最近の米国キリストの教会教群の内に於ける

                      〔絶対的献身伝道運動〕に関して

 

              リプスコム大学聖書学部  ハーヴェイ・フロイド教授

 

{ここ約8~9年程の間に米国の基督之教会無楽器派教群の内で絶対的献身伝道運動

〈仮訳〉なるものが拡がり始め、今日では世界各地で絶える事のない話題を提供する

ものとなっています。  最近では有楽器派教群にも飛び火し始めた様子です。

 

  米国フロリダ州ゲインズヴィル市のクロスローズ教会から始まった運動であるの

で、クロス・ローズ運動 (Crossroads Movement)と一般に呼ばれています。

この運動の際めて異常な統計数字上の急成長率と献身方法は、最初むしろ驚きの目を

もって迎えられていましたが、やがてその内容や方法が明らかになるに従い、各地の

教会でこの運動に対して危惧する声や、被害や弊害が出始めました。

 

  今日では一般的にこの運動を一つの不健全な分派とか、セクトとか、むしろカルト

と捉える否定的な傾向が米国基督之教会教群の内で定着して来ている様子です。

 

  昨年春あたりから、本質的に同じ方法論に立脚していると言はれているボストン・

キリストの教会が、その世界伝道の一環として、東京の代々木八幡基督之教会を拠点

として、主として青年や学生を対象に活発な伝道活動を開始している様子です。

 

  神の力である福音を律法主義的な方法論ですり換え様としているとか、即効要求主

義ですり換え様としているのではないかと言う疑問を抱いている人々が日米双方の教

会関係者の間にも増加し始めました。  それと同時にボストン教会の方でも日本伝道

に対して、実に具体的で更に積極的な進出工作が着実に進行しているのも事実です。

 

  ここに紹介する文章は米国基督之教会教群主流派内では絶えず圧倒的な影響力を持

つガスペル・アドヴォケイト誌(The Gospel Advocate)1979 年3月15日号に発表され

たフロイド教授(Dr. Harvey Floyd)のもので、もと茨城基督教学園の宣教師であった

グラハム・マッケイ師(Br. Graham McKay)から訳者に参考文献の一つとして送られて

来たものです。

 

  訳者は直ちに個人的友人でもあるフロイド博士夫妻に翻訳許可を求めて承認を得る

と共に、同師を通して同文章の日本での翻訳と発行に関しガスペル・アドヴォケイト

誌編集長ニール・アンダーソン師(Br. Neil Anderson) の許可も得ました。

 

  フロイド師はマッケイ師の恩師で、稀にみる温厚なクリスチャン紳士です。

リプスコム大学で聖書と聖書言語学を担当され、ここ数年間は同校の学生が選ぶ一番

尊敬する先生として毎年選ばれる程の人格と霊的内容を持たれる謙虚な先生です。

 

  ナッシュヴィル市に滞在する日本人商社員や留学生とその家族に対しても御自分の

御家庭を開放し、それらの日本人に個人的な世話をなさり、日本人に個人伝道を長く

続けていらっしゃる親日家でもあります。

 

  数年前にはそれらの日本人に招待されて御夫婦で来日され、その折には茨城基督教

学園や大阪聖書学院を初めとして、無楽器派と有楽器派のキリストの諸教会を訪問さ

れました。  私個人としてもいろいろと良きお交わりを頂戴しております。

 

  最近では無楽器派有志と有楽器派有志による一致の為の集会にも出席されている穏

やかな人格の持ち主です。

 

  基督之教会主流派の内では珍らしく『神の恩寵による救い』と『聖霊の働き』を強

調される先生で、聖霊に関する著作もあります。

リプスコム大学でのロマ書の講義とギリシャ語の講義は特に学生に人気があります。

 

  尚、ガスペル・アドヴォケイト誌は1855年にタルバート・ファニング師により創立

された古いもので、その前身であるクリスチャン・レヴユー、1844年を加えますと、

実に百四十年以上も無楽器派の信仰をその名前が示す様に代表して来た由緒ある機関

誌で、その影響力は今日に於ても絶大なものがあります。

 

  通常同誌の文章は短いものが殆んどですが、クロス・ローズ運動の教群に与える危

険性を重視する故に、際めて異例の長文を全文掲載するとの但し書きを編集長アイラ

・ノース師と副編集長ガイ・ウッズ師の連名で付け、フロイド教授の全文を紹介して

ています。  ここにも問題の深刻さが伺えます。

 

  原文は The Total Committment Evangelistic Movement ザ トータル コミットメント エヴァンジェリス

チック ムーヴメントで、一応訳者の方で仮訳題を『絶対的献身伝道運動』としました。

意訳は極力避けて直訳優先としました。  際めて一部分に於て部分的に訳者注を加え

て翻訳上の困難な点を補いましたが、勿論全体の流れを損なうものではありません。

 

  より正確な翻訳の為にベッツ兄、プラウト兄、とりわけオルブライト兄をしばしば

煩わせて適切な助言を頂戴致しました。  これらの諸兄に感謝したいと思います。

 

  尚、フロイド教授、マッケイ兄、クリスチャン・クロニクルズ誌、アベリン大学の

関係者、それにボストン市の日刊紙などからもこの運動に関してその後も相当の追加

資料を入手し、現在分析しています。

 

