《結婚式司式者として個人的に思っていたこと》

 

  一般的に西欧諸国に端を発したとされている現在の結婚式の基本的な考え方は、

まず結婚式そのものが花嫁を称え、それまで花嫁を慈しみ育てて下さった花嫁の両親

への感謝を表し、すべてのことを可能にして下さった神さまの恩寵を覚えて神さまを

讚美するためであると理解して良いのだろうと、そのように私は考えています。

  あるいは、ひとことで言えば、「結婚式は花嫁のため」と捉えて良いだろうという

ことでしょうか。  そしてそのうしろに両親と神さまがいらっしゃるのだと…

 

  そのために教会堂の中央通路を花嫁が歩く距離が長ければ長いだけ良いのです。

残念なことに、狭い我が国では大きな教会堂を建てるということは至難の業です。

欧米のように花嫁が歩ける長い通路を備えた教会堂はほとんどありません。

 

  そのために、行進する時間を可能な限り長く伸ばせるようにと、花嫁と父親が行進

する時の歩調を不自然なものに強いるのですが、普段の生活で慣れていない歩み方を

ほとんど充分な練習なしで要求するのは酷なことであり、また極度の緊張状態の中に

ある行進者がよくできるわけもありません。  申し訳ないことだと考えています。

 

  行進のむつかしさはさておいて、新しい魂がお母さんの胎に宿った瞬間から、花嫁

として花道を歩く今日までのために心を砕き、愛を籠め、慈しみ育てた両親を代表し

て、一家の主として、父親が花嫁を護りながら、また、自分の人生の最高の傑作品で

ある娘を、自信と誇りをもって、神と会衆との前で、花嫁を待つ花婿の所へ案内して

一緒に行進するのです。

 

  『皆さん、そして神さま、ご覧下さい。  今から20年なり30年も前に私ども夫婦に

神さまが託されたあの時の可愛い幼子が、その後こん日に到るまで、神さまと会衆の

皆さんの愛と助けに守られて、このように美しく奇麗な花嫁となれたのです。

  私ども夫婦は神さまと皆さんの助けを得て、ここに私どもの親としての責任を終え

ようとしています。  ここから先は、花嫁を待つ新郎の手に娘を委ねて二人で新しい

人生を娘が始めようとしています。  娘が選んだ新郎に娘をバトン・タッチしようと

しております…』  これが娘を伴って歩む父親の心を表す行進の意味です。

 

  それと同じように、両親の愛にはぐくまれて成人することができた娘である花嫁も

万感の想いと祈りと希望を胸の中に秘めて、自分が選んだ人生の伴侶、自分を待つ人

に向かってまっすぐに行進して行くのです。  これが行進の意味だと私は思います。

 

  また、花道を父親と、あるいは父親代わりの男性と共に歩む花嫁の前後には、通常

欧米ではメイド・オヴ・オーナー Maid of honor「名誉の乙女」(複数形が多い)が

歩みます。  花嫁が選ぶ名誉の乙女たちが、四、五人となることもあります。

 

  私が司式する式の多くの場合には、花びらで満たしたバスケットを可愛い低学年生

のお嬢さんに渡しておいて、花びらを花道に撒きながら歩いて貰っています。

  同じように、小学低学年生男児か幼稚園男児に小さなベルを持たせて歩いてもらう

こともあります。  今回は候補生の男の子が恥ずかしがって起用できませんでした。

  メイド・オヴ・オーナーを最低一人は確保しておきます。

花嫁のドレスの裾を直したり、指輪交換の時には花嫁が手袋を脱ぐのを手伝ったり、

手袋や花嫁が手にしている聖書なりブーケを預かる役目を果たすためです。

 

  今回は花嫁のお母さんにその役をお願いしました。  ご両親に花嫁の前後を固めて

頂き、自慢の娘を花婿に届ける役を果たして頂き、一つの節目と致しました。

  娘を胎内に宿してからこん日に到るまで、自分のすべてを犠牲にしても、信望愛を

抱いて忍耐強く育てあげて下さった母親に勝るものはこの世にあり得ないと思えば、

娘を連れて行進する夫のうしろから、娘のうしろから、花嫁のドレスの裾に気を配り

ながら母親が黙々と歩いて頂くのが相応しいことだと考えました。  花嫁の母親にも

夫と同じような気持ちで行進して頂けると考えたからでした。

 

