《ケイン・リッジ その11》
「ベタニヤつうしん」10月14日号表紙のストーンの肖像画の下の説明文にさらなる
説明を多少追加しておきます。 表紙の紙面が限られていたからです。
ストーンが求めた基督者の一致とは、炎(聖霊)の一致でした。 本(聖書)とか
水(バプテスマ)の一致ではありませんでした。 このように書いておきました。
しかしこのことは、ストーンが聖書を要らないとか、バプテスマが要らないと言っ
たのではありません。 聖書やバプテスマを一部の人間が自分たちだけに都合のよい
ように解釈して主イェス・キリストの身体である教会をずたずたに切り刻んで教派を
築き上げてしまったことに対して、そのような身勝手な聖書解釈やバプテスマ論争は
要らない、聖霊による一致を求めようcと主張したのです。 そういう意味でした。
★
ローガン郡で、信仰復興集会で人々が説教を聞いている途中に倒れるという不思議
な現象を目撃し、罪人が福音を聞き、その結果として罪人がイェス・キリストのもと
に喜んでやって来ることができるのだと知ったストーンが、大急ぎでケイン・リッジ
に戻り教会員たちに説明をしたことや、その日の午後の家庭訪問で人々が福音を聞い
て満たされたことや、その日の夜のコンコードでの集会では二人の娘たちが倒れたこ
とがあったこと、さらに翌日にケイン・リッジに戻ったストーンは、彼の帰りを待っ
ていた多くの信者たちがすでに主を信じ、主を讚美している姿を見いだしたというこ
とがあったと前回号で紹介しておきました。 夕方の家庭集会ではストーンをペテン
師だと罵った理神論者がストーンの言葉を二つ、三つ聞いた途端に地に倒れたという
こともあったと前回号で紹介しておきました。
なお、当時のローガン郡は現在のものより広かったのではないかと思います。
ストーンが行ったマディー・リヴァー、レッド・リヴァー、ギャスパー・リヴァー
Muddy River, Red River, and Gasper River の近くに
Allensvilleアレンズヴィル
という寒村がこん日でもあり、「ケイン・リッジその9」ではアレンズヴィル教会の
ギル家を中心に、敗戦直後の疲弊しきった日本に山羊数百頭を贈って下さったことが
あると書いておきました。 同家は旧家でかつては奴隷を所有していたそうですし、
同家からは息子さんと娘さん二人が留学中の私と同級生や下級生として学校に来てい
ました。 私はギル家をたびたび訪問していましたが、当時の私は残念ながら教会史
に対する関心も知識もなく、今から思いますと実にもったいないことをしました。
さて、1801年5月の最初の週末にレキシントン北東にあったフレミング・クリーク
Fleming Creek で定期的サクラメント、すなわち聖餐が執り行われ、数はわかりませ
んが多くの人々が倒れたとのことです。 私が調べたところでは5月の最初の週末は
1日が金曜日、2日が土曜日ですから、5月の3日の日曜日にサクラメントが執行さ
れたものと推測します。
ケイン・リッジからオハイオ河に向かって北東方向に約70キロ行きますと古くから
オハイオ河の渡し場の町として栄えたメイズヴィル Maysville があります。
西部僻地開拓時代からあった町です。 河を渡ってオハイオ州に10粁も入りますと
キャビン・クリークという小さな部落がありました。 リッチャード・マクナマーが
住んでいました。 (英語ではRichard
McNemar at Cabin Creek)
私の記憶が間違いでなければケンタッキーのケイン・リッジの方からメイズヴィル
の渡し場を越えてオハイオに移住した西部僻地開拓者が多かった思います。
メイズヴィルにはアレキサンダー・キャンベルが建てたか関係した石造りの教会堂
が現在でも残っていると思いますし、オハイオ側の七つほどの開拓者たちの長老教会
は、南側のケンタッキー州の八つの長老教会と一緒になって一つの教区といいますか
シノード、教区を形成していたはずです。 もともとマクナマーはケイン・リッジの
