「歴史的にみたキリストの教会とは」

                        八幡山基督之教会    野村基之

 

  30年も前に、私がロスアンジェルスの日本人教会であるウエストサイド基督之教会

に奉仕していた時、キリスト新聞社のキリスト年鑑に私たちの『キリストの教会』の

簡単な歴史的背景の紹介文を書きました。

 

  その後、有楽器派の内のどなたかが一部の語句を修正して下さいました。

  更に1962年版以降で、大阪聖書学院や宣教師たちを中心に纏まっている有楽器教群

から別れ出た、六つの教会から構成されている『基督教同盟』というグループが自分

達のグループの設立と存在を年鑑に補足追加され今日に及んでいます。  この基督教

同盟は主して旧カニングハム師の四谷ミッシヨン系の教会で働いて、太平洋戦争開始

時には、カニングハム夫人の信仰と意志を無視して、基督教会弾圧目的で当時の政府

の指令で設立された日本基督教団に加盟する時の中心人物と言われている或る牧師が

中心になって、戦後の有楽器派教会とその宣教師たちから相当な土地財産を入手して

独立、聖書復帰と一致運動を唱える有楽器派主流派と絶交したグループのことです。

  このグループの牧師たちは、『自分達はいつまでもアメリカの宣教師に隷属せず、

この国の風土に更に適した土着教会を目指しているのだ』と主張されています。

 

  その他に、私たちの聖書復帰・一致運動関係教会の外側の何人かの歴史家が、あの

拙文を用いて、私達のキリストの教会の大体の歩みを彼等の本で紹介されています。

何しろ「俄か歴史家」が書いた拙文です。  不充分な点をお気付きになった方は是非

お知らせ下さるように、教えて下さるように、お願いを致します。

 

  さて、他のどのような運動でも同じですが、宗教的な運動もその運動が起って来た

環境や背景と決して無関係ではありません。  突然ひとつの思想を持つた運動と言う

ものが天から降って湧いて来ると言うことはあり得ないのです。  聖書復帰運動とか

クリスチャンの一致運動とか新約聖書回帰運動と私達が呼んでいるものも同じです。

 

  新約聖書と言う苗床の内に播かれた新約聖書教会の種は二千年の教会と世界の歴史

の内で揉まれて育って来ましたが、その成長過程で初代原始教会の姿から随分と変質

し、変形し、離脱してしまいました。  その弊害が次々と出て来るに従い、神は新約

聖書教会に戻ろうと訴える一つの運動を18世紀から19世紀にかけて旧世界や新世界に

起されたのです。  私個人の見解ですが、私たちの聖書復帰・一致運動も、基督教会

二千年の歴史の内に絶えず流れ続けている宗教改革運動、宗教革命運動、聖書一本槍

運動の一つと理解しています。

 

  宗教改革と言いますと、せいぜい、マルチン・ルッターがローマ・カトリック教会

から独立したぐらいにしか一般的に考えられていませんが、教会史を少し努力して、

注意して読めば、教会二千年の歴史と言うものは新約聖書に啓示されている教会本来

の姿からの離脱と堕落の内にあって、絶えず聖書に明示された新約聖書教会の単純な

姿に戻ろうとする少数派の聖書信仰厳守の死闘史でもあると言うことがわかります。

 

  残念ながら一般教会史の教科書や参考書においては、目立たないそのような動きを

無視するか、或いはいとも簡単に『異端』として扱うだけなのです。  余談になりま

すが、英国で出版されている E.H. Broadbent 著の The Pilgrim Church などはその

点でそれらの少数良心派を実に克明に追及している珍しい本だと思います。  邦語訳

がありますが、折角ですが、素人たちの悪翻訳で、著者の意図するものが軽視されて

いるのが極めて残念です。  伝道出版社・古賀敬太監訳「信徒の諸教会」\2,500

 