  さらに、花嫁を立派に育てて下さったご両親を代表して、一家の主として、父親の

承諾を得てから結婚式が始まるようにしていますので今回もそのように先ずお父さん

の許可を求め、承諾を得てから式を進行しました。

 

  式辞というのがありますが、これは簡単に結婚の式の意義を説明しただけにとどめ

ておきました。  『聖書が書かれた天地創造物語の中で最初に出てきた大切なものは

神が人を男女に創り、神の代わりに神の創られたものを治めることである』という点

と、創られた男女は平等であり、対等の者であり、共に神に仕える者である』と語り

ました。  『神が最初に与えられた制度が結婚であったことをよく吟味し、おのおの

恭しくこの祝された新しい共同作業としての人生の第一歩を踏み出すべきである』と

結びました。

 

  聖書箇所は、創世記2章18節~24節を、あらかじめ式次第に拡大印刷しておきまし

た。  会衆にはそのことを伝えて、会衆と共に読むようにしました。

 

  『人が独りでいるのは善くない』という意味を説明しました。

「助け手・ケネグド」というヘブル語の意味を漢字の「人」という字をも用いながら

説明しました。

  すなわち「ケネグド」という言語の意味は、極めて双方がよく似ている存在である

にもかかわらず全く異なった存在であり、全く異なった者で双方がありながらも殆ど

同じものである…お互いがお互いの足りないところを満たすことで一つとなる、一つ

になれる」というような意味であると、「助け手」の意味を説明しました。

 

  次に、「物」というものが人の心を満たさないという19節~20節を説明しました。

アダムはそれぞれの動物が愉快で面白いものであると認識しましたが(=名をつける

ことで)、モノが人にとって相応しい相手ではないと認識したということです。

  物質が提供する快楽と、人が他者との関係において他者から賜物として与えられる

幸福とは全く違うという意味です。  それがどんなに便利であり、愉快であり、楽な

ものであっても、モノが人の代わりを務めることはできないのです。

  物質がありあまっている日本人や米国人には、この単純なことが理解できない状況

の中に押し込まれていると思います。

 

  そして、21節~23節のヘブライ語の語呂合わせ、イッシュとイッシャ(漢字ですと

無味乾燥の「男」と「女」としかなりませんが、前述の「助け手」と同様に実に深い

意味がある言葉なのです。  動物とは違い、「人の助け手は他者でしかあり得ない」

と認識したのでした。  そして「これぞ肉たちの中の肉!、骨たちの中の骨だ!」と

絶叫したのです。  神が人に与え給うた最大の贈り物の一つは「他者」なのです。

「永遠の命を共に継ぐ助け手」つまり「相棒」「ベター・ハーフ」なのです。

 

  そして19節の「土=アダーマ」と「アダーマとアダム」の微妙な語呂合わせが抱く

深長な意味を説明しました。誓約がありました。  新郎が私ども夫婦の祈りの結晶で

あったため、心を籠めて質問をしました。

 

  新郎の誓いのあと、次は花嫁の番です。

新婦の名が「美奈さん」ですので、まず花嫁に質問と誓約をして頂いたあとで、会衆

一同という「皆さん」には「ゴッド・ファーザー」と「ゴッド・マザー」の歴史的な

意味を説明しました。  それは次のようなものです。

 

  イタリア・マフィア映画の日本上演から知られるようになった単語ですが、本来の

意味はヤクザに全く関係がないもので、教会で行われる結婚式に列席している出席者

全員が、あるいは式に関与した教会全体が、神の名によって合わされて挙式に到った

新郎新婦とその家庭に対して、結婚後どのようなことが生じても、参列した者たちが

あるいは教会が、その夫婦と家族に対して全面的に責任を負うという決意を結婚式に

参加することで自覚し、神の名を使ってそのことを参加者全員が神に誓うという慣習

から出てきた言葉です。

 

  千年ほど前から神の名を悪用した十字軍の遠征というのが欧州全土を覆いました。

その後も酷い戦乱は絶えませんでした。  疫病も猛威を振るっていました。

そのたびに多くの貧しい若者たちが犠牲になりました。  教会は教会で結婚式を挙げ

た家族の面倒を見る必要が生じて来ました。  そのようなことから、結婚式の参列者

全員が新郎新婦とその家族に対してゴッド・ファーザーズ、ゴッド・マザーズとなる

ことを意識し、残された新郎新婦の家族の面倒を相互に顧みたのです。

 

