記録です。 私たち後輩にとって貴重な資料だと思います。
夕方、暗くなる前からキャンプ場には悔い改める人々のいろいろな叫び声がこだま
していました。 多くの人々がログ・ハウス集会場の中に詰め込んでストーンの説教
を聞こうとしていました。 窓が少ないログ・ハウスの集会場に多くの人々と一緒に
入ったセイラム長老教会牧師ジョン・ライルは、あまりの蒸し暑さと、狭い集会場に
ぎっしりと詰めかけた会衆の感情の高まりからほとばしり出て来るいろいろな絶叫や
ら、人々で込み合う狭い会場で倒れる人々が出たりで、耐えられなくなって、やっと
の思いで外に脱出したと記録しています。
ログ・ハウスから外に脱出したライル牧師は、そこでリッチャード・マクナマーと
顔を合わせました。
マクナマーはライルに、キャンプ場に拡がっている混乱や困難を心配していると
告げました。 その一因とは、キャンプ場のあちこちで説教が行われており、そこで
倒れる人が出ると、倒れた人々をある特定の少人数の人々の所に搬入し、運び込まれ
た人々を取り囲んで、その人のために少人数の人々が祈ったり讚美の歌を捧げている
ということでした。 恐らく更なる興奮状態を招いていたのだろうかと想像します。
レキシントンの長老教会のパトロンであったカーネル・ロバート・パタスンは、
「彼らが歌っていた歌というのは、その場の雰囲気に適った讚美歌や詩編であった」
と書き残しています。 ライル牧師は、このような介護は会場の秩序を維持するのに
役だっていたと記しています。
一方、ライルが書き残した文献によりますと、ストーンはキャンプ場の秩序維持の
ために特別な指示や命令を出さなかったようです。 ストーンはマクナマーと共に、
倒れた人が出れば、どこかよそに搬出するのではなく、むしろ倒れた箇所にそのまま
置いておけばよいと考えていたようです。 私にはその理由はわかりません。
上記マクナマーとライルの間で交わされた心配ごとの内容と、パタスンの見かたに
違いがあったような印象を受けますが、この詳細も今のところ私にはわかりません。
ペイント・リック
Paint Lick のマシュー・ヒューストン
Matthew Houston牧師と
ライル牧師とマクナマー牧師(と思うのですが)は一緒になってテントに入ります。
そして三人はテントの中で予定外の説教をすることに同意しました。 きっと多くの
聴衆がそのようなことを期待していたし、また、説教をせざるを得ないような雰囲気
が三人を包んでいたのでしょうか。 とにかく三人のこの予定外の説教がキャンプ場
の宗教的興奮状態をますます煽ることになったのは事実のようです。 ヒューストン
が最初の説教をしたのではないかと私は考えています。
そしていよいよ日曜日です。 サクラメントを執行する日とかねてから決められて
いた日曜日の到来です。 よりによってこの日はじゃんじゃん降りの日でした。
間断なくたくさんの雨が降り注いでいたそうです。 そのような訳で、午前中の奨励
と説教はログ・ハウスの集会場で行われました。 サクラメント執行に際し伝統的な
説教は説教台から長老教会牧師ロバート・マーシャル Robert Marshallによってなさ
れました。 この説教のことを英語で
traditional action sermon と記されていま
すが、長老教会のことを知らない私にはそれがどのようなものであったのか残念です
が全くわかりません。 そのため、どのように翻訳したら良いのかわかりません。
たとえば、それまでの長老教会が慣習的にやっていた「伝統的なやり方の説教」と
直訳したらよいものやら、「伝統的な行動説教」と翻訳したよいのかわかりません。
肝心の聖餐そのものについてです。 ログ・ハウス集会場内で執り行われました。
中央部の通路に長いテーブルが用意されていたようです。 入場者はテーブルに添っ
て着席しました。 聖餐に関する聖書が読まれ、その後で祈りが捧げられました。
その後で集まった人々はパンと葡萄酒にあずかりました。 その日に聖餐に与った人
は八百人から千百人だったと言われています。 会場には百人以上は坐れないはずで
すので、最低でも八回以上の聖餐式が執り行われたものと推測できます。
その度ごとに長老教会の牧師たちが順番に担当したようです。 牧師らが交代して
執り行った聖餐式は、その日の夕方近くまで延々と続いていたそうです。
ストーンは、かねてから近所のメソジスト教会の著名な牧師ウイリアム・バーク
William Burke と話し合っていました。 この次に執り行う予定のケイン・リッジで
の聖餐式を、長老教会とメソジスト教会との間で「合同聖餐式」united sacramentに