  私たちが天国に行けば、私達が全く聞いたこともない無数のおびただしい聖徒達で

一杯だろうと思います。  これも教会史を学ぶ折に与えられる喜びの期待のひとつで

す。  18世紀後半の独立まだ間もない新大陸アメリカの政治、経済、宗教、道徳など

は混乱の内にありました。  英仏戦争や独立戦争など、比較的短期間の内に新大陸を

舞台にして起った三っの戦争は若い米国社会に道徳的退廃を招いていました。

  人が人をお互いに殺し合ったのです。  最近ではひと昔も前のことになりますが、

ヴェトナム戦争後のアメリカ社会に私達は同様の現象を見たと思います。  殺し合い

の戦いが終った翌日から人々の心が正常に戻る訳ではありません。  戦争後の何年も

何十年もの間、人々の心は殺伐としていました。  戦争と敗戦を経験した日本でも、

私たち自身はそれらのことを嫌というほど体験したのです。

 

  無神論や理神論は欧州から新世界アメリカを襲いました。  形式主義に陥った英国

国教会の宗教的独裁体制は新世界に混乱を生み、信仰の自由を求めて欧州から苦難の

移住を強いられてきた移民達に宗教的自由を更に渇望させました。  イングランド、

スコットランド、更にアイルランドからやって来た各種各派の長老教会やメソジスト

教会でも意見や見解の些細な違いからお互いの存在を認めようとはせず、対立や分裂

や破門を繰り返していました。  どの教派の教会も低調でした。  そして開拓者達の

心は乱れていました。  このあたりの状況は、日本でも邦訳され、一般教会史として

入手し易いケアンズ著の基督教全史の3537章にも紹介されています。

 

  そのような状態の中で1700年初めから半ばに新大陸で宗教的大覚醒運動、いわゆる

熱狂的リヴァイヴァル運動が起りました。  然し残念ながらその運動の中心的教派の

神学であった極端なカルヴィン主義神学とアルミニウス主義神学は更なる非合理的、

非聖書的で好まざる結果を生み、教会の分裂と対立の溝を深めるばかりで、新生米国

教会の混乱に拍車をかける事となりました。  聖書の誤用や軽視、聖霊の非聖書的な

体験要求やそのような理解、入信時の熱狂的な霊的体験の要求や各教派の非聖書的で

人為的な信条の強要、聖職者層とその組織の横暴さなどが結果的に常に目立つのでし

た。  聖書の教え、特に新約聖書に神が啓示された単純明快な教会の在り方を、教会

自身が忘れる時に、教会が新約聖書の教えから離脱する時に、限りない堕落と悲劇が

主イェス・キリストの教会の内に生れるのです。  二千年に亙る教会史の学びの目的

の一つは、そのような厳粛な事実の羅列を学ぶことにあるのです。

 

  この悪弊の内から神は新大陸に相応しい運動を欧州と新世界で用意されていたので

す。  特にイングランド、スコットランド、アイルランド、そして新大陸各地(当時

の移住民はアパラチア山脈以東が中心)のプロテスタント各教派の内から、自然に、

しかも同時に、主のみからだである教会が教派に分裂して対立することは罪であると

理解した人々が出始めたのです。  それぞれが新約聖書の単純な教えに戻って一致し

よう、主イェス・キリストとその愛に在って一致しようではないかと訴え始めたので

す。  そのためにこの際、人為的な教派名、教義、組織、信条等を一切お互いに放棄

しよう、そして教会とクリスチャンは新約聖書で一致しようと叫び始めたのです。

 

  聖書を静かに読んで、聖書の語るところを語り、聖書の黙するところは黙しよう、

本質的な点では一致 (unity)を、意見においては自由 (liberty)を、その他のすべて

の面では愛 (charity)を、これは英語の語尾の「〜ty」の語呂合せですが、このよう

なスローガンによる基督者の一致運動、新約聖書教会への回帰運動、新約聖書教会の

復元運動を提案したのです。

  この実に画期的な訴えは、自由と独立を謳歌する新大陸の開拓者たちの間で爆発的

な人気を呼ぶ運動へと成長して行ったのです。  開拓者らが出て来た旧世界での権力

と癒着した教会と、その位階聖職者制度の上にどっしりとあぐらをかいていた聖職者

たちに対する根強い不信感と反発心もあったことは否めないでしょう。

 