  最近では関西地域で古くから伝道している無楽器派のニコルズ師が育てられた数人

の信者がボストン運動に勧誘され、彼らがニコルズ師に教会から出る様に要求したと

の事実も先日の全国伝道者研修会席上で判明し、同師とも資料の交換を致しました。

これら各ルートから入手した資料を順次翻訳し、紹介して行きたいと思います。

 

  私自身留学中に、米国教会内での『前千年王国論争』の痛ましい紛争を長期間体験

して来た数少ない日本人の一人であり、その故に教会と信者の主に在る一致を切望す

る者でありますが、この『絶対的献身伝道運動』、即ち、福音の本質を歪める事にも

関係しかねないこの運動に対しては、フロイド教授の警告文等を日本の教会に紹介す

るのは私に課せられた使命の一つと感じ、敢えてここに翻訳の労をとる次第です。}

 

  1987年初夏  八ケ岳ベタニア・ホームにて  翻訳者  野村基之      0551-32-5579

 

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                              以下本文 

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  二、三年前の事ですが、或る種の伝道運動に参加していた一人の青年が一つの質問

を抱えて私を訪ねてくれました。  この青年は、その運動に対して敵意を抱いていた

のではありませんでした。  むしろ、その運動を支持し、これからも支持して行きた

いのだが、一つだけ悩む事があると話してくれました。  それは、ひと口で言うな

ら、その運動のいろいろな集会にもっと出席する様にと彼に圧力がかけられていると

言うものです。

  それ迄にも出席していたいろいろな集会以上にもっと多くの集会に出席する様にと

言う圧迫感を感じるし、自分としては最善を尽していろいろな集会に出ていたつもり

だが、それ以上にもっと努力をして、更に多くの集会に出る様にと言う圧力を感じる

と言う事でした。

 

  彼の悩みと言うのは、まだ結婚して二、三週間程しかたっていない彼の妻とだけの

時間を少しは持ちたいのだが、それでも自分は良いクリスチャンであり得るだろうか

と言う事で、それで私を訪ねて来てくれたのだと言う事でした。

 

  良いクリスチャンである為には、彼の総ての時間をその運動のいろいろな集会、例

えば交わりの集会とか、運動の指導者との『個人的な魂と魂のふれあいの時間』*と

かに注ぎ込まなければならないのだろうか、それとも新婚ホヤホヤの愛妻との時間を

少しは持っても良いのだろうか…との質問でした。

 

[*訳者注:  原文はソウル・トークで、カトッリック教会でのキリストの代理者、

教会の代表者としての神父に対して行う罪の告白にも似た、この運動では先輩、即ち

ビッグ・ブラザーやビッグ・シスターなどとの殆んど一対一での個人的な集会や少人

数の集会の事。]

 

  別な言い方をすれば、良い夫である様に努力すると言う事も一人のクリスチャンと

しての務めの一部と考えても良いものなのでしょうか…と言う質問でした。

 

  彼は私と話し合った後でグループに戻り、新婚夫妻が二人だけの時間を持っても二

人は良クリスチャンであり得るし、運動グループの人々が計画した総ての集会に出席

しなくても良いクリスチャンであり得ると主張したのです。

  彼らのこの主張は、然しながら、このグループには通用せず、彼はこの運動から離

れる事になったのです。

 

                    『変えさせられた生き方の福音』

 

  この運動全体に言い得る最も危険な事柄と言うのは、チエンジド・ライフ、即ち、

『変えさせられてしまった生き方の福音』であると言い得る事です。

  人々を変える福音と言う事ではなく、この運動で聞かされるのは『変えさせらてし

まった生き方の福音』と言う点にあるのです。

 

  つまり、何処がおかしいのかを説明しますと、次の様な例をあげてみる事が出来る

と思います。  即ち、『福音とは慈善、善行である』とか、『福音とは他人を助けて

あげる事である。  若しあなたがたが困るっている人を見たらその人を助ける事が福

音である』と言った表現にまとめて見る事が出来ます。

 

  然し、これらの表現は確かにおかしいのです。  福音とは善行や慈善ではありませ

ん。  それは福音が自然に生みだす果実の一つにしか過ぎません。  それと同様に、

変えさせられた生き方、変えられた人生が福音であると言うのも誤りです。

どう考えてみてもおかしな事です。

 

  『変えさせられた人生』とか、『変えられた生き方』そのものは福音ではありませ

ん。  私達にとって、変えさせられた生き方、変えられた人生に目標を定めると言う

事は福音を説き明す事にはならないのです。  亦、人々の生き方を変更する適当な刺

激とか動機ずけを提供すると言う事も福音ではないのです。

然し、この絶対的献身運動では福音とはこの様な方法で教えられているのです。

 

  即ち、この運動では次の様に言うのです。

『イエスは主であるから我々の御主人様である。  そして我々はその奴隷である。』

 

  確かにイエスが御主人様でいらっしゃると言うのはその通りです。  イエスは我々

に命令なさる究極的な権利を持っていらっしゃいます。  そして我々はその御命令に

無制限に服従しなければならない義務を負っている事も確かな事です。

 