しようと願っていたのでした。 そのような話し合いがついていました。
しかしながらストーンが合同聖餐式に熱心であったからといってすべての長老教会
の信者や牧師が同じ意見であったというわけではありませんでした。
メソジスト教会側の記録によりますと、6月にコンコードで行われたサクラメント
でメソジスト教会の牧師ベンジャミン・ノースコット Benjamin Northcott が説教を
担当した時に、長老教会員たちが抱いていたメソジスト教会とその信者や牧師に対す
る偏見を怖れて、ストーンはノースコットがメソジスト教会の牧師であることを隠し
ておいたのでした。 それほどまでに両教会間にはお互いに対する警戒心があったの
です。 心の優しいストーンには主イェスの身体である教会の分裂に心を痛めていた
ものと推測します。
このストーンの心痛について、少し脱線して補足的な説明を加えておきます。
日本では、敗戦直後に、占領政策を順調に行いたいという連合国側の思惑があり、
マッカーサー連合軍総司令官は米国教会に宣教師夫妻二千組?だったかの派遣を要求
したようだったと思いますし、*マニフェスト・ディストニー Manifest Destiny を
大国是とする米国と、それに主イェスの大宣託を混合したものを主イェスの大宣託と
理解する米国教会が、それぞれの宣教師を大量に日本に送り込んで来ました。
それは豊臣秀吉や徳川幕府の「切支丹御法度」以降の吾が国にとって、そしてまた
明治政府のしぶしぶの「耶蘇教解禁」以来かつてない大量の宣教師来日となったもの
と記憶しています。
その一例として、たとえば日本全国をくまなく巡回したラクアー伝道団などを覚え
ていますし、渋谷ではテモテ・ピーチ宣教師らが街頭伝道を派手にやっていたのをも
よく覚えています。
敗戦直後の日本では印刷する紙もなく、印刷機はとっくの昔に日本軍の大砲や爆弾用
に強制的に供出させれて化けていましたので、聖書や讚美歌も当然なかった時、米国
聖書協会が大量の奇麗なカーラー表紙の日本語新約聖書を大量に米国で印刷して日本
に配布しました。日本語讚美歌も米国で写真複写をして印刷し日本に輸入して廉価本
販売していました。余談ですが、聖歌ははるか遅れて日本で印刷されましたから、キ
リストの教会を含め、讚美歌をこん日でも使用し、聖歌を余り使わない教会が多いの
もそういった背景があるからです。
さらにこれに加えて、中国本土が共産政権の手に落ちてからは、それまで中国本土
で宣教活動をしていた主としてアメリカの保守的で原理主義的な福音派宣教団が一斉
に最寄りの日本に避難移動して来ました。 このような背景があって日本には、今日
のように沢山の教派のキリスト教会が竹の子のように続々と生まれて来たと私は思い
ます。 もちろん、軍部によって強制的に日本基督教団に加入させられていた旧教派
が同教団から離脱しておのおの元の小さな教派を形成したことも事実です。
聖書や聖書の教えているものから、何百年もの歴史過程の紆余曲折を経由して学ん
だことのない日本人には、たくさんの教派に教会が分かれていること自体がおかしい
などという発想を抱く背景が全くないのです。
それに加えて、吾が国では仏教がたくさんの宗派に分れて共存しています。
そして、当の仏教界自身も仏教界の分裂や対立状態をおかしい状態とは捉えていない
ようですし、日本人もそのことを全く問題にもしていません。
11月にもなりますとクリスマス・セールが始まります。 25日からは年末のセール
スが始まります。 大晦日には仏寺の除夜の鐘を聴いて神妙な気持ちにひたり、元旦
早朝には神社参拝に行くのが日本人です。 クリスマスから元旦朝までに三つの宗教
を実にじょうずに使い分けることができるのが日本人です。
生まれたばかりの嬰児を神社に連れて行きます。 結婚式はキリスト教式でやり、
葬式は仏寺で営みます。 これが私たちの国の宗教観です。
話を元に戻しましょう。
このように、日本人特有の曖昧さや、「和を持って貴しとなす」精神も加わって、
「主イェスの教会が分裂している状態は主イェスの御旨ではない」という単純な理解
すら持てないでいると私は個人的に思っています。
私たち日本人には若いストーン牧師の心痛などを理解できないだろうと思います。
まして、ヨハネ伝17章21節で、「イェスを信じる者がみんな一つになるように」と
の主イェスの願いを、私たちキリスト者自身がほとんど理解していないのです。
主イェスの教会が分裂したままでは、世界の人々はイェスを救い主として信じない
であろうと、主イェスご身が案じておられるのです。 教会が分裂している状態こそ
罪が生み出すしるしだと思うのです。 皆さんはどのようにお考えですか?
