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                        =イェスを裏切った弟子たち=

                    2003年4月18  八ヶ嶽南麓  野村基之

 

    聖書はそのことに就いて具体的に何も語ってはいませんが、殆ど二千年もの間、

教会は或る特定の時期をイェス・キリストの受難と復活の週日と定めて祝って来まし

た。

  まぁ、主イェスの降誕の日を1225日とか、1月6日か7日前後である…などと、

聖書が全く語っていない季節をあたかもイェス・キリストの誕生日であるなどと決め

てしまって、それを後生大事に守って来ている伝統と比べますと、イェス・キリスト

の受難と復活の時期を春だと推定することは全く根拠のないわけではありませんが…

 

    私どもの集会(エクレシア)では日曜日ごとに主の十字架上の贖罪の死と復活と

再臨を深く覚えて聖晩餐に与るようにしています。  然しこれも留意しないと儀式化

する危険性が多分にあります。  宗教儀式化したものには命がありませんから…

 

    聖餐に与る際に朗読する聖書個所は主としてコリント前書1123節〜29節です。

しかし時としては同1016節〜17節を用いたり、あるいはマタイ伝2617節〜29節、

マルコ伝1412節〜29節、ルカ伝22章7節〜21節を用いる時もあります。

 

    これらの聖句の中でもルカ伝2215節は聖晩餐を主イェス御自身が特に切望され

ていたものであることを窺い知ることができます。  殆どのプロテスタント諸教派・

諸教団・諸教会では聖晩餐を軽視したり無視したりしているようですが…

 

    今日は上記福音書の聖晩餐に関する描写個所に続いている一連の記録から、聖餐

にあずかった弟子たちがどのような姿勢なり態度を主イェスに対して執ったかを考え

てみましょう。  そこでは、弟子たちの姿の中に、実は主イェス・キリストに対する

私たち自身の恐ろしい程の薄情で移り気の姿勢や在り方を見ることになるのです。

 

    1.  上記のマタイ伝とマルコ伝の聖晩餐席上で、主イェスは弟子たちとの食事中

に、『お前たちの一人が私を裏切ろうとしている』と爆弾宣言をされました。

  その時の弟子たちの反応とは、『エッッ?!』という驚きの声ではなくて、『まさか

私ではないでしょう?』でした。  マタイ伝ではイェスをまさに裏切ろうとしていた

ユダですら『先生、まさか、私ではないでしょう?』と発言しています。

弟子たちそれぞれに何か疾ヤマしい弱さがあったのではないかと思わせる発言です。

 

    2.  ルカ伝の記録ではそのような発言に対してシモン・ペテロが勇ましく格好の

良い返事をしています。  『私は監獄にも死に到る迄も先生とご一緒します!』と…

  然しこれに対してイェスは、『ペテロょ。  一番鶏が鳴く迄にお前は三度に亙って

私とは関係がないと断言するだろう!』  33節〜34節です。

 

  34節以下で、普通の人が入れない筈の大祭司の邸宅の中庭にまで入り込んで、平然

と、然もぬくぬくと焚火にあたりながら、イェスに対する取り調べの状況を彼は逐次

目撃していたのです。  ついさっきまで自分が自分の命を捧げると迄デッカイことを

公言したペテロと、その彼がその生命を捧げた筈のご主人さまが取り調べを受けてい

る最中の光景です。  ここにも私たち人間の移り気を垣間見る事ができるのです。

 

  このようなことは普通の人間にはできなかった筈です。  それらの諸事実を考えて

みますと、ペテロという男は一筋縄ではゆかない、駆け引きに長けたしたたか者で、

相当に悪智恵も働き、損得勘定感覚にも鋭く、政治的にも或る程度は力のあった者で

はないだろうかと、私個人としては疑っているのです。

  そして57節〜61節でペテロはイェスが予告されたように『俺はこの男(=イェス)

を知らない』と平気で三度に亙り否定したのです。  これがイェスの弟子の姿です。

 