  然し、聖書を読めば、イエスが主でいますと言う事は、この様な理解を遥かに超越

した意味で使われているのだと言う事がわかります。  聖書でイエスが主でいますと

言う時、彼が我々の御主人様で、我々は彼に服従すべきだと言った単純な事を意味し

ているのではないのです。  聖書が指摘する『イエスが主である』と言う意味は、一

例をあげれば、ヨハネ伝1章1節や14節で語られている様な意味においてなのです。

 

  即ち、『初めにみ言葉があった。  そのみ言葉は神と共にあった。  み言葉は神で

あった。  そして、み言葉が人間となって私達の間に宿った…。』  この様な意味で

イエスが主でいまし、この主こそを私達はあがめ、亦、お仕え申しあげるのです。

 

  この運動の中心課題、主要強調点と言うのは、イエスが御主人様でまし、我々は彼

に服従するのだ…と言う点にあります。  この様な理解の内に福音は存在していない

のです。  それは喜ばしい良きおとずれではありません。  それは私達の変えさせら

れた生き方に関するメッセージにしか過ぎません。

 

  福音とは、イエスが御主人様で、我々は彼に服従すべきである…と言う様なもので

はあり得ないのです。  福音とは、キリストに在って神が為し賜うた途方もなく偉大

な事実なのです。

 

 

                        クリスチャンの動機ずけの欠落

 

  福音の本質を見失ってしまったこの運動は、クリスチャンの動機ずけをも見失って

いるのです。

  この種の運動では、神の力である福音は人々を動機ずけるには不充分であると主張

するのです。

 

  我々は福音で人々に動機ずけをやってみたが福音だけでは駄目だったヨ…  と言う

主旨の発言を、この運動にたずさわる人々からお聞ききになったかも知れません。

 

  我々は福音で人々を刺激しようとしてみたが、うまく行かなかったのサ…  と彼ら

は言うのです。  我々は福音を信じて、福音で人々を動かそうとするのだが、人々は

坐り込んでしまって動かないのサ…  それだから何か別の方法、何か別の企画を考え

出して、人々を動かし、忙しくさせなきゃならないんだヨ…  と彼らは説明するので

す。

 

  ここで利用されているものと言うと、強制力、不安感、恐怖心、そして罪悪感なの

です。  それはキリスト教本来の動機ずけではなく、強制力とか不安感とか恐怖心と

か罪悪感が使われているのです。

  心理的強制力が応用され、神様がお喜びになっていないのではないだろうかとか、

神様はこんな自分を愛して下さっていないし、将来も愛して下さらないのではないか

…と言った不安感と恐怖心が間断なく利用され、応用され、罪悪感が生じる様に仕向

けられ、彼らはそれらの感覚を悪用するのです。

 

  感受性の強い人で、正直な人々と言うものは、常により良い人間になりたいと願う

ものですし、本当のクリスチャンになりたいと願うものです。

  こう言う良心的な人々は、この人達の罪悪感を悪用して迫ってくるこの運動の餌食

に簡単になってしまうのです。

 

  感受性が強く、正直で、しかも未熟なクリスチャン達が、他人の罪悪感を悪用する

事にたけるプロの手にひっかかりますと、そこには絶望と破壊が待つのみです。

 

  神様のめぐみも確かに唱はれてはいます。  私達に対する神様の愛も語られていま

す。  然し、それらは人々を鞭打つ道具として利用されているだけなのです。

一種の罪悪感を生み出す為の棍棒として用いられるのです。

 

  一例をあげればこう言う事になります。

或る人が静かに黙想する時間を何んらかの理由で持たなかったとします。

 

  『今日、あなたは黙想する時間に何をしたの?』  と先輩に問われます。

 

  『エーット、実は…今日は黙想するのを忘れました…。』

 

  『何ですって?  黙想しなかったんですって?

    あなたネ、それでも神様を愛しているつもりなの…?

    あのね、クリスチャンだったらね、神様と一緒の静かな時を過ごしたいと願うの

    が当り前じゃないの…!』  とビッグ・ブラザーの詰問。

 

  こうなりますと、当事者は『自分はクリスチャンではないんだ』との印象を持つ様

になってしまい、罪悪感の内に沈んで行ってしまうしかないのです。

                          クリスチャンの自由の欠落

 

  この運動にクリスチャンの自由が入り込む余地はありません。

 

  私がここで言いたいクリスチャンの自由とは、私達は何をしても自由だと言う意味

では勿論ありません。  私が言うクリスチャンの自由とは、私達は人間が考え出した

如何なる暴虐からも自由であるべきだと言う意味なのです。

 

  神様が私達の良心の主でいらっしゃり、私達は聖書によってのみ規制されるもの

の、他の如何なる人間の暴虐からも、そして亦、人間が考え出した如何なる伝統やし

きたりからも自由であると言う意味においてです。

 

  この運動においては、とてつもない圧力が人々の生き方に加えられて影響を与えて

います。  この運動の群れでは、仲間が他の仲間の睡眠時間の長さ迄も判断し、決定

し、それに服従する様に〈忠告〉してくれます。

 

  『あなたが本当のクリスチャンなら、一日6時間の睡眠で生活するぐらいの心構え

    でいてもらわなくっちゃね…』

 

  『何ですって?  朝寝坊してしまったって!