  詳細は紙面の都合で省略しますが、千八百年頃から始まったこの同時多発的で自然

発生的運動体を人々は『19世紀宗教改革』と呼び、それはマルチン・ルッターやその

他の16世紀宗教改革家達が達成できなかった分野に迄も踏み込んだものでした。

 

  当時の新大陸の粗野で荒々しい開拓者たちの間で最も速く成長し、もっとも未開拓

の僻地、辺境地帯までも浸透して行った教会一致運動でした。  めいめい各自の自由

を求める、それぞれの独立を愛する開拓者達の間で、この運動は評判の高い、人気の

強いものとなって行ったのでした。

 

  どこ迄さかのぼれば良いのかわかりませんが、旧世界では味わうことが出来なかっ

た各個人の自由と独立、もう少し具体的に言いますと、国家権力や、その権力と癒着

した体制教会、教会の組織、教会の位階聖職者制度や聖職者たちから解放される自由

と独立を切望する気持ち、自分たち自身の手で自分たちのよりよい暮らしを獲得した

いという願望を抜きにしては考えられないと思います。

  更に、神が我々にこの新大陸、いまだ誰も汚した事のない、神が与えてくれたこの

新世界を、自分たちの力で開拓して、そこに聖書に約束された千年の王国を、新しい

天と地を、新しいエルサレムを建設するのだとする、強靭な開拓者精神とそれと同様

に彼等を支えたカルヴィニズムがその背景にあったことは否めない事実です。

 

  私たちには理解するのが困難ですが、殆どの開拓者たちとその一家は、経済的にも

政治的にも極めて貧しかったアイルランドやスコットランドからの移住民たちであっ

たという事実です。  詳しくは述べませんが、イングランドの国家権力や英国国教会

によって土地を奪われ、職を奪われ、かろうじて小作農民としてその日その日を何と

か生き抜いて来た人々が祖国を捨てて未知の新世界に希望を抱いて渡来して来たので

す。  馬鈴薯飢饉という騒動も多くのアイルランド移民を新大陸に送り出しました。

 

  このような諸要素が重なり合って新大陸に渡った人々は、旧宗主国のイングランド

から政治的に独立を果たし、新しい国家を建設し始めたのです。  自由・独立の精神

や旧体制勢力を拒絶する姿勢は、開拓者精神とカルヴィニズムに支えられ、西部僻地

の隅々まで、無法地帯と呼ばれていた開拓地にまでも行きわたって行ったのです。

  そこでは既存のハイ・チャーチは拒まれ、独立精神の旺盛なバプテスト教会や一部

長老教会は目覚ましい進出ぶりでした。  旧宗主国国教会から派生したメソディスト

教会も何とか開拓者の間には入り込むことができたようです。

 

  こういう人々の間に、次第に「19世紀宗教改革運動」、聖書に戻ろう、聖書に戻っ

てクリスチャンは一致しよう、〇X教会でもなく、長老教会でもなく、メソディスト

教会でもなく、唯のクリスチャンだけになろう…とする主張が急速に受け容れられて

行ったのです。  X〇教会の教義ではなくて聖書が語る単純明解な教えだけを素直に

受け取ろうじゃないか…という訴えが開拓者たちの心を打ったのです。

 

  ディサイプルズ・オヴ・クライスト(キリストの弟子達の意)とか、クリスチャン

・チャーチズとか、チャーチズ・オヴ・クライストと言う名前や、或いはキャンベル

主義者とかストーン主義者とあだ名で知られて行ったこの運動は、非・反組織教会で

あるために統計を取ることが困難ですが、今日では推定会員数約四百万人前後の教群

となり、これは全米で第三位とか第六位とか言はれています。

 

