《己の十字架を担いイェスに従うということはどういう意味なのか?》

 

    『人もし我に従ひ来らんと思はば、己を捨て、己が十字架を負ひて我に従へ』

(マタイ伝1624節)という聖句はクリスチャンと自称している者であればほとんど

誰でも「頭では」知っている筈です。

  それと同じように、上記ロマ書3章23節の聖句も「頭では」知っている筈です。

自分がただ恩寵によってのみ救いに与り得ているのだ…ということも知っています。

  それはコリント後書5章21節の有名な聖句も同じで「頭では」知っているのです。

 

  しかし、それでは私たちの日常生活にあって、その万分の一でも実行しているのか

となれば、話は全く別のことだと思いますが如何でしょうか?  その本当の答という

のは私たち自身が一番よく知っている筈です。  人間の行為や努力で救いを得たので

はなく、神さまからの一方的な恩寵によるのだと、それは「頭では」十二分に知って

いるのです。  しかし、実際生活において己を捨てて十字架に従っているなどと自信

をもって、大きな顔をして言える者など一人もいないのです。  これが現実です。

 

  上記ピリピ書で使徒パウロは、かつて自分が基督者でなかった時には、生命よりも

大切であると考えていたことを、イェスを知った今では、それらを塵埃・糞土の如く

に思っている…と告白しています。  話としてなら使徒パウロのこの発言を私たちは

嘉としているのです。  しかし実際に自分のこととなれば「No!」となるのです。

 

  上記マタイ伝1921節の聖句でも、富める宗教青年、恐らく神学生か牧師候補生が

誇らしげにイェスに『俺は聖書に書いてあることは総て実行していますょ』と語って

います。  それに対してイェスは、『それならお前さんの持っている財宝を全部売り

払って貧しい人々に施せばどうなんだい?』と問いかけました。

  多くの財宝を持っていた青年は悲しい顔をしてイェスの下を去ったと聖書は言いま

す。  ここまでなら私たちも『そうだ!そうだ!』と青年を揶揄するのです。

  しかし、その青年が実は自分自身であるとか、その青年のように持っている財宝を

売却して貧しい人々に別け与えられるのかとなれば、答は同じく『No!』なのです。

 

  上記ヘブル書1032節でも「信仰の故に耐える」必要があると聖書は語ります。

その箇所を読んでいる限りは『アーメン、主よっ!  ハレルヤッ!』でしょう。

  でも実際に耐えられるような信仰生活を日々実践しているのかとなれば、これも亦

No!」ではないのでしょうか?  こんなにも物質的に便利で豊かになってしまった

現在の日本人に不平不満は並べられても自らの決意で耐えるということは不可能なの

ではありませんか?

  新潟中越地震の被災者の多くの在り方と、先の太平洋戦争中の体験とを重ね合わせ

て見ますと、脆弱で他人任せ、自発性・自主性や創造性や忍耐力に於いて欠けている

と私には思えます。  神さまの為に耐えるということも、それが自分のことだとなる

と答は同じように「No!」だと思います。

 

  その具体的な例が上記コリント後書9章7節の言葉でしょう。

私たちは神さまにはほとんど何も捧げてはいないのです。  時間も能力も財産も…

 

  「イェスの十字架を喜んで背負って、喜んで主イェスに従う」など、大抵の場合、

それは「真っ赤なウソ」なのです。  そうではありませんか?  仕えるということ、

これは命懸けでやるべき、やり甲斐のある、やってみるに価値のある、真剣な戦いで

あると思います。

 

  神さまの名前を使って自称他称のクリスチャンたちが集まって「教会ゴッコ」なる

ものを行うことは、神さまに対する最大の侮辱、冒涜とも通じることではないのかと

私はしばしば思います。  それは神さまを欺くウソにも通じます。  しかし主イェス

さまの目には私たちの小細工的なウソは残念ならが通じないと思うのです。

 

  「教会ゴッコ」は、日々の生活の中に於ける真剣な霊の闘争が営まれていないこと

を適当にごまかしたり繕うためのものではあり得ないはずだと思います。

  そのような余りにもお粗末な代用品を主イェスが喜ばれるわけがありません。

ヨハネ伝4章23節で主イェスは『神は霊なれば、拝する者も霊と眞をもて拝すべきな

り』とおっしゃっています。

 

  十字架を背負って主イェスに従うということは私たちが「頭で考えているような」

安易なものではなく、いたずらに『主よっ!  アーメン、ハレルヤッ!』などと絶叫

するようなことでもなくて、日常の生活の中で神さまのお助けを得て、恩寵の中で、

真剣に求道して行く筋合いのものだと思うのです。

 

  ガラテヤ書2章20節に明記されていますように、それは、日々の生活の場で自分を

十字架に架ける厳しい作業です。  それを恩寵によって受け止め、感謝と喜びとして

捉えるという作業だと思います。  「教会ゴッコ」とは全く無縁のことです。

 

  主イェスが自ら設定して下さった主の食卓(週報では字数の関係で「聖餐」として

いますが本来は主イェスが招いて下さっている聖なる食卓、聖なる食事のことです)

に私たちが与る時、改めて私たちの偽善を悔いて十字架の前に主に贖われた者である

ことを感謝したいものです。  如何なものでしょうか?