《私を贖う者は後の日に必ず地の上に立たれる》

                            =ヨブ記1925節=

 

  20年前に世田谷から当地に入植して来た頃と比べると暖冬化していることを実感

します。  深夜立ち樹の内部が凍結してパシッという音を立てで凍裂するのを初めて

知ったものですが、そのような音を聞かなくなりました。  大雪が降った後の積雪が

5月の連休直前まで残っていたこともありましたが、そのようなこともなくなりまし

た。  零下18度前後まで下がった外気温がせいぜいで零下11度前後止まりです。

 

  それでも冬は冬です。  地面はコンクリートのように凍土となります。  年末に

は老犬シンディーが死んだものの凍土のために墓を掘れないので往生しました。

  そんな標高千五十メートルの当地です。  今日の午後、少しの時間だけでしたが、

犬どもと山中を散策しました。  朽ち果てた倒木の樹皮と幹との間に落ちたドングリ

を見つけました。  よく見ますと殻が割れて芽が出ています。  そして殻の下側には

若い根が朽ち果てた倒木の内部に向かって伸びようとしているのを発見しました。

 

  一種の感動を覚えました。  復活の希望のしるしを発見したからです。

どのように枯れ果てて、凍土化していても、どのように冷たい積雪の下であっても、

どのように圧雪に押され続けていても、堪え忍んでいた小さな生命が殻を打ち破って

芽を出そうとしていたのです。  讚美歌 291「主に任せよ」の歌詞を思いました。

 

  詩編7324節には『のちの日に到って栄光を受ける…』とダヴィデは語っていま

す。  同じように上述のヨブ記1925節にも『のちの日に、地上に立たれる主の御姿

を私の味方として私の目は必ず見る』と、想像を絶する苦境の中からヨブは主の復活

と再臨を確信して述べています。

 

  主イェスの復活と再臨は、凍土のよに厳しいこの地上の私たちの辛酸な生活の中

で、私たちに慰めと憩いと希望を与えてくれるのです。  この人生の中で最も大切な

こととは、問題多積のこの世に老いてまで生き永らえることではなく、いつ朽ち果て

るかも知れない地上の上の金銀宝石にしがみついてまで生きようと無駄な努力を続け

るのではなくて、永遠への復活の希望、神との永遠の生活への確信の希望を自分自身

の確かなもの、一番大切なものとすることだと思うのです。

 

  『私は主を知ろう。  切に主を知ることを追い求めよう。  主は暁の光のように

    必ず現れいでて、大雨のように私に臨み、のちの雨のように地を潤される』

                            =ホセア書6章3節=