 

      あのね、若しあなたが本当のクリスチャンで、しかも、真剣に神様に仕えたい

    と願っているのなら、あなたが自分で必要だと考えている程の睡眠時間はいらな

    い筈なんだよ。

 

      第一ね、神様があなたに必要な力を下さるから、睡眠不足なんかになりっこな

    いんだよ。  もっと神様の力を信じなくっちゃね。

 

      あなたが本当に神様に仕えたいって思っているんだったら、朝寝坊しただの、

    睡眠不足だの、他にもやらなきゃならない仕事があるだのと、いろいろ言い訳を

    言わないでもらいたいね。

 

      本当に神様に仕えたいと心から願っていれば、神様は必ずあなたに力を与えて

    下さる筈なんだから、今迄の睡眠時間より短くなったって、結構うまくやって行

    けるものだよ…。』

 

と常に個人的にピッタリ側について指導するビッグ・ブラザーなりビッグ・シスター

が話しかけて来るのです。

 

  アメリカでは、テニスをやる事などは極く自然なスポーツなのですが、この運動に

入れば、テニスする時ですら個人裁量の自由も拒否されてしまう結果になるのです。

彼には規則が与えられてしまうのです。  つまり、こんな風になります。

 

  『あなたがクリスチャンの兄弟とテニスをするのなら良いよ。

    但し、相手の兄弟の信仰を昂められるのなら…と言う事だよ。

 

    相手がクリスチャンでない人でも、その人を〔訳者注:その運動の〕信仰に導け

    る自信があるんだったら、その人とテニスも良いさ。

 

    でも、相手を信仰に導けそうもないのなら、その人とのテニスはいけないよ。

    どうしてって、駄目な相手と無駄に使う時間を、もっと効果的に使う方法を考え

    て貰わないとね…。』

 

 

  また或る時には、こんな相談もありました。

 

  或る姉妹が、自分はギリシャ語を勉強しようと思う…と同じ運動内の姉妹を信じて

打ちあけた事がありました。

 

  『ああそうなの、いいじゃない。  原語のギリシャ語で聖書が読めるなんて!』

彼女はこんな返事が返って来ると思ったのでしたが、そうではなかったのです。

 

  『本当にそんな勉強をしなくてはいけないの?  ギリシャ語の勉強って言うのは、

    とっても時間がかかるのよ。  そんな無駄な事に時間を浪費する暇があるのなら

    もっと別の事にその時間とエネルギーを使った方がいいんじゃない?

      ギリシャ語の勉強なんてね、あなたにはそんなに必要でもないし、第一、そん

    なに大切なものでもないのよ…。』

 

  この種の判断は個人個人がなすべきものです。  クリスチャンは誰であれ、神様に

仕える為に、主のみ前にそれぞれの自由を有している筈です。  クリスチャンは聖書

のみ言葉よって規制されるのです。  各々のクリスチャンがそれぞれの良心に従って

決めれば良いこの種の個人的なもの迄、他のクリスチャンがとやかく干渉すべきでは

ないのです。

 

  私達はお互いにこう言った事柄に関して各自の自由と言うものと尊重すべきである

事は申すまでもない事です。

 

  〔訳者注:これらは個人の自由を国是とする米国内での実例である事に留意。〕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                  完全主義

 

  今迄に説明して来ましたものの見方の線上に並ぶものは完全主義と言う事です。

この運動で言う福音とは{完全主義の福音}と言う事になります。  別な表現をして

みますと、福音が完全主義によって置き換えられ、取り換えられたと言う事です。

  この点で、この運動はウエスレー主義に酷似しているとも言えます。

 

  ウエスレー主義、別の呼び方ではメソジスト運動の内からカリスマ運動が生れて来

ました。  カリスマ運動の基本的神学はウエスレー主義なのです。  そして、私達の

教群の内の際めて一部の人々が熱心に主張している{絶対的献身伝道運動}の教理的

基礎や見解は、実はウエスレー主義なのです。

 

  ジョン・ウエスレーの強調したものを一口で言いますと、神様の恩寵の第二番目の

働きです。

 

〔訳者注:  即ち、日本では全き聖潔とか、聖化とか呼ばれているもので、基督者の

の完全と言うものです。  神の恩寵によって十字架のイエス・キリストの贖罪の血を

受て神の子とされ、神の前に義とされて新生した者は、次に、一切のものを聖別され

て神に専属する者とさせられ、聖霊にバプテスマされ、内在する聖霊の絶対支配の下

に主の像に変えられる、即ち、聖化させられて行くと言う理解です。

ウエスレーはこの第二段階を強調したのです。〕

 

  ウエスレーは人々にこの恩寵の第二段階の業を説き、人々が全力を注いでこの二番

目の恩寵の業に焦点を合す様に促したのです。

 

  これは、別の言い方をすれば、次の如くになると思います。

『まず、あなたはクリスチャンになりましたね。  少ししてから、それは何ケ月なの

か、何年してなのかは分らないが、あなたは本当のクリスチャンになるのです…。

あなたは聖化させられ、全く聖潔な者とさせられるのです…。

そして、聖化させられるのです…。』

 

  ウエスレーによれば、聖化とは、簡単に言うと、あなたの全身、全霊すべてを主に

献げ切った絶対献身状態に到着する筈で、それが聖化なのですヨ…と言うのです。

 