  このようにして、この運動は、旧世界から新世界に移民たちと共に持ち込まれて来

た伝統的なキリスト教ではなくて、全く新しく新大陸で誕生した信仰理解・聖書理解

であり、クリスチャンの一致を願う運動としても極めてユニークなものなのです。

 

  この運動から強い刺激を受けた別の新大陸土着の信仰にモルモン教があります。

また、日本では殆ど知られていませんが、クライスト・アデルフィアンズという群も

生まれています。  シェーカーズも算盤勘定を弾いて信者盗み=羊盗みを盛んにやり

にストーンの教会を遠慮会釈なく襲いました。  ストーンの追従者の中には余りにも

理性的なキャンベル親子のディサイプルズたちと合流するのを拒んだ人々もありまし

た。  彼等はその後、クリスチャン・コネクションという名で知られるようになり、

のちにコングリゲーショナル教会(日本では会衆教会・組合教会)と合流しました。

 

  さて、そののち、不幸にして新生米国で南北戦争が起り、農業国から工業国に急変

する社会変貌の諸影響がこの運動を襲い、聖書の高等批判学の発達などとも併せて、

自由主義的傾向を強く出し始めた北のグループ、即ち後のクリスチャン・チャーチズ

(デサイプルス)の群、そしてその傾向に強く反対した南部保守系のデサイプルズ、

即ち現在の無楽器派であるチャーチズ・オヴ・クライストの群、そして北のデサイプ

ルズ内の保守派で、余りにデサイプルズの群がリベラルになり過ぎたと言うことから

これに抗議して、結果的にディサイプルズから分離独立した、今日のクリスチャン・

チャーチズ(インデペンデント教群)、即ち有楽器派チャーチズ・オヴ・クライスト

とか中央派と呼ばれている教群、この三つに1906年の連邦国勢調査時前後から1932

にかけて分裂してしまいました。

 

  残念なことですが或る意味で分裂は決定的に見えます。  然し、今日でも主イェス

・キリストの教会の分裂を願はず、教会とクリスチャンたちの一致を真剣に祈り求め

る努力の運動であるとの理解から、その努力を続けておられる勇気ある人士も米国に

は沢山いらっしゃるので、或る意味で分裂は決して決定的なものではありません。

 

  ディサイプルズの群は、1883年に来朝したガルスト宣教師とスミス宣教師によって

初めて紹介されました。  今日では滝野川聖学院や聖学院大学がその流れを汲んでい

ますが、今は彼等に自分たちがディサイプルズであるという意識は殆どありません。

 

  そして今年は宣教第二世紀の記念すべき年に当ります。

そののち、三派はそれぞれの教会を建て、瀧野川聖学院、大阪聖書学院、茨城基督教

学園を設立しました。  但し大阪聖書学院を除いて、他の二つの学校は、それら二校

を設立した母教会と法的な関わりを残念ながら現在では持っていません。

 

  デサイプルズ教会は日本にはもはや存在しません。

ディサイプルズの諸教会は戦時中に基督諸教派を監視・統制し、弾圧する目的で当時

の国家権力が設立した日本基督教団に加盟し、他の諸教派と合同・合併しました。

  また、一部の旧ディサイプルズ教会は、我が国が敗戦を迎え、軍国政権が崩壊し、

米軍占領下に置かれ、信仰の自由が保証されるに到り、軍当局の圧力で結成させらた

教団の存続の必要が消滅したと考えられる時に到ってから、何と「自らの意志でこれ

に喜んで参加し」、そのことによって「神の摂理で教会の一致を見た!」と自負し、

結果的には、実に残念なことですが、自らの歴史的遺産を放棄してしまいました。

 

  現在、1980年代では、七十歳から八十歳以上の幾人かのオールド・デサイプルズ・

ジェントルメンだけが古き良きデサイプルズ時代のことを覚えていらっしゃいます。

  然し、旧デサイプルズ系の現日本基督教団教会に出席しているそれよりも若い現代

世代の人々には自らの誇りあるデサイプルズとしての歴史理解は全く欠落していて、

教団人としての理解しかありません。  また、若手の指導者の内には旧デサイプルス

としての意識を努めて放棄しようとする傾向があります。

 