  結婚式に参加する者たちの特権と責任を結婚式席上で参列者一同に司式者も教会も

説明をしないというのは、キリスト教の名を利用し、神の御名を用いてまで、そして

結果的に神の名を騙ってまで、結婚式を営利専念主義の手段として用い、最も神聖で

あるべきものの一つである結婚式を形骸化・形式化させているかということです。

  実に残念なことですが、多くの教会が無知からそのような冒涜行為の片棒を結果的

に担いでいると私は思います。  教会がどんなにか堕落したものとなっているのかを

具体的に示していると私は考えています。  これは「余言者」の「余言」ですが…

 

  次に指輪交換と結婚届署名がありました。

通常ですとその直後に花婿が花嫁のヴェールをめくり上げる場面があります。

  一応そのことを会衆一同にも聞こえるような方法で当事者二人に訊ねました。

二人は照れて辞退しましたが、会衆の求めと拍手もあって、花嫁の頬にキスすること

となりました。  短過ぎて撮影者たちの求めがあり、照れながら繰り返しとなりまし

た。  このようなわけで、指輪交換、結婚届署名、そしてその後の微笑ましい三つの

場面では撮影者に配慮をして時間をかけました。

 

  夫婦であることを宣言した後で司式者が祈祷を捧げました。

祈りの中で、人間社会に於いて重要なことがらには、たとえば学校に入学する時や、

不動産を購入する時や、金銭の授受のような場合には、署名捺印をして正式な文章と

するのが常識であるのに、人生で最も大切な結婚に於いては、どういうわけか署名を

しないで、口約束だけを交わして成立することを述べ、人と人との破れ易い口約束を

神と会衆の前でした以上、誓約を誠実に実行するためにはどうしても神の助けが必要

であるので、神の導きと護りを願う…ことを述べて祈りました。

 

  そのような願いを籠めた祈祷ののち、当事者たちの希望で花嫁花婿だけの退場をせ

ず、全員でジョン・ニュートンのアメージング・グレイスを日英両語で讚美し、感謝

の閉会祈祷で終了しました。  この場合の日本語訳は、聖歌 229番ではなく、讚美歌

第2編 167番(渋谷の原恵氏訳文)を用いました。  式次第に印刷しておきました。

 

  閉会後にいろいろな組み合わせで参加者各自が自由に写真撮影を行いました。

 

  水戸キリストの教会伝道者小幡幸和先生には沢山のご配慮を頂き感謝でした。

  さらに、同教会堂の使用をご許可下さった長老たちやお手伝いを賜った男子会員の

皆さまにも感謝を表したいと思います。

 

  またさらに、教会のご婦人たちが中心となって讚美歌をコーラスで歌って下さった

ばかりではなく、いろいろなお心配りを頂き、後片付けをも黙々と奉仕して下さり、

感謝でした。

 

  そして、二人を導いて下さった神さまには、もちろん、心から感謝を捧げます。

参列された花嫁側のほとんどの方々にとって、キリスト教会での結婚式に出席なさる

のは、おそらく初めてのことであったかと思います。

  いわゆる「キリスト教式」というベルト・コンヴェアーに乗ったような形式的なも

のに出席なさった方々があったかも知れませんが、今回はなごやかで楽しい雰囲気の

うちにも何かしら違った、意味深いものを感じて頂けたらありがたいと、そのように

私は意識し、また、そのように祈りながら司式をしたつもりでした。

 

  新郎新婦にとって、また、式に参加して下さった40余名のすべての方々にとって、

結婚式という人生の大切なひとつの節目を、私たちが神さまのお名前を使って営なん

だということに何か特別な意味を身近にお感じ頂けたら、そして神さまの恩寵の導き

を肌で感じて頂けたら感謝であると願いながら司式させて頂いた次第でした。

  新郎新婦も緊張していたことと思いますが、司式者自身も緊張し、充分にその務め

を果たし得たかどうか疑問ですが、あとは神さまの赦しを乞う次第です。

 

      《人生辛酸  神愛溢豊  堅立不動  常注総力  誠勵神業  神必報勞》