教会の長老を勤めていた人物ですが、オハイオ州に移住したのでした。
余談になりますが、このあと四年ほどしますと、ニューヨークから徒歩で三名の
シェーカーズ代表がケイン・リッジを訪ね、実際には襲い、ストーンの片腕役を担っ
ていたマクネマー(マクナマーと日本語で書くのでしょうか)たちをシェーカーズに
改宗させるという不幸な事件が発生しました。 オハイオ州のキャビン・クリークの
諸教会はシェーカーズらに奪われてしまうことになります。 オールド・レバノンと
いう名のシェーカーズ・コロニーといいますかコミューンが生まれて来ることになっ
たと記憶しています。 シェーカーズに関する独立した勉強も実に面白いものです。
ローガン郡で目撃したことをストーン牧師がケイン・リッジとコンコードの二つの
教会で報告して人々が倒れ、その後にフレミング・クリークの集会でも人々が倒れた
という報告があってからさらに二週間後に、今度はオハイオ州のキャビン・クリーク
でも集会が開催され、そこでも約60名が地面に倒れたと報じられています。
キャビン・クリークでのサクラメント、*聖餐式にははるか遠くのケイン・リッジ
付近から80キロから百キロ前後の悪路を乗り越えて参加した人々もいたようです。
1801年6月の最初の日曜日、これは調べてみましたら7日、ストーンはコンコード
教会でサクラメント、すなわち、当時の長老教会でいう聖餐式を計画しました。
(*当時の人々には聖餐「式」という発想しかなかったのだろうと思います。)
この集会は、結果的にそれまでの西部開拓僻地であったケンタッキー州中部で最大
の集会に盛り上がったとのことです。 このことでストーンは、『国中がコンコード
の方に移動しているように思えた』と書き記しています。
先住民(躊躇しますがいわゆるインディアン)退治で名を知られていたカーネル・
ロバート・パタスンが(Colonel Robert Patterson、この人は民兵の指揮官としても
知られていた人物で、レキシントンの長老教会の後援者でもあった人。 閣下と訳す
べきなのか中佐と訳すべきなのかは本人が軍人であったのかどうかが不明なので判断
できない。 ケンタッキーなど南部諸州では著名人に敬称としてカーネルをつけるこ
とがある。 ケンタッキー・フライド・チキンの人形で有名なカーネル・サンダース
は軍人ではないがカーネルの敬称を得たディサイプル会員である)、コンコードでの
聖餐式、サクラメントに出席した人の数は四千人だったと記録を残しています。
ストーンは26年も後になって『出席者は五千人か六千人はいたし、長老教会員だけ
でなくメソジスト教会からもバプテスト教会からも出席していた』と書き残していま
す。
1793年に建てられたコンコードの集会場にそのように大勢の人々が入れるわけがな
かったので集会は屋外で行われ、昼夜を通して5日間も続いたとパタスンとストーン
は書き記していますから期日に関しては間違いはなかったものと思われています。
なお、ケイン・リッジのログ・ハウス集会場は1791年に建築されていました。
このコンコードでの集会には七名の長老教会の牧師らが出席したようですし、一人
だけベンジャミン・ノースコット Benjamin Northcott というメソジスト教会牧師も
説教をしたとの記録が残されています。 パタスンの記録では百五十名ほどが地面に
倒れたそうですし、聖餐にあずかった者は二百五十人だったそうです。
パタスンはまた12家族が食料品など必要な品々を持参して地面の上で集会期間中は
生活をしたと記録しています。 付近に住む住民たちはケイン・リッジ集会に集まっ
た見知らぬ者たちを家の中に招くことに躊躇したようだし、参加者たちもおのおのが
分かれて見知らぬ住民の家に泊まりたくなかったようだとも記録しています。
このように、聖餐式集会は6月になるとますますケンタッキー中部では盛んに行わ
れるようになり、バプテスト教会員やメソジスト教会員らも参加するようになったそ
うです。 それと同時に、地面に倒れるという現象も盛んに目撃されるようになった