  アメリカのデサイプルズ教会は一般に全身を水に浸すバプテスマです。

  これは聖書復帰・一致運動教会に共通です。  然し、日本の旧デサイプルズ教会は

現在では日本基督教団の教会となっています。  当然のこととして教団の他教会から

転入者があればこれらの人々を受け容れます。  この場合、転入者の殆どは滴礼しか

体験していませんので、この辺りからも、彼等が日本基督教団に留まっている限り、

本来のデサイプルズの誇りと信仰を維持することは殆ど不可能だと私は思います。

 

  旧ディサイプルズ教会で牧会する牧師も、日本基督教団が派遣する牧師ですから、

それらの牧師にとってディサイプルズということすら前代未聞のこととなりましょう

し、いろいろな意味でデサイプルズ離れはますます明白です。  旧ディサイプルズの

教会が老朽化した礼拝堂を建て替える時、経費の節約の為だとして、バプテスマ用の

水槽を省くところも増加したとか耳にしたことがあります。  古いディサイプルズの

教会堂には必ず全身浸水用の大きな水槽が正面に備えられていたのが普通でした。

  然し、それでも日曜日ごとに主の食卓を聖餐「式」として守っている教会は今でも

あるようです。  但し、なぜそうするのか、殆どの人は、牧師を含めて、わからない

というのが本音のようです。

 

  主として静岡県から茨城県に多い保守派の無楽器教群と、主として大阪から沖縄に

かけた西日本に多い有楽器教群、即ち、中央派グループ、英語ではインディペンデン

ト・クリスチャン・チャーチズまたはチャーチズ・オヴ・クライストの二者は、その

信仰理解や実践において基本的にほとんど同じですが、聖書が明白に語っていないと

ころに関して、有楽器教群はその解釈において無楽器教群のそれと比較して見ますと

より自由なようです。  それに反して、当然のことですが、無楽器派はより保守的な

傾向があります。  時として、ある部分では、律法主義的だと思います。

 

  公同礼拝時に楽器を使う・使わないという具体的な問いかけ以外にも、たとえば、

有楽器教群では「牧師」という名称に何ら抵抗を覚えることなく使用していますが、

より保守的な無楽器教群ではその呼称が聖書的根拠を欠くものであると同時に、本来

の運動の主旨が、伝統的な諸教派教会の位階階級制度に基ずく聖職者の特権意識とか

教職者特権意識というものを拒絶し、説教者と読んでみたり、或は伝道者、すなわち

「仕える者」に徹したいという共通の願いがあるので、「牧師」という呼称を使わな

いで「伝道者」という語彙を使います。  もっとも、無楽器の群の中にも、自他共に

自分を他者より格上したいというような潜在的な願いや意識から、あるいは劣等感に

苛まれてか、牧師という呼称を使ってみたかったり、そのように呼ばれてみたかった

り、或はまた、ガウンを着用したがる者たちが増え出したのも事実のようです。

 

  また、無楽器の群においては、公同礼拝時に楽器類を使用せず、男性信者がひとり

でも出席している公的集会の席に於て婦人は完全な沈黙を守る点でも、有楽器教群の

聖書解釈と比較しますと、遥かに保守的であるのが解ります。  独身の無楽器教会の

女性宣教師たちが何人か戦前には来日していましたが、この点でずいぶんと苦労した

ように伺っています。

 

  有楽器派教会内に婦人牧師が存在することや、説教や奨励をする女性が存在するな

どと無楽器教会の多くの人が聞けば、第1コリント1433節〜34節、第1テモテ2章

11節〜12節を文字どおりそのまま堅く信じている人々が圧倒的に多いので、そのよう

なことを想像だにしたこともない無楽器教会の人々は肝を潰すほど驚くでしょうし、

それらの聖句を抹消でもしない限り無楽器派グループ内に婦人牧師や説教者は出現し

ないだろうと思います。  しかし、上記第1コリント14章の聖句の解釈にも新しい風

が吹き始めたことは事実です。  必要な方には優れた論文の翻訳文を提供します。

 