    3.  順序が多少前後しますが、ペテロのイェス否定事件の直前に、即ち聖晩餐が

終了した直後に、主イェスと弟子たちは讚美歌を歌いながらオリーヴ山に向かったと

マタイ伝2630節、マルコ伝1426節、ルカ伝2239節は語ります。

  ルカ伝の記録によりますと「イェスがオリーヴ山に〔いつものように〕行かれた」

と語っています。  マタイ伝とマルコ伝はイェスが祈る為に行かれたと語ります。

 

  オリーヴ山はパレスチナ中央部から南部を南北に走る山脈の一部で、エルサレムの

すぐ東側にある山で、三つの峰のようなものから成り立ち、聖地とされ、オリーヴの

樹木が生えているのでその名があるとされているそうです。

  エルサレム神殿から3百米程の距離にあるオリーヴ山には、神殿から一番近い所に

ゲッセマネという場所があります。  「オリーヴ油絞り」という意味だそうです。

  ルカ伝2239節〜40節はイェスが<いつものように>・<いつもの場所に着いて>

との表現があります。  イェスが好まれた祈りの場所であったことを窺い知れます。

 

  迫り来る十字架の重荷を前に、オリーヴ山のゲッセマネのオリーヴ園で主イェスは

「苦しみ悶えながら、血の滴りのような汗を流しながら、ひたすら祈り続けられた」

とルカ伝2239節〜45節は語ります。

 

  祈り始める前にイェスは弟子たちに対して、『誘惑に陥らないように祈れ』と命じ

ておられます。  マタイ伝26章もマルコ伝14章もルカ伝22章も「死ぬ程に辛い思い」

のイェスが『目を覚まして待て』と弟子たちに命じられたと記録しています。

  しかし、弟子たちは、自分たちの先生・ボス・親分が十字架刑にかけられる直前の

真剣な祈りの時だというのに、目を覚まして待てとも命じられていたのに、熟睡して

しまっていたのです。

 

  真剣に祈られたイェスが弟子たちの所に戻って来られた時にイェスは熟睡する彼等

の姿を発見されたのでした。  ここにも弟子たちのイェスへの真剣な関わり方の欠如

を見ることができます。  そして弟子たちの姿の中に私たちは私たちの実像を発見す

るのです。  私たちのイェスへの拘り方も似たり寄ったりではないのでしょうか?

 

    4.  マルコ伝1443節〜46節やルカ伝2247節以降では、十二弟子の一人、会計

担当のユダが群衆と共にイェスに近づきイェスに接吻し、それを合図にイェスは捕ら

えられたのです。

 

  マタイ伝27章2節〜10節は、自分の師を銀貨三十枚と引き替えで裏切ってしまった

会計担当者のユダが後悔の後に首吊り自殺を遂げたと簡単に記録しています。

 

  私たちも神さまから託されている財宝、健康、時間、才能、などを正しく活用して

神さまのご用の為に、神さまのご栄光の為に用いていると言い切れるのでしょうか?

  それとも結果的に悪魔に折りを与え、悪魔を喜ばせるようなことを日々の生活の中

で無意識に、習慣的に繰り返しているのではないでしょうか?  いろいろと実しやか

な理由をつけて言い訳をしていますが、日々の生活の中で神さまを裏切っているので

はないのでしょうか?  それでいて、何気ない顔をして、時には思い出したように主

イェスさまの前に出て、み顔に接吻して、あたかも『神さまを愛してます!』などと

嘯いて、神さまと自分を偽っているのではないでしょうか?

 

    5.  十字架上での処刑現場に弟子たちは立ち会っていたのでしょうか?

