《空の鳥に思うこと》

 

  20年前に世田谷から当地に移住して来た日の朝の印象の一つに野鳥の囀りが余り

にもうるさ過ぎて目が覚めたということがありました。  贅沢な驚きでした。

  その日の内に庭の正面端20メートル離れた所に餌台を設置して今日に到ります。

どれだけ多くの野鳥が立ち寄ってくれたことでしょうか?  その一羽も御旨でなけれ

ば落ちないと聖書は言いますから、天国で小鳥たちと再会できるでしょう…

 

  上述のイザヤ書4026節は『眼を高く上げ、誰が天地全宇宙を創造されたのかを

充分に理解するように』と勧めています。  それは『眼を空高くに向けて』です。

  詩編19編1節は言います。  『諸々モロモロの天は神の栄光を顕し、穹蒼オホソラはその手

の業ワザを示す』と雄大無限の神の創造の智恵と能力を語っています。

 

  然し、このように勧められているということは、昔から多くの人々の眼が決して

上に向いていないことを暗示しているのではないかと、そのように思います。

  殆どの私たちの眼が向いている方向とは、それは地面の上なのです。  この地上の

ことなのです。  下を向いたままで忙しく生活に追われているのが現実の姿です。

 

  そのような私たちの在り方を充分にご存知であった主イェスは『汝の為の財宝を

地に積まず天に積め』とマタイ伝6章19節~20節で勧めておられるのです。

  更に26節で『空の鳥を見よ。  播かず、刈らず、倉に収めず。  然るに汝の天父は

これらを養い給ふ。  汝らは空の鳥よりも遥かに優るる者ならずや…』と主イェスが

私たちの眼を空の上に向けることを勧めておられます。

 

  地上の仕事(即ち、播くこと、刈り入れること、倉に収めること)=物質的に必要

なモノだけに心を奪われてしまうことだけで終わるのではなくて、天空を自由に飛翔

する創られた鳥の彼方にいます天地宇宙の創造主を想えと勧めておられるのです。

  その意味で、私たちは改めてマタイ伝6章19節~34節を声を出してゆっくりと独り

で読んでみる必要があるのではありませんか?  必ず深く感動できると思います。

 

  ヤコブ書1章14節~15節は『慾孕みて罪を生み、罪成て死を生む』と言います。

テモテ前書6章10節は『金銭を愛するは諸般モロモロの悪しき事の根なり』と言います。

 

  マルコ伝1017節~25節は、おそらく或る程度の聖書知識を有していた資産家の

青年がイェスと対面した時のことを記録しています。  イェスの足下に跪づいたうえ

にイェスのことを「善き師よ」と尊敬語で呼びかけています。  そしてその好青年は

旧約聖書の大切な教えをことごとく学び守っていたと告白しています。  私たちより

も遥かに聖書に通じており、真面目に宗教儀式をこなしていた人物のようです。

 

  然しこの青年が神の国に入るのには、一つだけでしたが、とても大きな問題があっ

たのです。  それは青年が「大いなる資産家であった」からだと22節は言います。

「憂ひを催し、悲しみつつ立ち去りぬ」と22節は続けています。

 

  同じマルコ伝の1241節~44節にはイェスの別の出会いを紹介しています。

それは主イェスがユダヤ教の神殿を訪れて礼拝する多くの信心深い人々を観察された

時の出来事の記録です。  多くの「善男善女たち」が賽銭箱に献金している姿を観察

されていたイェスの、具体的で単純でしかも耳の痛い、観察報告です。

  即ち、富める者たちの多くが多額の献金を人前でこれ見よがしに賽銭箱に投入して

いる光景を御覧になっていたのです。

 

  その時のことです。  誰の眼にもすぐわかるような貧しそうな一人の寡婦ヤモメ が

賽銭箱の前にやって来たのをイェスは目撃されました。  寡婦はレプタ2硬貨2枚を

賽銭箱に投げ入れました。  1枚ではなかったのです。  2枚が強調されています。

 

  レプタという硬貨は、イェスの時代のローマ帝国内に流通していたギリシャの最小

青銅貨のことです。  重さは平均 1.7グラムでした。  日本の現行最低アルミ硬貨が

1枚1グラムです。  2レプタで1コドラント=英語ですとクォーター、  の青銅貨

で重さ平均 3.5グラムです。  当時のローマの銭湯1回の入場料金相当でした。

  4コドラント=1アサリオン青銅貨になります。  1アサリオンで、煮た雀1羽を

露天商から買うことができたようです。  マタイ伝1929節で言及されています。

(現在の日本の銭湯入浴料金または温泉入湯料金の半分に相当する金額なり、露天商

のオデンの煮蛸タコか煮烏賊イカ1串分の代金を何となく想像してみて、寡婦がそれだけ

の額に相当するもの、即ち彼女の全財産を賽銭箱に捧げたと想像してみて下さい)

 

  ここでイェスが強調されたこととは、寡婦には二つしかなかった青銅貨の半分を

捧げることもできた筈だという点です。  然し彼女は両方を捧げたという点です。

  貧しい寡婦が全財産を捧げている間にも、他人に見てもらう事を強く意識して富者

が多額献金をする傾向があったのです。(ルカ18:914 20:4521:14 参照)

 

  ベタニヤ集会で公同礼拝中に献金箱を廻さないで、入口脇に設置してある献金壺

に各自がめいめい心に定めたものを袋に入れて捧げるようにしてあるのは、イェスの

献金への上述の鋭い観察と指摘を覚え、マタイ伝6章1節~8節のイェスの警告をも

踏まえてのことです。  そこでもイェスは「天にいます父」と語られています。

 

  私たちの目を天に向けること、空の彼方に向けること、神さまを想う生活時間を

増やしてみたいものですね。  如何でしょうか?