  お互いに両者は分裂時の一時期に、そしてその後も今日に到る迄、やや過度の律法

主義や排他主義、即ち『我々以外にクリスチャンはあり得ない』などと言った確信に

さいなまれた不幸な時代もありましたが、最近では全体的に眺めて見て、意見や見解

を異にする兄弟姉妹をも主に在って受け容れる余裕が出て来ているようです。

  但し、とりわけ無楽器教群に第1次世界大戦頃から台頭して来た律法主義傾向は、

フロリダ州ゲインズヴィルで始まったクロス・ロード運動に、そして更にボストンで

始まったボストン運動、インターナショナル・チャーチズ・オヴ・クライストという

準カルト的な運動体に見事に引き継がれたようです。  歴史は繰り返すようです。

  嘗て双子の教会が、『俺たち以外にクリスチャンはいない』と豪語したことを、今

再びこのグループが声高に、自慢げに、無邪気に、お気の毒にも叫び始めたのです。

 

  また両者の間の対話もアメリカでは少しずつ復活しつつあるようですし、両者の間

で同じプロジェクトに対しての協力や、同じ町にある両者の教会の合流も時々ですが

米国からそのような報告が届いてます。  この場合の最大の障害と思はれる礼拝時の

楽器使用の問題については妥協が成立し、礼拝時には無楽器の人々の良心の呵責問題

を考慮して無伴奏とし、その他のプログラム、たとえば日曜学校や青年プログラムで

は楽器の使用を認ると言うことで落着いているようです。

  そして両者の合流によって浮く費用、たとえば教会堂とその維持費、説教者や牧師

など専任者の諸費用、教会バス運営費などの浮いた分を伝道や奉仕に当てているそう

です。  米国では二つの教会が歴史の内から少しずつ学んで来ているようです。

 

  日本のような非基督教国においては、ヨハネ伝1334節〜35節、同15章9節〜17

とか、同じく1711節〜21節などに示された主イェス・キリストの願いと命令を充分

に踏まえて、これらのことを真剣に考える時代が到着したと、双子の兄弟姉妹教会が

主の聖晩餐を一緒に与るべき時が来たと、そのように私は思うのですが、皆さん方は

どのようにお考えになりますか?  縦社会・家族社会の日本では無理でしょうか?

 

  主イェス・キリストの貴い教会が幾つにも分裂していて、どうして私達がこの世に

対してキリストの十字架を語り、神の御恩寵を語れる資格があると言えるのでしょう

か?  キリストの教会はその二千年の歴史の歩みの内で、この世に対してキリストの

美しさ、その愛の素晴らしさ、神様の神聖さを誇り高く宣言して来たと言うよりは、

内部対立と抗争、そして主の名による弱肉強食の侵略と暴虐を欲しいままに反復して

来たと言っても決して過言ではないと思います。

 

  これでは世の中の人々が主イェス・キリストを信じる筈がありません。

前述のヨハネ伝の聖句、即ち一致に関するイェスさまの信託に対してすら私達は真剣

に耳を傾けて実行する意志を持っていないように見えるのです。

これらのことに関しまして、読者の皆さま方はどのようにお考えになりますか。

 

                                  (2)

 

  人類の罪を贖うためにナザレのイェスが十字架にかかり、殺され、葬られ、三日目

に神がこれを復活させてキリストとされた。  神が人となって人類を愛された。

  そしてこの自分はこのイェスによって限りなく愛されている。  このイェス・キリ

ストは間もなく再臨してこの世の罪と悪を審判される。  貧しいこの私は恩寵によっ

てその時、イェスと共に栄光の御国に加えられるのだと言う堅い信仰は、二千年前の

ローマ帝国全土の貧民の間にまたたく内に善きおとずれ、福音として浸透して行った

のでした。  ローマの権力は過酷な迫害でこれを弾圧しようと試みましたがいずれも

失敗し、遂に四世紀初期にキリストの福音はローマ帝国を屈服させたのでした。

 