  〔訳者注:  これが基本的にメソジスト教会と、それから派生して来たホーリネス

教群、インマヌエル教群、きよめ派教群、キリスト兄弟団教群、ナザレン教群、及び

アッセンブリー教群などの基本的教義です。〕

 

  私がここで問題にしている{絶対的献身伝道運動}グループでは、ウエスレー主義

諸教派群が使う{聖化}とか、{恩寵の第二番目の働き}と言う用語は使いません。

この運動が使う言葉は、{デサイプルシップ Discipleship }です。

    〔訳者注:  この単語も日本語に翻訳し難いものの一つですが、強いて訳せば、

『弟子である事』とでも訳せます。〕

  『あなたは、最初クリスチャンになる、そして、しばらくしてから本当の弟子とな

り、また、その様に振舞う様になるのです…』とこの運動では説いているのです。

 

  そこでは、あなたが初めてクリスチャンになった時に、どの様な事が起っていたの

かとか、キリストの内へとバプテスマされた時に何が起っていたのかと言う重要な事

柄は一切無視されてしまうのです。  この運動でも、ウエスレーがそう説いたのと全

く同様に、第二番目の段階が強調されるのです。

  即ち、イエスにあなたが全き献身を誓い、イエスに絶対的な忠誠と献身を誓って歩

む努力を始めた時に、あなたは本当の弟子になった…と説くのです。

 

  若し私が、聖書を多少なりとも知っている人に向って、『人が罪を犯さなくなる様

な状態に到着すると、その人は完全の域に到着したのだ…』などと誰かに話したとし

ますと、そんな私の言葉を信じてくれる人はある筈がありません。

  ヨハネ第一の手紙1章8節に語られています様に、私達はみんな罪を犯すと聖書は

教えているからです。

 

  然し、この運動では、完全と言うものを次の様に教えているのです。

 

  『あなたは自分でそうすべきだと知っている程に神様を愛していますか…?』と言

う様な調子で尋ねられるのです。

  そうしますと、真面目で正直な人は、『いいえ』と答えざるを得なくなります。

 

  『あなたは友人や隣人を自分で愛すべきだと考えている様に愛してますか…?』と

再び尋ねられるのです。  『いいえ』としか答えられなくなります。

 

  『祈らなければならないと知っている筈ですが、それ程にまで祈っていますか?』

と更に尋ねられるのです。

 

  『こう言う事はネ、大切な事で、良い事なんだし、あなた自身もやらなきゃいけな

い事だと知っていながら、あなたはその為に充分な時間をさいているの…?』とまた

再び問いかけられるのです。

そうすると正直な人なら誰でも『いいえ』としか答えられなくなってしまうのです。

 

  『あなたネ…、これらのあなたのお答えではネ、主でいらっしゃる神様は、あなた

にもう少し頑張ってもらいたいとお考えになっていらっしゃると思いませんか…?』

  『そうです。  主はもう一寸ましなものを私に求めていらっしゃると思います。』

と答えざるを得なくなるのです。

 

  『あのね、もう一寸頑張る…なんて事じゃなくて、主はあなたの全心、全身、全力

を尽した、完全な献身を求めていらっしゃるんじゃないんですか…?』

  『ええ、そうと思ます…。』

 

  『あなたネ、あなたはあなたの総てを主に献げたいと願っているんでしょ…?』

 

  こうなりますと、《“本当のクリスチャン”になりたい》と願う人なら、『ハイ』

と答る他にないのです。

 

  『それじゃ、あなたはあなたの総てを主に献げなさいヨ…。』

 

  ここで説かれているのが実はウエスレー主義なのです。  完全主義なのです。

 

  若しこの完全主義が説かれますと、二つの奇妙な事が生じますので御紹介しておき

ましょう。  驚きと言いますか、奇妙な事と言いますのは、そこで完全主義が説かれ

ているのに、それを聞いている人々はその事実に全く気が付いていないと言う事と、

人々はその教えが誤りであるとか、何かしらおかしいと感じていないと言う事です。

 

  もう一つの奇妙な事は、この完全主義が説かれて、人々がその教えを正しいものと

して受け取っているのであれば、その運動に関係する総ての人々が、献身の招きがな

される度ごとに、どうして全員で更にもっと献身する為に前に進み出ないのかと言う

事です。  その集会に出席している全員が、説教者も含めての事ですが、更に絶対的

献身を促す招きがなされる度ごとに、どうして全員で前に出て来ないのかと言う自然

な疑問と奇妙な事実です。

 

 

  この運動に初めて接触した人々は次の様な質問攻めに会うのです。

 

  『あなたとあなたの主との関係はどんなものですか?』

この種の質問を突然あびせかけられた人は、よほど信仰的にも、人間的にも円熟した

人でもない限り、何と答えて良いのか、一般の人では戸惑ってしまうものです。

 

  『あなたとあなたの主の関係をどう考えているのか?』と尋ねるられると、普通の

人なら次の様に答えるのが精一杯でしょう。

 

  『そうですネー、私と主との関係は、もうちょっと良くなる様に私の方でそれなり

の努力をしませんとネー。  今のままじゃ良くありませんからネー。  私の方で改め

なければいけない事が確かに多いんですから…。』

 

  そうすると二番目の質問が飛んで来るのです。

 