  マタイ伝27章にも、マルコ伝15章にも、ルか伝23章にも、ヨハネ伝19章にもイェス

の処刑現場の描写がありますが、その現場にイェスの十二弟子たちが臨席していたと

いう証言がないのです。これは実に恐ろしい事実の記録です。

 

  立ち会っていたのは、マルコ伝15章の40節〜41節によりますと、全員が女性だけで

あったようです。  主イェスによって慰められ、励まされ、罪を赦された女性たちが

中心であったようです。

  マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセフの母のマリヤ、またサロメなどガリラヤ地方

で主イェスに従い仕えた女性たちでした。  その他にもイェスに従ってエルサレムに

上って来た女性たちも多くいたと記録されていますが、男性の弟子たちに関する証言

はありません。

    ヨハネ伝1925節の記録によれば、主イェスの母マリヤ、母の姉妹、クロパの妻

マリヤと、マグダラのマリヤが「イェスの十字架のそばに佇んでいた」と記録されて

いますが、ここにも弟子たち=男性に就いての言及はありません。

 

  聖晩餐の席上であのようなデッカイことを公言したペテロを初めとして、男性たち

が全く記録されていないのです。  彼らが自慢していた「イスラエルを救う筈の師」

と信じていたイェスが処刑されるとなると、実は、男たちは蜘蛛の子を散らすように

一斉に逃げ出して隠れていたのです。  ヨハネ伝2019節で恐怖心に満たされた弟子

たちがガリラヤ湖に戻り、自宅に潜り込み、表戸を固く閉めて、じっと身をひそめて

いた姿を見いだします。  彼等の恐怖心の一端を窺い知ることができます。

 

    6.  ルカ伝2413節〜21節には、弟子たちの内の二人が十字架の処刑現場にいる

事を怖れてか、エルサレムを脱出してエマオという小さな村の方に逃亡して行く姿を

捉えています。  どうやら彼等は十二弟子の外にいた外郭的弟子たちではなかったの

かと私は思っています。  18節には彼の名がクレオパであったと語っています。

ヨハネ伝1925節に出てくるクロパという男がこのクレオパではなかったのかという

説もありますが聖書は何も語っていませんから憶測の域を出ません。

 

  それよりも肝心なことはクレオパの発言でした。  時はエルサレムで大きな祭りが

営まれていた時で、当時の世界中からユダヤ教徒たちがエルサレムに集まっていまし

た。  祭りの期間中には数十万人も集まっていたのではないかと説く学者もあります

し、百万人前後は居たのではないかと説いていた学者もいたように記憶しています。

  そのような大きな祭りの最中にイェスが処刑されたのですから、イェス・キリスト

の十字架の処刑という大事件を知らない人はなかった筈だったのです。

  クレオパは言いました。  『あんたさんはエルサレムに留まっていながら、十字架

の処刑の大事件の事を本当にご存知ではないのですかい?』と驚いた様子で見知らぬ

男=(復活したイェスです)に半ば呆れたような、半ば見下げるような口調で語った

のです。

 

  『おいらはね、あの男こそ長いことローマに占領され、虐げられて来たおいらの国

イスラエルを救ってくれるに違いないと信じてたんですょ。  あのナザレ出身の人は

ね、預言者でね、神さまと沢山の人々の前で、その行いにも言葉にも力のある人だと

信じて来てたんですょ』…『ところがでっさね、役人どもに簡単に取っ捕まってさ、

十字架の上であっけなく殺されてしまったって訳ですょ。  そして今日で三日目なん

ですょ。  あんたさんは本当に呑気なお方ですね。  何もご存知ないなんて』

  このクレオパは、話している相手が復活されたイェスだとは知らないので、総てを

<過去形で語っている>のです。  希望を失った者の幻想だったというわけです。

 

  自分に調子の良い時だけイェスを信じておいて、主イェスを信じることが少しでも

自分に不利に働くと直感する瞬間にはイェスをいとも簡単に捨て去ることができる、

そのような身勝手な、ご利益宗教的なイェス理解をしていたのです。

  聖晩餐の席上でイェスに大口を叩いたペテロが、次の瞬間にはイェスを知らないと

断言したのと本質的に少しも変わらない姿勢です。  私の信仰と同じなのです。

 