  しかし、ローマに渡ったキリストの福音は、次第にローマ・カトリック教会という

組織・制度となって、国家権力と癒着し、神が明確に新約聖書に啓示された教会の姿

から離脱する道を選んだのです。

 

  コンスタンチヌス大帝の時代から始まったローマ・カトリック教会の新約聖書教会

からの離脱と堕落は、地上的権力闘争と共に教皇グレゴリウス七世の時の教皇権力の

絶頂時代を経て、1113世紀の十字軍遠征時にはヨーロッパの富の少くとも半分近く

を入手したと考えられるほどの地上最強勢力にのしあがってしまいました。

 

  反対するものは誰であれ主の名によって抹殺されました。  ローマ教会千五百年の

堕落史の蔭にあって、新約聖書に示された原始初代教会の姿を守り、それに戻ろうと

命がけの努力をした聖徒たちも各地に存在していましたが、ローマ教会は常に彼らを

異端者として断罪していました。  また、余りの堕落ぶりに抗してローマ教会内部で

も改革の試みがなかった訳ではありませんが成功したためしはありませんでした。

 

  新約聖書教会から離脱してしまったローマ教会にとっては、全く救いのない恐怖の

千五百年の堕落史であったと思います。

  そして近代の宗教改革者達の出現へと時代は進むのですが、プロテスタントと言う

反ローマ教会勢力をなんとか確立したものの、プロテスタント内での新約聖書教会の

パターンからの離脱や堕落、分裂や対立などの諸混乱を自ら防ぐことも整理すること

もできず、いたずらに教派の数だけを増加させたのでした。  そして近代社会の発達

と共に西ヨーロッパは、プロテスタント教会を含めて、ますます混乱期を迎えて行く

事になるのです。  新大陸が発見され大勢の人間が移住すると、新世界にも混乱の波

は拡大されて行きました。  新約聖書教会回復運動が起こる必然性があったのです。

 

  英国ではジェームズ・ホールデンとロバート・ホールデンの二人の兄弟が、新大陸

ではヴァージニア州とノース・キャロライナ州でジェームズ・オッケイリーやライス

・ハガードが、ニュー・イングランド諸州ではアブナー・ジョーンズとエライアス・

スミスが、当時の最西端僻地で恐ろしい無法地域であったケンタッキーではバートン

・W・ストーンが、オハイオ州ではウォルター・スコットが、そしてヴァージニア州

ではアイルランドからの移住者トーマス・キャンベルとその息子のアレキサンダーら

が、救いようがないほどに混乱し混沌としていた当時のプロテスタント諸教派に対し

て、新約聖書に神が明記された原始初代教会の姿に戻ることで基督教世界の再一致を

求めよう…とそれぞれがお互いに何の相談もなく同時多発的に訴えたのです。

 

                                  (3)

 

  箱根の山は天下の嶮と、かつて尋常高等小学校でそのような唱歌を習いました。

箱根を徒歩で旅する昔の人にとっては危険で困難な場所であったに違いありません。

  それと同様に、新大陸アメリカに移住した人々にとって、大西洋の海岸線に添って

ニュー・イングランドからアラバマ州までの幅約二百粁、長さ約二千粁、高い所では

約二千米、平均六百米のアパラチア山脈を越えてその西側に出るのは極めて困難でし

た。  テネシー州東北部からケンタッキー州東南部にかけて、このアパラチア山脈に

カンバランド・ギャップと呼ばれている断層があり、そこを先住民が通って山脈横断

をしているのが発見されてから、急速に開拓者達のケンタッキーやテネシーへの進出

を見るに到るのです。  私もそこを何回か通過したことがあります。  昨年もそこを

友人に頼んで車でわざわざ撮影取材に行きましたが、とても険しい狭い谷の道です。

 