それから、長老教会とメソジスト教会との相互不信感というものが、どこから出て
来ていたのかという点です。 私は未だ何も研究をしていませんので、自信を持って
言えるような立場にはありませんが、これは英国対スコットランドとアイルランド間
の長期にわたる政治的・宗教的な緊張関係を無視できないのではないかと思います。
ローマ・カトリック教会から英国国教会が生まれて来て、そこからメソジスト運動
が出て来ています。 一方、スコットランドやアイルランドはイングランドと根深い
対立関係にありました。 そのような歴史的・民族的対立姿勢と雰囲気から生まれて
来たのが、英国に対立する教会としての長老教会でした。 そのような中で英国から
自由と独立を掲げる長老教会員たちが、同じく自由と独立を謳う新大陸に渡って来た
のでした。
ストーン牧師が生まれた頃には新生国アメリカは旧宗主国英国から政治的・軍事的
な独立と自由を確保したばかりでした。 新世界の植民地を失った英国が今度は宗教
を利用して、教会を通して、メソディスト教会を通して再度新世界を支配するのでは
ないかという疑問は、新生独立国アメリカ人にとってはどうしても拭い切れない疑問
点だったと私はそのように推測しています。 何しろケイン・リッジ集会が開催され
た年は英国から新生米国が独立を勝ち取ってわずか25五年しか経っていなかったので
す。 旧世界ではおもにイングランドがウエールズやスコットランドやアイルランド
に対して何百年にもわたって侵略や対立の歴史を繰り返していたのです。
1590年代に豊臣秀吉が朝鮮に2度出兵して四百年になりますが、韓国・朝鮮の人々
は今でもそのことを忘れてはいないのです。 歴史とはそのような流れの中で営まれ
るものだと思います。
アメリカ国民の多くが、とりわけアイルランドやスコットランドからの移民たちが
対英国不信感と対英国教会、およびそこから生まれたメソジスト教会に不快感を抱い
ていたとしても、それは決して不思議ではなかったと私は思います。
そのことがケイン・リッジでの両教会の相互不信感を構成する要素であったのかど
うかはわかりませんが、一要因であった可能性を否定することもできないと個人的に
は思っています。
その他にも、カルヴィニズム、ウエストミンスター信仰告白に立脚する長老教会と
しては、反カルヴィン主義信仰のアルミニウス主義を信奉するメソジスト教会に対す
る相当に根強い不信感・警戒感があったものと思います。 これは大切な視点です。
旧世界ヨーロッパでは、ローマ・カトリック教会が何世紀にもわたって自分たちと
少しでも意見が異なれば「異端」として処置し、意見を異にする者に対しては厳しい
「異端審問所」を設置して「魔女狩」を徹底し、捕らえた者たちにむごたらしい拷問
と殺戮を繰り返して来ていたのです。 教会史は決して奇麗なものではありません。
「聖書的だ」と自称していた「キリストの教会」無楽器教群でも、1915年前後から
前千年王国説を採った百前後の自分たち自身の兄弟姉妹教会を、ペスト菌か炭疽菌の
ように扱い、徹底的に、無慈悲に、非人間的に、非基督者的に、遠慮会釈なく攻撃を
繰り返し、狂気の魔女狩作戦をやったのです。 これは決して中世記の教会史の話で
はなく、つい最近まで米国を中心に、敗戦後の日本においてもあったことです。
私個人も、こん日では信じられないようなむごい扱いを留学中の数年間にわたって
受けていたのです。 野毛山教会設立宣教師ローズ先生も同様体験をされました。
現在でもそのような狂った宗教的信念を抱いている人々やセクトや教会が米国内に
はたくさんあるのです。 個人個人の独立と自由を謳う国だからでしょうか…
無楽器教群の中でも律法主義的傾向の強い最右翼セクトの中からクロスローズ運動
という動きがまずフロリダ州のゲインズヴィルで発生し、それがボストンに移動して
「ボストン運動」と呼ばれる運動に急速に育ちました。
ボストンで異常に急成長したその運動が母体となって、「国際キリストの教会」と
