2003年3月2日  八ヶ嶽南麓  野村基之

 

    庭先で屋内から20メートル離れた所の餌台下に電池作動の寒暖計が設置してあり

弱電波を発射しています。  それを屋内寒暖計が受信しています。  他の屋外2ヶ所

にも寒暖計が設置してあります。  そのようにして外気温を計っています。

 

    さて、その餌台手前の左右には水飲み場を用意してあります。

向かって右の方のは、1970年代初頭ソウルの焼肉店で無理を言って商売道具を譲って

頂いた石製炮烙ホウラク=柄のない東洋の土製フライパン、直径30cmで深さ4cmの皿状鍋

です。  これを七輪の上で加熱して焼肉料理を提供していました。  躊躇する店主を

たどたどしい韓国語で説得して新品を譲って貰いました。

  左の方は石塊の中央部を直径15cm深さ6cmに抉り掘っただけの物です。

 

  この二つの容器に栗鼠や野鳥が水を求めてやって来るのを観察します。

右の方の韓国石製炮烙に飛来する野鳥は、躊躇することなく水を飲み、小鳥は沐浴を

します。  厳寒日でも喜んで沐浴をします。  湯を提供する日もあります。

降雨日でも気持ち良さそうに水しぶきをあげながら沐浴をしています。

  ただ、飲み終わった後で、くるりと向きを変え、飛び立つ直前になって水中に糞を

して飛び立つというところだけは理解できません…!?

 

    ところが左側の物では、殆どの野鳥は水を飲むだけで、飛び込んで沐浴をしませ

ん。  ヒヨドリなど大きな鳥でもなかなか飛び込んで沐浴をしません。

  水深6糎では殆どの野鳥には深過ぎるのでしょうし、ヒヨドリの身長にはプールの

直径が狭過ぎるのでしょう。  沐浴する姿を滅多に見かけたことがありません。

野鳥たちは沐浴に適する水深かどうかを本能的に即座に判断しているようです。

 

    さて、水飲み場に来る栗鼠や野鳥たちを観察して思うことがあるのです。

ヨハネ伝4章11節に出て来るサマリヤの女がイェスに向かって叫んだ言葉です。

  『先生、あなたは柄杓を持っておられないし井戸は深過ぎます』

 

    そこで幾つかのことを考えてみました。

 

a.  主イェスがサマリヤの女=(彼女が代表する全人類)に与えようとされていた水

は、彼女が考えていたような井戸水、地下から湧き溢れて来る水、地底から湧き出て

来る水ではなく、上から、天から神が賜物として与えようとされていた水でした。

それは「いのちの水」でしたが、彼女には理解することができませんでした。

 

  私たちは神さまと接し、神さまから祝福を恩寵で頂くのであって、上からの霊的な

賜物を頂くのであって、地の下からのもの、この世に属す種類の物質的な賜物ではな

いのです。  彼女にはこのことが理解できなかったのです。

  そして、そのように言う私たちクリスチャンは本当に理解しているのでしょうか?

 

b.  『柄杓がないから汲めないんじゃないですか?!

主イェスが与えて下さる「いのちの水」は、人間の手や道具によって得る事など到底

できないものなのです。  彼女にはこの事も理解不能でした。

  罪深い私たちの罪は人間の努力によって拭われたり、赦されたり、帳消しにできる

ようなものではないのです。  人の善意や善行で置き換えることなど決してできない

ものなのです。  柄杓で汲み取れるような種類の問題ではないのです。

  人の罪を人が拭い去れるのなら主イェスの十字架は不要です。

 

c.  『井戸は深過ぎますょ!』

彼女が彼女の経験と判断でそのように思っていただけなのです。

彼女=人類=皆さんと私が、そのように、私たちの体験や経験や、常識や疑念から、

そのように決め込んでいただけなのです。  私たちは、殆どの場合、私たちの常識や

経験や疑念や思い込みから物事を判断しているのです。

 

  それはそれで良いのかも知れませんが、一旦これが神さまの世界のことになります

と、私たちの常識や経験や疑念は通用しないという事を理解できないのです。

これは信仰の世界に属している、もう一つの世界の次元の事柄なのです。

 

  私たちに出来ないことだから、『井戸が余りにも深過ぎるのにあなたは柄杓も持っ

ていないじゃないですか』という、『私たち人間にできないのだから=神さまにもで

きる筈がないだろう』という疑念なり推測が働いてしまうのではないのでしょうか?

不信仰なのです。

 

  『神を信じている』と口先では言っていますが本当はどうなんでしょう?

人間の常識や体験を神さまの世界にまでも持ち込んで来て、全智全能の神さまの能力

をすら計ろうとする驕慢な不信仰さがあるのではないのでしょうか?

  自分の才能を信じられないから、人間の能力を信じられないからといって、それと

同じ尺度で全宇宙全世界を創造され、これを支配なさっている神さまの能力までをも

僣越にも制限してしまっているのではないのでしょうか?

 

  私たちが神を語る時、本当はその程度の、私たちの常識の範囲内での信仰なのでは

ありませんか?  命懸けという姿勢が欠落し、『適当に、程ほどに…』式の半信半疑

の信仰、『アーメン・ソーメンの儀式宗教信仰』ではないのですか?

  『偉い先生の教会に行っているから大丈夫』式の信仰や、『デッケイ教会に行って

いるから大丈夫サ』式信仰ではないのですか?

  烏合の衆的な基督者の在り方、ベタニヤ村の餌台に群がる雀の大群のように大勢の

信者たちの中に己を置いて安心感という錯覚に浸って、他人様のことはどうであれ、

主イェスへの自分自身の個人としての信仰の確立を怠って、「みんなで渡れば怖くな

い」式の「他人任せ主義」信仰では困るのです。  そういう人が多いのです。

 

  これは他人さまがいなければ自分自身では何もできないという中途半端信仰です。

どのような困難な状況の中に在っても自分一人で主の前に立つ、立てるという信仰上

の「個の確立」ができていない信仰、中途半端な信仰、生温い信仰、この世にも片足

を掛けておいて、もう一つの足で天国行きの保険をかけたようなご都合主義信仰では

駄目だと私は思っています。

  全智全能の主を完全に、全面的に信じる信仰が求められています。  人間の常識や

経験に基ずく信仰や、『まぁまぁ適当に、ほどほどに』式の信仰は完全に駄目です。

 

  あなたは『井戸が深過ぎてイェスさまでも無理でしょう』式の信仰者なのでしょう

か?  本当にあなたの一生涯をイェスに懸けた生き方なのでしょうか?

 

  水飲み場に飛来する野鳥や栗鼠の姿を眺めながら、サマリヤの女とイェスとの対話

を思いました。