そうです。
6月18日、私が調べた限りでは木曜日になりますので少し戸惑いますが、セイラム
Salem でサクラメントが執行されました。 もしこのセイラム教会がオハイオ河南岸
のウォルソー Warsaw という田舎町に今も残っている古くて小さなセイラム教会と同
じなら、私も何度か礼拝に出席したことがあります。 オハイオ州シンシナティから
の方がケンタッキー州レキシントンよりもはるかに近い距離にあります。 セイラム
はレキシントンからシンシナティを目指し時計の十一時の方向の河岸村です。
この聖餐式には少なくとも五人の長老教会牧師とメソジスト教会から二人の牧師が
出席したようです。 同教会牧師ジョン・ライル
John Lyleがその時の集会の日記を
残しています。 それによりますと、最初に倒れたのは婦人で、まるで猛暑で倒れて
喘いている羊のように呼吸が早くて苦しそうだったそうです。 二日間の予定だった
聖餐式集会は、結局は次の週の水曜日になって終わったそうです。 二日が一週間に
伸びたわけです。 ライル牧師の日記によれば三百人が地面に倒れたそうです。
次の日曜にパタスンはバーボン郡南部のポイント・プレザント
Point Pleasant に
あったストーニー・クリーク Stony Creekでのサクラメントに出席したようです。
ポイント・プレザントには集会場があったようです。 この場所はかつて故中原七郎
さんや私が留学していたウインチェスターに近い所です。 サクラメントには幌馬車
ワゴン四十台に乗って集まって来た人々が野営をした他に、総計八千人が集合したと
のことです。 三百五十人が聖餐に与ったそうですが、地面に倒れた人が二百五十人
いたとパタスンは記録しています。 セイラム教会牧師ジョン・ライルも出席してい
たようで、集まって来た人々は日夜を通して讚美し、説教を聞き、祈っていたと記録
しています。
私の計算が間違いでなければ、この集会は6月最後の日曜28日から始まったと思う
のですが、ライル牧師の記録では『金曜日の朝から火曜日の夜まで讚美と祈祷と説教
が昼も夜も続いた』とだけ書いてありますので、正式に集会が始まった28日より前の
26日から始まって30日の火曜夕方に終わったものか、6月28日に始まった集会が7月
4日の火曜夕方まで続いたことになるのか、どちらか判断ができないでいます。
最近入手した当時の讚美歌は現在のように四節程度の短いものではなく、最低でも
10節はあります。 その全部を大きな声で歌ってみると良くわかりますが、足で大地
を踏み、手をたたいたり両手を挙げたりして大勢の人々が讚美をすれば、熱心で一種
の恍惚状態のような、盛り上がった集会になったであろうと、容易に推測できるので
す。 これは、韓国のスラムの教会で度々目撃したことからも容易に想像できること
ですし、同じように最近入手したシェーカーズの讚美歌CD数枚を聴いてみて何となく
想像がつきました。 数百人ものシェーカーズたちが(身体を激しく震わす者たちと
いう意味)何重にも長い輪を作り、身体を震わせながら祈り続け、踊り狂って行進し
ながら讚美していたことと本質的にそんなに変わらなかっただろうと想像します。
このような体験を、現在の我が国のように科学万能主義で理性重視主義の時代に、
また別の言い方をしますと、聖霊軽視・聖霊無視の傾向が強い私たちの教会が属する
教派では、残念ながらやったこともないし、できないだろうし、やろうともしないだ
ろうし、とうてい理解することも、想像することもできなくなっているのだと思いま
す。 お隣の韓国ならどうなのでしょうか? 十分にあり得るでしょうね。
次の週末、すなわ当時のカレンダーを片手に私の推測では、7月3日の金曜日から
なのか10日の金曜日から、レキシントンとレキシントンから北東45キロほどの地点に
あるハリスン郡のインディアン・クリークでもサクラメント集会がありました。
ここはケイン・リッジやコンコードから25粁ほどの距離ですから、ストーンたちの