いう、準カルト的で準洗脳カルト集団に次には成長をとげ、全世界主要都市にある、
莫大な大きな不動産を所有している単立のキリストの教会を奪い、数多くのまじめな
青年たちを洗脳し、深刻で悲劇的な倫理問題を起こしています。
エペソ書5章18節に『酒に酔うな』とあります。 宗教ほど恐ろしい酒はありませ
ん。 それは「乱行の根源である」と書かれていますが、「価値感覚を失わせる」の
が酒なのです。 特に原理主義宗教の律法主義とはそういう恐ろしい酒なのです。
ローマ・カトリック教会に「文句を言う」つもりだったはずのプロテスタント諸派
でも、最初の内は同じように意見を異にする非ローマ・カトリック者、反カトリック
信者を拷問にかけて殺していたのです。
このようにプロテスタント諸教派も同じように、意見が異なる教群どうし、互いに
厳しい態度で臨み、聖書や聖書解釈や教群の意見の違いを決して許しては来なかった
のです。
国際キリストの教会(ボストン運動)でも、自分たち以外にクリスチャンはいない
と主張し、他教会のバプテスマを聖書的なものではないとして、決して認めません。
再度バプテスマを要求します。 これは無楽器キリストの教会の多くがついこのあい
だまで叫んでいたことと同じなのです。 恐ろしい猛毒「酒」だと思います。
日本のキリスト教には、深刻なそのような歴史的経験が全く欠落しているのです。
それですから、このあたりの理解が全くできないのです。
御茶の水にそびえ立つ福音派のエルサレムにはアルミニウス信仰を堅持する教派と
カルヴィン主義信仰に立脚する教派が仲良く共存しています。
西早稲田には日本基督教団を中心とするもう一つのエルサレムがあります。
軍国大日本帝国が当時の日本のキリスト教を管理しやすいように設立したものです。
今でもそのことを神の御旨であったとして疑わない旧教派が一致団結しているよう
に思います。 誰もこれらのことを決して「おかしい」と思わないところが日本的で
ご愛敬だと思っています。 「和」があっても「各自の自主と独立」は不在です。
さて、元の話、すなわち、長老教会とメソジスト教会との関係に戻ります。
これも私個人の推測にしか過ぎませんので責任を持てませんが、今ひとつ考えられ
ることは、メソディスト教会のオケイリJames O'Kelly らの運動からケンタッキーに
移住して来たライス・ハガード Rice Haggard がストーン運動に与えていた影響をも
考慮する必要があるのかも知れません。 また機会があれば、どうしてもハガードの
ストーンへの影響を学ばなければなりません。 ストーンをより良く理解するために
必要なことですし、米国建国史上で重要な大覚醒運動とストーンを結びつける橋の役
割を果たした人物だからです 1983年にカレッジ・プレスが出した本があります。
The Great Awakenings and the
Restoration Movement, Max Ward Randall です。
この本にはハガードなど、復帰運動が起って来た背景や主要人物が出ています。
最初はメソジストとして活躍していたハガードは、結果的にストーン運動に極めて
大きな影響力を発揮したと思いますが、その過程でケンタッキーの人々との間にどの
ようないきさつがあったか、まだそこまで調べていませんが、何か軋轢があったのか
も知れません。 単なる私の過った推測なのかも知れません。
また、新大陸に渡って来たメソジスト教会は、最初から有資格牧師の絶対的不足と
いう深刻な問題がありました。 ここから出て来た諸問題に対して、長老教会側には
不信感などがあったのかも知れませんが、今の私には見当もつきません。
さて、ケイン・リッジの長老教会の長老たちの中には、メソジスト教会に対しての
根強い不信感があったので、ストーン牧師が提案しているメソディスト教会員と一緒
の合同聖餐式には相当な抵抗があったようです。 前述のような事情があってのこと
と思いますが、日曜朝の合同聖餐式の席上、ストーンはメソジト教会の牧師バークに