  『あなたは毎日の生活で、決った時間に聖書を読んでますか?』

  『いいえ…、読んでいません。  そんな時間はとっていません…。』と答えざるを

得なくなります。

 

  『毎日、静かな時間を持ち、神様とだけの時間を割いているの?』

  『いいえ、お恥しい次第ですが祈っていません。』

 

  『いつも誰かと一緒に祈っているの?  お祈りのパートナーがいるの?』

  『いいえ、お祈りのパートナーなどありませんし、第一、そんな事を聞いた事もあ

りません…。』と、段々に居心地が悪い方に押しやられて来るのです。

 

  こんな風に矢つぎ早に質問を浴びせられますと、うぶで真面目な人は、自分は本当

はクリスチャンではないのではないか…と疑い始めてしまうものです。

  こうして質問攻めに会った大概の人々は、この辺りで打ちのめされ始め、次いで、

この運動がお膳立をしたいろいろな荷物を背負い込んでしまう羽目に到るのです。

 

  背負い込まされたいろいろな荷物と言うものは、聖書がそう要求すると言うのでは

なくて、誰か他の人がお膳立をしたプログラムによって背負い込まされる荷物なので

す。  そして、聖書ではなく、他人がお膳立をしたプログラムと言うのは、その運動

にかかわりを持たない本当のキリスト教を拒否し、否定するものなのです。

 

  勿論、この運動に言わせれば、彼らの方が普通一般の[名目だけの]クリスチャン

より遥かに自分達は優れた者達である…との恐ろしいプライドを持っていますから、

その様な[名前だけの]クリスチャン達は教会の内の[本当の]クリスチャン達の交

わりから追い出してしまわねばならないと言う訳になるのです。

 

  〔訳者૤SÐŒGET http://www.bible101.org/images/wmrs">  この問題に関して1987年5月2022日の大磯での全国伝道者会で大阪

で最近実際に発生した事実として大阪のニコルス宣教師から特に発表があった。〕

  これ迄に説明して来ました様な方法で、『自分は駄目な人間、駄目なクリスチャン

だ』と信じ込まされてしまった人にとっては、『改めてもう一度バプテスマされない

といけないなアー』と思う様になるのは極めて自然な結果なのです。

 

  『自分は本当はクリスチャンではなかったのだ』とか、自分は本当のクリスチャン

ではなかったのだと思い始めますと、『それじゃ今迄のバプテスマは本物ではなかっ

たのだ、あのバプテスマは無効なのだ…』と考え始めるのも当然な事となります。

 

  ですから、この運動では再浸礼、re-baptism  と言うものが非常に多いのです。

同様の理由から、この運動では人々が絶え間まく罪の告白をし続けるのです。

 

  人々は自分の罪を告白する様に仕向けられ、仕掛けられているのです。

自分の不充分さを感じる様に、しかも何回も何回も繰り返しそう感じる様に仕向けら

れてしまっているのです。  ですから、それらの人々は何回も主の前で再献身を誓う

のです。  それですから奇妙な事に、多くの人が何回も全身、全霊、全心、全力投入

の絶対的献身の誓いと努力を繰り替すのです。

 

                                偽りの霊性

 

  クリスチャンが生きると言う事の目的は神様に御栄光を帰す事です(エペソ1:12,14)

これ以下の目的と言うものは在り得ないのです。

 

  クリスチャンが生きると言う事の目的は福音を説く事ではありません。

失われた魂をキリストに導くと言う事ではありません。

クリスチャンの生きて行く事の目的は神様に栄光を帰す事なのです。

 

  神様に栄光を帰すと言う事は、クリスチャンにとって、多くの事を意味します。

伝道する事もあります。  慈善事業に従事する事もあります。  良き夫である事も含

みますし、良き父であると言う事もその一つです。  自分の職務を良心的に果すと言

う事もそうです。  人々と誠実に接する事も同じです。

 

  別な言いかたをすれば、一人ひとりのクリスチャンの全生涯、その人の生きて行く

事のあらゆる分野を総て網羅すると言う事なのです。

  クリスチャンが営む一つひとつの営みを通して私達は神様に栄光を帰すべきなので

す。  しかもそれは聖書の規準に基ずいてと言う事です。

 

  霊的であると言う事、クリスチャンの生き方、在り方と言うものは、人間の営みの

内の際めて小さな一部分、一分野に限定されると言う様なものではないのです。

  霊性と言うもの、霊的であると言う事は、自分の属している宗教グループに献げる

とか、自分の群れの兄弟姉妹と交わるとか、伝道するとかの宗教活動によって決めら

れるべき筋合のものではない筈です。  それは霊的であると言う事を誤解している、

偽りの理解、偽りの霊性なのです。  人が霊的であるとか、霊性を語る時、その人の

全人格、全存在、その人の在り方、生き方の総ての分野を意味し、網羅するのです。

 

 

  パウロがコロサイ書3章で霊性、即ち、クリスチャンの在り方を語る時、彼はまず

動機から語り始めています。  同章1節から4節にかけて、私達は十字架で死んで、

そして新しくキリストと共によみがえらされたのであるので、私達はキリストのもの

であるとパウロは動機について語っています。

そして私達はキリストのみ言葉によって豊かに満たされている故に、私達の生き方、

在り方、生活の総ての面でイエス・キリストに従うものであるとパウロは語ります。

 