「領土内」ということになります。
このインディアン・クリークには、すぐその後に開催されることとなったケイン・
リッジ大集会に参加するために一万人ほどが待機した場所となるのです。
そこにはシンシアナ
Cynthianaという町があります。 今でも前千年王国論に立脚
する古い教会で私も良く知っている教会があります。 シンシアナ・チャーチ・オヴ
・クライストと現在は呼んでいますが、建物には昔の名前のクリスチャン・チャーチ
という看板が残っていたと記憶しています。 多分ストーンらの時代から残っている
教会の一つだと思います。 上記セイラム教会がストーン時代からの同じ教会なのか
どうかは調べていないので断定できませんが、私が留学中に礼拝にときどき出席して
いた時には、同じように前千年王国論に立つ古い教会でした。
セイラム教会の牧師ジョン・ライルがレキシントン教会で説教を担当しました。
ライル牧師の日記によりますと、聖餐式の準備が整えられている途中に、すなわち、
日曜朝の比較的遅い時間になって、私の想像では8時以降あたりから、倒れる人々が
出始めたそうです。 恐らく前日夜から、或は当日早朝から既に人々が集まり始めて
讚美や祈祷が熱心になされていたものと想像します。
集会は火曜日に終わったようです。 7月3日から7日までだったのか、10日から
14日までのどちらかだったと思います。 約六千人が参加しその内の三百人が聖餐に
与ったそうですが、70人が倒れたとライル牧師は記録しています。
一方、インディアン・クリークの方の集会ではストーンとプレザント・ポイントの
ジョーセフ・ハウ Joseph P. Howe たち数名が説教を担当したそうです。 その集会
には一万人が集まり、五百人が聖餐にあずかり、八百人が倒れたとパタスンは記録し
ています。 娯楽の少なかった西部開拓僻地ですから、一万人もの人々が幌馬車で集
まって来たものと想像します。 ケンタッキー州中部だけでなく、テネシー州の中央
部の北の方やオハイオ州南部からも人々が悪路やさまざまな障害を乗り越え、食料品
や調理道具や小動物や寝具などを幌馬車一杯に積み込んで、家族全員で駆けつけたの
だろうかと私は想像しています。 想像をはるかに超えた開拓者たちのエネルギーで
しょうし、当時の文化的、社会的、宗教的なエトスを感じさせます。
7月にはケイン・リッジの西隣の町パリスでもサクラメント集会があり、ジョン・
ライリー牧師が手伝いました。 その翌週にはインディアン・クリークで再び聖餐式
集会が計画されました。 その集会にはオハイオ州からやって来たマクネマーたちも
参加しました。 (McNemar
マクナマーの発音の方が良いのでしょうか?)
この集会への参加者数を誰も記録しなかったようですが、インディアン・クリーク
集会で説教をした牧師の一人の記録によりますと「何百人もの人が地面に倒れた」と
ありますので、他の同じような集会の記録と比べてみますと、相当数の参加者があっ
た筈だということがわかります。
6月最後の週、28日が日曜ですから、29日か30日に28歳のストーン牧師は馬にまた
がって、320 粁ほどの開拓僻地の悪路をミューレンバーグ郡のグリーンヴィルに向け
数日間の旅に出ました。 出発前、『8月最初の週にケイン・リッジでサクラメント
を執行する』と公に言い残しておきました。 300粁という距離は直線距離で計りま
すと、例えば東京から大津や仙台を越えた距離になります。
実際には東京と私の住む八ケ岳南麓の間を1往復する距離を馬の背中に乗って旅行
したことになります。 この旅行は、ストーンにとっては、そんなに苦痛にはならな
かったものと思います。 可愛いお嫁さんを貰いに行ったのですから。
目的地はケンタッキー州西部にあるミューレンバーグ郡のグリーンヴィルです。
これは、同州のオウェンズバローと、テネシー州のクラークスヴィルを直線で上下に
結んだ線のちょうど真ん中にある町です。 ストーンが訪ねて行って不思議な光景を
目撃したギャスパー・リヴァーやマディー・リヴァーやレッド・リヴァーからですと