対し、聖餐式を執り行う前に、一段と高くせり上がっている説教台の上から会衆に向
かってメソディスト教会のいくつかの教義について説明するように求めたようです。
このことをバーク牧師はメソジスト教会と自分への侮辱と受け止めたようです。
『それではストーン牧師、あなたも同じように説教台から会衆に向かって長老教会が
どのように特定の教義を抱いているのか説明して頂きたい』と要求しました。
『しまった!』と思ったのかストーンは即座にバーク牧師に対して要求したことを
取り下げたようです。 その直後にどのような会話が二人の間であったのか不明です
が、どうやらそれ以上の会話は二人の間で進展しなかったようです。
バークは、ログ・ハウス集会場から東の方に30数メートル離れた場所に倒木を見つ
けました。 その木は倒れる途中で他の樹木に引っかかって完全に地面に倒れ落ちな
かった太い樹であったようです。 バーク牧師はその樹の切り株の上に乗って説教を
開始したようです。 もちろん、最初に祈祷があり、讚美がなされたようです。
雨が降っていましたので、別のメソジスト会員が長い棒切れの端に傘を括り付けて
バーク牧師の頭上にかかげました。 バーク牧師の集会が始まると大勢の人々が続々
と集まって来たそうです。 そしてそこでも人々が倒れたと記録されています。
たまたまその光景を目撃していたセイラム長老教会の牧師ライルは、集まっていた
人たちの多くがメソジスト教会に関係する人々だったと判断していたようです。
ストーン牧師は、「キャンプ場のあちこちで同時に数名が説教を続けていたが特に
混乱はなかったと回顧しています。 日曜日の説教で特に注目を引くストーンの記録
と言えば、数名の説教者が絶え間なくあちこちで説教をしていたということの他に、
ログ・キャビンの集会場から東南方向 150メートルほどの所で黒人の説教者が説教を
していたという記録だろうと思います。 聴衆のほとんどは黒人であったようです。
黒人の多くは奴隷であったのではないかと想像しますが、黒人説教者の身元すらも
わかっていませんし、会衆がどれほどの割合で奴隷だったのかもわかりません。
社会正義感が強くて、また優しい心の持ち主であったストーンは、幼い時から黒人
奴隷の惨状を目撃していましたし、コルドウエル学院 Caldwell Academy 在学前後の
南東部旅行中にも黒人奴隷の悲惨な状態を見ていましたし、彼自身は彼の家に属して
いた奴隷を早期に解放していました。 そのような人です。 のちにストーン一家は
ケイン・リッジからオハイオ河を越えて北部のイリノイ州に移住しますが、それは彼
の子供たちが奴隷を未だに抱えている白人信者の子供たちと付き合ったり、あるいは
結婚をしないで欲しいという願いからであったのです。
ケイン・リッジ集会中に黒人らの集会に言及しているのも、ストーンらしい暖かい
心があったからだと私は考えています。
日曜集会に参加したある人は、『その日だけでも七人の牧師たちがあちこちで同時
に説教をしていた。 ある説教者は樹の切り株の上に立って説教をしていたし、また
ある者はワゴンの荷台の上から説教をしていたし、また別の説教者は即席の説教台を
こしらえて、その上に立って説教をしていた』と記録しています。
日曜日の夕方になって雨が止みました。 人々はますます熱心に祈りました。
キャンプ場のあちこちで奨励や説教が引き続いて行われていました。 そして倒れる
人は後を絶ちませんでした。
ある長老教会の牧師の記録によりますと、『安息日の夜に私は百本を超える蝋燭に
一斉に火が灯されたのを目撃した。 ということは、八歳から六十数歳までの人々が
神さまの慈悲を求めて地面の上で一斉に絶叫していたということだった』
ライル牧師によれば、『多くの人々が地面に倒れ、起き上がり、そして讚美してい
た。 私は彼らの中にあって祈り、奨励を続けていた。 他の牧師たちも同じように
していた。 そして早朝2時ころまでそのような状態が続いていた』