    7.  マタイ伝21章では、驢馬に乗ってエルサレム城に入城される主イェスを群衆

は、自分たちの上着を脱いで道に敷いたり棕櫚の枝を切りとって道に敷くなどして、

『ダヴィデの子にホザンナ!』(救い給えとか万歳の意)と叫びながら迎えたと記録

しています。  街中が『ガリラヤのナザレ出身の預言者イェス』とも叫んだのです。

 

  その同じ群衆が、少し後には、主イェスが捕らえられた時、マタイ伝2722節以下

の記録や、マルコ伝1513節〜14節、ルカ伝2321節〜23節等の記録によりますと、

ローマの占領軍総督ピラトに対してイェスのことを一斉に叫んで『十字架に架けよ』

と絶叫したのです。  群衆とはそのように移り気で無責任な鳥合の衆なのです。

 

  バグダッドが陥落する直前までイラクの人々は、脅かされているとはいえ、独裁者

サダム・フセインを褒め称えて『我らの血も命も捧げます!』と絶叫していました。

  ところがバグダッドが陥落するやいなやサダム・フセインの銅像を倒してその上に

乗ってサダム・フセインを罵ったのです。  群衆とはそういうものなのです。

  そして今度は『ヤンキー・ゴーホーム』と叫び始めているのです。

 

    8.  使徒行伝二章には教会・エクレシアの誕生が記されています。

いわゆる五旬節=ペンテコステの日に聖霊が下って教会が生まれたのです。

 

  教会の最初の説教が14節〜36節までに力強く描かれています。  宗教的訓練・神学

的教育の全くなかったという意味での「無学のただ者」(使徒行伝4章13節)だった

ペテロとイェスの弟子たち十一人が大胆な説教を堂々と繰り広げて、エルサレムの民

が『十字架に架けよ』と叫んで死に追いやったイェスを神がお立てになって、人々の

主となし、油注がれたキリストとされたと説教したのです。

 

  教会誕生勅語のこの説教を聞いた群衆は再びその心を翻し、「悔い改め、罪の赦し

を得るためにイェス・キリストの名前によってバプテスマされ、聖霊の賜物を受け、

曲がった世界から救われた」と37節〜40節は語り、更にその日の内にバプテスマされ

てエクレシアに加えられた仲間が、男性成人だけで三千余人もいたと41節〜47節は語

ります。

  このように、いわゆる受難週の前後から、いわゆる復活節までの間にエルサレムの

人々は右往左往し、イェスを褒め称えたと思えば次にはイェスの十字架の上での処刑

を容認してみたり、それから一ヶ月半も経つと今度は再びイェスが神の子で救い主だ

と信じた…と聖書は語っています。  目まぐるしい移り気を物語る一ヶ月半です。

 

  私たちは、それでは、これらの群衆やイェスの弟子たちを嘲笑できるとでも言える

のでしょうか?  できない筈です。  私たちの信仰というものも、実は不確かな要素

を一杯に抱え込んでいるものだと思うのです。  悔い改めが必要なのは私たちです。

 

    『我こそはキリストの直弟子だぞっ!』などと息巻いていた者たちですら

    主人であるイェスを裏切ったり見捨ててしまったという事実を考えてみた。

      人とはそのように平気で移り気し、主を捨てる、身勝手なものである。

 

            然し、テモテ後書2章11節〜13節は次のよう断言する。

 

  『若し私たちが、キリストと共に死んだのなら、彼と共に生きるようになる』

            若し堪え忍んでいるなら、彼と共に治めるようになる。

            若し彼を否イナんだなら、彼もまた私たちを否イナまれる。

                私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。

              彼にはご自身己を否むことができないからである。』

 

  そういう弟子たちや群衆がほんとうに創り変えられていったのは、彼等がイェスの

復活という事実に当面してからだったのです。  コリント前書15章でパウロはその事

を謙虚に、然も自信に溢れて告白しているのです。  十字架と復活と再臨、私たちの

いのちと希望の源なのです。  教会の存在理由と宣教目的でもあります。

              主の復活を心から感謝し、讚美いたします。

 

        人生辛酸  神愛溢豊  堅立不動  常注全力  誠勵神業  神必報勞