2003年3月16  八ヶ嶽南麓  野村基之

 

 

        『我等この寶タカラ を土の器ウツワ に有モ てり』    コリント後書4章7節

 

  14日、金曜日夜に、市川信昭君がお母さんと一緒に訪ねて来てくださいました。

中学教科書英語の勉強を2年間一緒にやった最後の金曜夜となりました。  信昭君の

これからの計画に就いていろいろな角度から四人で雑談して時間を過ごしました。

 

  いつものように紅茶を順子さんが出してくれました。  私の目の錯覚で、紅茶茶碗

  の取っ手部分が欠けているように見えましたので私は一瞬戸惑いました。  その

紅茶茶碗セットは隣村のペンション・ブーツの所有・経営者の川松隆信さんご夫妻が

下さった奇麗なもので、コップの絵柄が一つひとつ違うものです。

 

  上記聖句と紅茶茶碗に関しまして脱線を致します。

  私が赤貧留学時代最終部に到った時、順子さんに結婚を申し込みました。

その時に私は順子さんに二つ、三つの無理難題を頼み込んだことがありました。

 

1.  ガリ版教室に通って貰いたい…今で言うならパソコン教室に行ってくれ…です。

    教会週報や聖書関連の文章を書いて発表するための準備です。  私の母と同志社

神学部で同級生であった金田雄亮(当時松戸市在住)さんが水道橋駅から御茶の水駅

に向かった所で孔版印刷(=別名を謄写印刷)学校を経営・教授されていました。

キャノワード購入時まで順子さんは指先を鑢と鉄筆で痛める程まで頑張りました。

                                      ヤスリ

2.  料理教室に通って貰いたい…愛餐会や来客や宿泊客や教会キャンプで役立つ筈だ

    と考えていたからでした。  お堀端にある東京會舘に二、三年通って料理を基礎

から研修してくれました。  その後に私たちの家庭を訪れて下さる方々延べ数万人を

養うことになるなどとは、当時の二人には想像だにできなかったことですけれど…

 

3.  敗戦直後から高度成長期までの日本製品を代表するものとして、ノリタケの99

    ディナー・セットというものが当時は世界的に有名でした。  これを購入し貰い

たい…でした。  朝4時頃から皿洗いをして多少の送金をしましたが、これも彼女に

相当な負担をかけたものと思います。  以後このセットも大変な数の訪問者・宿泊者

に用いられ、次第に欠けたり割れたりして現在はその一部が少しだけ残っています。

 

  なお、現在使用していますコップは、東京YMCA英語学校から旧八幡山基督之教会に

参加されていた吉田昭雄(現横浜在住)さんが5ダース寄贈して下さったものです。

これも20年の間に  以上が欠けて戦線から脱落してしまいました。

    前置きが長くなりましたが、紅茶茶碗に戻ります。

 

  私たちはよほど僻地に住まない限り、欠けてしまった陶器や土器を使うことはまず

ありません。  まして客人に対して欠けた器を使うということは有り得ないのです。

  殆どの場合、欠けてしまった食器は捨てられてしまいます。  使わないのです。

 

  1970年代初頭に韓国の田舎で頂いた無名の陶器を成田空港の階段でぶつけて割って

しまったことがあります。  丹念に接着剤で復元を試みましたが元の姿には戻りませ

んでした。  最近になって砕いて八ケ岳の土の中に戻してしまいました。

 

  ベンハーという映画がありました。  クライマックスはベンが母と姉を捜し求めて

差別され隔離されていた地下洞窟の中に禁を破って侵入して行く場面でした。  愛が

人の作った禁令を遥かに超えた偉大なものであることを示す場面の一つでした。

 

  洞窟の中で虐げられていた人々は互いに庇い合いながら一生懸命にその日その日を

生きていました。  彼らにはお互いに何も虚栄を張る必要もなく、在りのままの姿で

生きることしかできなかったのです。  在りの儘の姿こそがお互いを慈しみ合う唯一

の道であったのです。  着飾ったり、張り子の虎のように虚栄を張る必要がない限界

状態・極限状態の、本当の姿をさらけ出した生き方だったのです。  虚しい自尊心が

入り込む余地など全くあり得ない現実の姿を彼ら自身が一番よく知っていたのです。

 

  神さまが私たちを御覧になる時、私たちは何も神さまに隠し立てすることができま

せん。  隠し立てをしても無駄なのです。  隠し立てをする必要はないのです。

神さまは私たちを「在りの儘の姿で」受け容れて下さっているのです。  虚勢も虚栄

も自尊心も一切そこでは通用しないし必要でないのです。  欠けた儘で良いのです。

 

    私たちは茶碗が欠けると捨てます。  然し、神さまは私たちを欠けた容器として

「ありのままの姿で」がっちりと受け取って下さっているのです。  感謝です。

 

  神さまによって「呼び出された者」=エクレシア=「教会」と仮に便宜上その如く

訳したり呼んでいますが、欠点だらけの私たちはありの儘で神さまに受け容れられて

いるのですから、少なくとも私たちの間には虚勢も虚栄も見栄も格好も入り込む余地

は全くないのです。  お互いがお互いの弱さを共にし、お互いの喜びを分かち合い、

互いに励まし合って御国を目指して行けばよいのです。  欠けた器であることを感謝

してよいのです。  受け容れて下さる神さまの恩寵を感謝し讚美いたしましょう。