土曜日午後にケイン・リッジに到着して日曜日まで滞在していたある牧師が以下の
ように記録を残しています。
『大勢の罪人たちが地面にひれ伏し、金切り声をあげたり悲鳴をあげたり、苦痛の
うめき声をあげたりして慈悲を求めて絶叫していた。 お互いにとぐろを巻くように
絡み合っている人たちもいた。
宗教家だと自称していた人々も、罪人たちのために熱心に祈り、苦悶し、気絶し、
嘆き悲しんで地に倒れていた。
また別の自称宗教家たちは、人々が救われたことを狂喜して喜び、そのことで主を
讚美していた。 彼らの一部は讚美の歌を絶唱し、また或る者らは喜びと感謝の言葉
を主に向かって叫び、手を叩く者もいた。 中には互いに抱擁し合ったり、キスして
いる者もいたし、爆笑(適切訳語かどうか疑問だが)している者もいたそうです。
さらに自称宗教家の中には、悶え苦しむ者たちに向かって語りかける者もいたし、
お互いに話し合っている者もいたし、そのような不思議な現象を否定したり反対する
者たちに語りかけている者たちもいた。
これらのことがすべて同時に、一斉に営まれていた』と書き残しています。
また別の人も以下の文章を残しています。
『何人かの人々は慈悲を求めて泣き叫んでいた。 またある者たちは、贖いの恩寵を
讚美して絶叫していた。 さらに、十二人とか二十人の人々が輪をたくさん作って、
極めて真面目な顔をして讚美の歌を歌い続けていた。
そうかと思うと、いく人もの人たちが落ち着かない、不安げな表情で動物のように
行ったり来たりして歩き回っていた。
それらの人々に混じって、数名の牧師たちが同時に説教をやっていた』。
これらの人々が発する異常な音声や音が互いに混じり合って、まるでナイアガラの
瀧がうなっているように聞こえた…と書き記した人もあったのです。
月曜日になると多くの訪問者たちが帰宅の途についたようですが集会は続いていま
した。 立ち去る人がいても、新しく到着する人々は後を絶たず、水曜日になっても
木曜日になっても続々と到着する人たちがいたようです。 しかし、さすがに木曜日
になると組織化された信仰復興集会の活動は終結したようです。
月曜日の朝食後にライル牧師はログ・ハウスの集会場におもむいたそうです。
集会場では長老教会のアイザック・タル Isaac Tull がすでに説教をしていました。
タルの説教に続いてライルが奨励を担当しました。 タルとライルの両名は献金の
感謝の祈りと奨励の順序を入れ替えました。 「Come
Ye Sinners 罪人よ、来たれ」
という讚美歌をタルが会衆に歌わせました。 この讚美歌がどのようなものなのかは
わかりません。 入手したアレキサンダー・トーマスらが編集した讚美歌集を調べて
見ましたが出ていません。 復帰運動内の信仰復興運動の讚美歌をテーマに卒業論文
を書かれたヒューラン博士に問い合わせ中ですが、この号には間に合いません。
『長時間にわたって一人が倒れると、また次の人が倒れるという具合だったが、集会
の方は活発に進行していった。 集会場は詰めかける人々で一杯になり、うだるよう
に蒸し暑くなって行った』そうです。 ライル牧師は倒れた人々をログ・ハウスから
外に運び出すのを手伝いました。 その後で集会場内に再び入り説教を聞こうとしま
したが倒れた人をまた搬出するのを手伝ったり、祈祷をしたり、奨励をしたりして、
結局は午後1時前後まで、そのようなことを繰り返していたようです。
集会の会期中ずっとそのようでしたが、特に日曜の後からは、倒れた人々が会衆に
向かって語り始めたそうです。 ライル牧師の記録によりますと、『語り始めた人の
証の内容は単純明解なものであり、彼らが倒れて得た確信に基ずくものであり、福音
の基本的要素を充分に備えたものだった』そうです。 『また、彼らの証はキリスト
の満ち満ちていることや、主イェスが人々を救うことを喜んでやって下さる…という
ような内容だった』とのことです。
月曜日の感謝の説教を最後に通常の聖餐式の予定は全部こなされました。
それ以降の行事は集まって来ていた人々の要望に応えるものであったようです。