  私達の営む事がどの様なものであっても、何を話すにせよ、何を行うにせよ、総て

を主イエスのみ名によって為し、イエスによって父なる神様に感謝しなさいと17節で

勧めています。  何んと言う豊かで美しいクリスチャンの生き方ではありませんか。

 

  私達クリスチャンの全存在に亙る豊かで美しい体験であるこの生き方、在り方と言

うものは、決して限られた一部分だけに、限られた特定の宗教的行為や範囲に限定さ

れる様なものではないのです。

 

  そして次の18節でパウロはクリスチャンの生きる事との関連で、幾つかの具体的な

事柄へと移って行きます。

 

  妻は夫に従いなさいと語り、19節では夫は妻を優しくいたわり愛しなさいと語り、

20節で子供は親に従いなさいと勧めています。  22節から25節では労働に従事する者

は仕事を立派にやりなさいと説き、4章1節でパウロは主人に対して、その従業員や

労働者を正当に待遇する様に命じています。

  これが、聖書が示すクリスチャンの在り方、生き方であり、これが霊的と言う意味

なのです。

 

  母親が子供の世話をする時、オムツを取り換える時、お皿を洗う時、家の内を片付

けたり、床を掃いたり、蒲団を干したりする時、実は彼女は彼女が行っている仕事の

意味するものを遥かに超越した内容に従事しているのです。  母親は、それらの日常

行為を通して神様に栄光を帰しているのです。  彼女はそれらの事によってキリスト

に仕えているのです。  それが彼女の霊的であると言う事なのです。

  神様の下で営まれる生活の総ては霊的なものなのです。

 

  夫がその妻を愛し、愛する家族の為に時間を割く時に、神様は決して嫉妬などなさ

らないのです。  夫は神様が命じられた事、即ち、誠実な心でその妻を、家族を愛し

ているからです。

 

  神様が私達に命じられた事を私達が行う時、私達クリスチャンは霊的であるので

す。  他の人が私達の為に考案した宗教的企画に私達が乗っかったり従うと言う事が

霊的であると言う事には決してならないのです。

 

 

  この運動のオリエンテーション、即ち、この運動に新しく加入した者に対して与え

られる案内と指導のプログラムでは、一例をあげれば、ヨハネ伝15章1節から6節の

解釈が用いられます。

 

  『あなたが私の内に留っていれば、あなたは実を結ぶ…』と言う聖句ですが、この

運動では、この『実を結ぶ』と言う事を、救われていない魂を救うと言う、伝道と言

う際めて狭い意味に解釈して、そう新入者に教え込むのです。

それだけの意味だと教えるのです。

実を結ぶとは、魂をクリスチャンにする、伝道して人を救う事だと教えるのです。

この運動では、これだけしかその聖句の解釈方法はないとするのです。

 

  然し、この様な聖書解釈方法に対して、我々は精力的に挑戦をいどむ必要があると

思います。  ヨハネ伝福音書で、その前後関係から言い得る事は、『実を結ぶ』と言

う意味は、神様の幾つかの御命令を守ると言う事なのです。

 

  『私を愛しているのなら、私の掟を守りなさい…』と主イエス・キリストが説かれ

たとヨハネ伝1415節、21節、23節、そして1510節でヨハネは私達に語るのです。

 

  その意味するものは広範囲に亙るものです。  この事を別な表現で説明するなら、

私達クリスチャンの生活全般に亙るものであると言う事です。

クリスチャンの生きる事に関して、その総てに及ぶ巾広い全部分を網羅すると言うの

が『実を結ぶ』と言う事の意味ですし、また、その範囲なのです。

 

  私達が私達の人生を神様に従順に生きる限り、私達はキリストに在るのですから、

私達は実を結んでいるのです。

  ガラテヤ書5章22節以下の聖句が、私達のキリストに在る人生が結ぶ聖霊の実なの

です。  『聖霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、

そして節制です…。』

 

  然し、この絶対的献身伝道運動で言う実を結ぶと言う聖書解釈は、極めて狭い解釈

であり、伝道する事としか解釈しないのです。

  1977年5月17日付のクリスチャン・クロニクル誌7頁に、偽りの霊性に関する記事

が掲載されています。

 

  その記事と言うのは、ベルギーに駐在しているキリストの教会の宣教師の一人が、

どの様にして家庭崩壊寸前の悲劇から二組の“エホバの証人”の家族を救ったかと言

うものです。

 

  エホバの証人グループに加入した二人の主婦は、家庭訪問をする事を教えられ、そ

の事に専念する事で二組の家庭が崩壊してしまいそうであったのです。

  家庭訪問をして伝道するのが霊的クリスチャンの為すべき業、任務であると教えら

れてしまったからでした。

  外に出て行って伝道する事が二人のなすべき最も大切な事なんだと、エホバの証人

グループがその二人の主婦に教え込んでしまったのです。

彼らは自分達の家族、家庭を顧りみなくなってしまっていたのでした。

 

  キリストの教会の宣教師が二人に出会い、その事の偽りである事を教え、それぞれ

の家族の為に、夫の為に、子供達の為に食事を作ったり、日常の家事をする事が大切

であり、そう言う日常生活全体の内で与えられた仕事をする事が霊的なものの内に含

まれているのだと教えたのです。

家族を顧みずに戸別訪問をする事が決して霊的な事ではないと諭したのです。

 