五、六十キロ北の方にある町です。 現在でも人口は四千人弱ですから、当時は相当
な僻地だったものと思います。
当時の人口密度表に依りますと1平方マイルにつき
一人またはそれ以下となっています。 当時、その部落には26人が住んでいたという
記録があります。 その部落に住んでいた39歳のエリザベス・キャンベルという女性
が部落の人口を25人に減らしたということになります。
7月2日に結婚式がありました。 二人がどこで出会って知り合ったのかは永遠の
謎となっています。 皆さんが天国でストーン牧師にお会いになった時に伺って下さ
い。 エリザベスさんが『とても敬虔な長老教会員であった』ことと『とても宗教に
熱心な人 pious, and much engaged in religion』であったとストーンは見ていたよ
うです。 「宗教に凝っていた」と訳しても良いと私は思います。
それですからエリザベスが彼女の家族かあるいは教会の誰かと一緒に、ローガン郡
での信仰復興集会に出席していた可能性は充分にあります。 そして、もしかすると
1801年の初春にローガン郡でのキャンプ・ミーティングでストーンと個人的な面識が
できていたのかも知れません。 『私にとって不思議に堪えないことがある。 男の
女に会う道がそれである』と箴言30章19節は語っていますからc
西部開拓僻地の中の僻地であったグリーンヴィル
Greenville, Muhlenberg County
のキャンベル家(これは有名なトーマス・キャンベルやアレキサンダー・キャンベル
とは全く無関係です)は、それでもケンタッキー州中部に関係を持っていました。
エリザベスの叔父ウイリアム・ラッセル
Colonel William Russellはレキシントン
の近くにあったラッセルズ・ケイヴ Russell's Cave に住んでいました。 古い数枚
の地図で調べてみましたがわかりませんでした。 昔の地名が載っている細かい地図
を何とか購入しようと、出版・発売元を片っ端から調べているところです。
エリザベスの父親ウイリアム・キャンベル
Colonel William Campbell は、すでに
何度も登場しているレキシントン長老教会の後援者であったロバート・パタスン閣下
と友人関係にありました。 みんなカーネル(またはカーナル)という称号をつけて
いますから開拓者時代の地域社会の著名人であったのではないかと思います。
このエリザベスの父親のウイリアム・キャンベルは彼女とストーンが結婚する前年
の1800年の秋に病気治療のためにレキシントンに赴きましたがパタスンの自宅で死亡
しています。
ケンタッキー州中部でのサクラメント集会=信仰復興集会に関するパタスンの記録
は、どういうわけなのか、7月分が欠落しているとのことです。 そのことから推測
できることの一つは、パタスンはストーンと一緒にケンタッキー州でも西寄りに近い
グリンヴィルまで旅をし、自分の友人の娘の結婚式に立ち会い、彼女の持参品などを
ストーンが前年5月にバーボン郡内に購入しておいた百エーカーの農場に搬入するの
を手伝ったのではないかと推測されます。 百エーカーは12万 2,640坪強になるはず
と思います。 皇居が1万
2,600余坪とかですから、その10倍の広さです。
結婚式は、これも推測の域を出ませんが、たぶんエリザベスの自宅で行われたもの
と思います。 結婚式後の二人は大急ぎで
300キロ離れたケイン・リッジに戻らなけ
ればならなかったのです。 すでに公約しておいたケイン・リッジでのサクラメント
に間に合わせるためでした。 開拓時代の僻地の悪路を行く新婚馬車旅行でした。
慌ただしく行われた結婚式と言い、その直後のケイン・リッジでの信仰復興集会・
サクラメントと言い、どのような準備がなされたのかなど詳細は全くわからないまま
です。 「テントが張られた」との言及があります。 ログ・ハウス集会場から南西
約百メートルの所に天幕が張られ、その内側に木製のプラットフォームが設けられた