すなわち、主を讚美する歌を歌い続け、祈り続けることなどです。 説教や奨励は
牧師たちの自発的な好意によるもので、いわゆるヴォランティア説教でした。
火曜日の説教は、遠くギャスパー川からやって来たジョン・ランキン
John Rankin
やメソジト教会の牧師のウイリアム・バークらがいました。 セイラム長老教会から
来たライル牧師も午前中に説教をしましたが、午後にはキャンプ場を離れました。
ストーンの記録によりますと、集会は恐らくその後も延々と続いていたはずだった
がまわりの教会員の家庭や近隣農家の食料品まで底をついてしまって、説教者たちや
会衆を養うことができなくなってしまったので、残念ながら自然終結となってしまっ
た…とのことです。
この集会に参加した長老教会の牧師たちは合計で16人か18人だったそうです。
ほとんどの牧師たちはケイン・リッジ教会がある同じバーボン郡内の諸教会からと、
近隣郡から参加した牧師たちでした。 数名の牧師たちは50粁から80粁の距離を馬に
乗って参加しました。 ローガン郡のギャスパー川から馳せ参じたジョン・ランキン
は何と 450粁ほどを馬に揺られてやって来たのでした。
ほとんどの場合、「オイラの牧師先生さまにオイラもくっついて行くんだ」式で、
たくさんの信徒たちが牧師と一緒にケイン・リッジに向かったのです。 そのような
理由から聖餐にあずかった人々の数が八百人とか千人を越えたということになったの
です。
メソジスト教会からはウイリアム・バーク、ベンジャミン・レイキン(ラーキンと
発音するのかも知れませんが…)、ベンジャミン・ノースコット、サムエル・ヒット
William Burke, Benjamin Lakin,
Benjamin Northcott, and Samuel Hitt牧師たちで
した。 長老教会員たちが多数を占めていたのでメソジスト教会員たちの何人が聖餐
にあずかったのかを特定することは困難のようですが、二百人を越えることはなかっ
たと言われています。
ストーンの記録によりますと、『メソジストとバプテストの牧師たちも聖餐集会に
協力してくれた』そうです。 数種類の記録にはバプテスト教会員もログ・ハウスの
集会や天幕集会に出席していたことを示しているようです。 しかし、集会場や天幕
集会で彼らが説教や奨励を担当したという記録は残っていないようです。
バプテスト教会牧師として記録があるのは
Governor James Garrand of Cooper's
Run Church ギャランド牧師ですが、相当に評判が悪い人物であったようです。
このギャランド牧師がバプテスト教会を代表する人であるとは誰も信じなかったよう
です。 それはギャランド牧師が、キリスト論に於いてはアリウス派学説を唱える人
だと、ほとんどのバプテスト教会関係者が考えていたからだそうです。
なお、アリウス派学説とは古代教会において父なる神と子なるキリストとの関係を
めぐる論争のことですが、紙面の関係でここでは触れません。
ケイン・リッジでのサクラメント集会に参加していたバプテスト教会の詳しいこと
に関しましては次回に譲りたいと思います。
基本的に、バプテスト教会員たちは、長老教会やメソジスト教会の人間を軽蔑して
いた傾向があったようです。 『俺たちのバプテスマだけが正真正銘なものであり、
長老教会やメソジスト教会のバプテスマは不適当なものだ』とする発想が強かったの
です。 そのような考えがあってのことか、ケイン・リッジ集会での聖餐にあずかる
のを彼らは躊躇したようです。 当時はバプテスト教会だけが全身を水の中に完全に
浸すバプテスマを実践していたので、『俺たちだけが聖書的だ』というような自負の
念があったのかも知れません。
前述の黒人の説教者ですが、もしかしますと、レキシントンでの最初の黒人教会を
創設した Old Captainドオールド・キャプテンと呼ばれていた黒人であった可能性が
高いとのことです。 以下次号に