  この忠告に聴き従った主婦の一人は、それからはなるべく家族と共に過ごす時間を

持つ様になりました。  家庭生活の重要さを理解しない彼女達の属していたエホバの

証人グループの指導者は、そんな傾向を示し始めた彼女に対し、中途半端で生ぬるい

人間とか、怠け者とか、不信仰だとか言って批判しました。

  キリストの教会の宣教師は彼女を励まし続け、本当に霊的であるとはどう言う事な

のかを教え、遂に彼女の家庭に平和と調和と幸福を取り戻す事に成功したのです。

 

  〔訳者注:  1.  クリスチャン・クロニクル誌は米国オクラホマ・クリスチャン・

    カレッジで発行されているタブロイド版の月刊誌で、キリストの教会無楽器派内

    で主として読まれているもの。  発行部数約10万部とか。

 

    2.“エホバの証人”グループは別名“ものみの塔”グループとも呼ばれ、1884

    米国でチャールズ・ラッセルが設立したもので、三位一体の教義を拒否する。

    この故に一種のキリスト教的な異端グループと考えられている。  ものみの塔な

    るトラクトを戸別訪問で販売している。  日本では戦前に灯台社と呼ばれ、非正

    当的キリスト教的信仰ではあるが自覚的信仰で国家権力に抵抗した人もあった。

    岩波新書に『兵役を拒否した日本人』の一文があり、現在公称信者数5万だが、

    実際にはもっと少ない筈である。〕

 

                          熱狂的邪教的(Cultic)側面

 

  この絶対的献身伝道運動には、多くの熱狂的かつ邪教的な面があります。

人々を操作すると言う点でその様な (Cultic Aspects) 側面があるのです。

 

  文鮮明を中心とする“統一原理グループ”は有望で才能に富んだ人々、感受性の強

い人々、理想主義的な青年達を捕捉し、世俗の人々から隔離させ、外部から遮断して

自分達のグループに入れ、両親や家族さえ手の届かぬ様な状況の内に入れて操作する

のです。いわゆる洗脳をやるのです。

 

  これと同じ様な操作方法が、私達の教群内で問題となっている絶対的献身伝道運動

でも採用されているのです。

  絶対的、全面的献身などと言う事それ事態が熱狂的で、邪教的(Cultic)です。

純粋な人々を砕き惑わせ、この運動の要求するいろいろなものをそれらの人々に要求

し、背負わせるのです。

 

  人々を支配し、操作する為に真理的圧力を加えると言う点でも、この運動は熱狂的

であり、邪教的であり、カルチックなのです。

  亦、この運動では、青年達をその両親から遠ざけ、離間させるだけでなく、まるで

両親でもアカの他人の様に考える様に洗脳する点でも熱狂的ですし、邪教的です。

  これが統一原理運動でこれ迄に行はれて来た事です。  これと同じ事が私達の群れ

の内で、神様の子供である私達の教群内でも行はれて来たものなのです。

 

  この運動に参加している青年達の両親が、自分の子に向って何かして欲しいとか、

して欲しくないと注文すると、運動に加わっているそれらの若者は、クリスチャンで

ある事の為には、その親すらも切りすてたり、憎まなければならないとか、自分の肉

の家族から決別しなければならないとすら断言するのです。

 

  然し、これは実に恐ろしい、誤った考えであり、ルカ伝1426節でキリストが教え

られた事の恐ろしい誤解であり、曲解であり、誤報であり、虚告以外の何ものでもな

いのです。

  非常に極端な場合に限ってのみ、主に仕える為に、人はその父や母から離れなけれ

ばならないのです。

  両親に聴き従はないと言う事は、パウロの言葉を借りれば、神様を知らないこの世

の恐るべきいろいろな罪がロマ書1章の内に列記されていますが、その罪の一つであ

ると言うのです。

 

  或る人が運動の中に引き込まれます。  そして自分が分らなくなってしまいます。

 

  『これ迄の自分は、実はクリスチャンでも何んでもなかったのだナ…』と思い込ま

されてしまいます。

  『この運動に参加して、自分は初めて本当のクリスチャンになったのだ!』と思い

込む様に仕向けられるのです。

 

  『それじゃ、私の両親も実は本当のクリスチャンではないのだ!

何故なら、両親は私の事をクリスチャンとして育てて来たと言っていた。

  だけど、自分は今回初めて本当のクリスチャンになったのだから、自分を今迄育て

て来た両親もクリスチャンでも何んでもなかったのサ!

  クリスチャンでも何んでもなかった自分をクリスチャンとして扱って来た両親なん

て甘いものサ!  ありゃデタラメサ!』

  こう言う論法で、彼はその両親からも、そして赤ん坊の時からそれ迄の長い間に亙

って愛して来た教会からも、信頼していた長老さん達からも、尊敬して来た説教者か

らも、そして教会全体からも切り離されて行くのです。

そして、その反動で、自分達っだけのグループで凝り固って行くのです。

 

  熱狂的で、排他的で、邪教的な分派グループでは、こう言う様な事態が各地で発生

して今日に及ぶのです。

 

                                  〈終り〉