ようです。 説教者が立つためだったようです。 この天幕と説教台が新調されたも
のなのか、それ以前に既にケイン・リッジで使用されていた物なのかは不明です。
全員にわかっていたこととは、30フィートと50フィート(10米と16米四方)の
ログ・ハウスが、奴隷用の2階を使っても、四百人もの人を収容する事は到底できな
いということだけでした。
レキシントンの新聞記者ジョン・ブラッドフォード
John Bradfordは、そのような
お粗末な設定は群衆を軽視するものだと抗議し、記事にすることを断ったそうです。
しかし、ケイン・リッジでサクラメントが行われるという噂は、ストーンがすでに
育て上げていた教会間の連絡網を通して、長老諸教会だけでなくメソジスト諸教会に
も拡がって行っていたのでした。 それ以外にも同年5月ころからケンタッキー州
の中部全体に拡がっていた一種の宗教的興奮熱というものがあって、ケイン・リッジ
を目指してますます盛り上がっていたのでした。
参加者の一人が8月7日に書いた書簡があります。 『私は今までにかつてなかっ
た大きな集会に参加する途上です。 宗教がここでは最高潮に達しています。 多く
の人が本当に遠くからやって来るのです。 一万人もの人が五百台もの幌馬車に乗っ
て来ると行っても決して過言ではないんですよ。 そしてそれらの人々は地面の上で
寝起きして、昼夜を通して休むことなく神さまを讚美しているんです。 そのような
状態が終わりの日が来るまで1週間も続くんです』と、バーボン郡内のバルティモア
に住んでいた友人に書き送っています。
8月6日(木)、一日中たくさんの人々がケイン・リッジに続々と到着しました。
その夜から集会が始まることになっていました。 人々を出迎えるストーンにとって
は忙しい一日だった筈です。 友人のマシュー・ヒューストン
Matthew Houston が
夕方に最初の説教を始めました。 ログ・ハウスの集会場は人々で一杯に込み合って
いたそうです。 ケイン・リッジの近くのウインチェスターの町に3年間住んでいま
したので8月のケンタッキー中部の蒸し暑さを体験していましたから、大勢な人々で
込み合うあの集会場の内部を想像するだけで大変なことであっただろうと思います。
殆ど窓らしいものがなく、通風は極めて悪かった筈ですし、虻や蚊もいたでしょう。
それでも人々は夜になってもログ・ハウスから立ち去らなかったようです。 雨が
降って来たのかも知れず、ログ・ハウスから立ち去れなかったのかも知れません。
その夜、セイラム教会の牧師ジョン・ライルたちはケイン・リッジ長老教会の長老
アンドリュウ・アーヴァイン Andrew Irvine 宅で礼拝をしたそうです。 ケイン・
リッジ教会員の家庭が解放され、集まって来た人々が招かれて、各家庭で同じように
その日の夜は家庭礼拝で終始したものと想像できます。
8月9日の日曜日になると大勢の人々がケイン・リッジのログ・ハウス周辺に集合
していました。 収容しきれない人数となり、メソジスト教会員のアイライ?・ナン
Ilai Nunn がケイン・リッジのログ・ハウスに隣接して所有していた森が提供される
こととなりました。 下草が刈ってあり、あちこちに樹が育っていた、良く整備され
た土地であったようです。 多くの幌馬車が周辺の土地で野営しました。 またさら
に 125台から 148台の「馬曳乗用車」も駐留していて当時の町の4ブロックに相当す
る広さの土地が最初の日だけでもそのような「車」で占められていたと記録した人も
ありました。 毎日数千人が馬に乗って通える距離から日参しただけでなく、周辺の
村や部落に幸いにも宿を確保できた人々も大勢いたそうです。
その他にもケイン・
リッジに通じるすべての道路は馬、幌馬車、二輪馬車、四輪馬車、徒歩者や人が曳く
カートなどで埋まっていたとストーンは書き残しています。 以下は次号に
(縦書き出版を考えていましたので漢数字が混ざり、読みにくくなりました。
お詫びいたします。)