  大量輸送の時代の今日にあってもアパラチア山脈周辺の旅行はかなり不便です。

山脈や渓谷を縫うように道路や鉄道が走ります。  最近は飛躍的に道路が良くなりま

したが、それでも車やバス旅行するには時間がかかります。  留学中にも訪ねました

し、最近も何回か汽車、大陸横断乗合バス、自動車、それに飛行機を利用して、この

山脈の数州を東西南北から立体的に、意図的に旅行してみました。  国立公園や各州

立公園も多く、四季を通して変化に富み、休暇を楽しむにしても、また、いつ訪れて

も極めて美しい山脈ですが、そこで生活をしたり、徒歩や馬や車で旅行をするとなる

と、相当に不便が多い所です。  地図を出して一度じっくり御覧下さい。

 

  この広大なアパラチア山脈の西側と東側、それに南北で、今から百五十年も前に、

いくつかの教派の指導者たちが全然別個に、自然に、しかも同時に、誰いうとなく、

混沌としている宗教界から抜け出して、諸教派教会とその信者は新約聖書に示された

原始教会、初代教会の姿に戻り、クリスチャンの一致を図ろうと呼びかけたのです。

 

  有名なウェスレーやアズベリーが活躍していた頃の新大陸のメソジスト教会内でも

秩序の混乱は絶えず、このことに心を痛めたジェームス・オッケイリーは生れたばか

りのアメリカでの旧宗主国国教会の一部であるメソジスト教会の人々に呼びかけて、

より聖書的な、より新大陸に相応しい民主共和的なメソジスト教会*の結成を呼びか

けたのです。  その裏には、植民地を失った旧宗主国英国が、今度は同教会を通して

新大陸を再支配して来るのではないのかという危機感と疑念があったと思います。

  *この場合のリパブリカンという言葉は、自由独立メソジスト教会を意味します。

 

  カルヴィン主義派の教会、たとえば長老教会とかバプテスト教会の中からも同様な

運動が起り始めました。   B.W. ストーン牧師とか、 E. スミス牧師、オッケイリー

牧師などはお互いの噂を聞きあって、その志すところが全く同じであることを知り、

正式な、組織的、事務的、教義的な折衝とか交渉などの過程を経ることもなく、ただ

主イェス・キリストにあって一致合流したのです。  その交わりは誰が言い出したか

不明ですがChristian Connexion クリスチャン・コネクションと呼ばれていました。

 

  彼らの主張に共鳴した他教派の信者たちも、いかなる人為的な呼び名であれ、即ち

教派名で呼び合うことを拒否し、唯の『クリスチャン』だけを自らの名にしました。

  それ迄は長老教会員であるとか、バプテスト教会員であるとか、メソジスト教会員

であるとか、英国国教会員であるとか、ルーテル教会員であると、自他共に呼び合っ

ていましたが、誰も自分がクリスチャンであるとは考えたことはなかったのです。

  そして基督者の人格と言いますか、品性と言いますか、徳性だけをもってその運動

のメンバーになる条件、交りの条件にすると言うことで同意したのです。

 

  勿論そこには入会式があったとか、同意書があって指導者達が署名したなどと言う

こともなく、祈りと握手があっただけの単純な、素朴な基督者の主イェス・キリスト

に在る一致の確認でした。  会長、副会長、会費、規約、事務局、財産をどうする、

云々なども勿論ありません。  実に簡単で爽快なイェス・キリストに在る一致の確認

の慶びだけが人々の心を支配していたのです。  今日の我々の在り方とは全く違い、

羨しい限りです。  チャーチ・オヴ・クライスト、またはクリスチャン・チャーチの

これが初めであったのです。

 

  このクリスチャン・チャーチ運動は、ライス・ハガードがケンタッキーに移住した

ことから1800年初頭ケンタッキー州中北部で活躍していたバートン・ストーン牧師を

中心とした長老教会と合流し、更にペンシルヴェニア州西部、ヴァージニア州西部、

オハイオ州東部を中心に影響力を持っていたキャンベル親子の推進するデサイプルズ

・オヴ・クライスト運動とも1830年代初めに合流する頃には、何回も書きましたが、

その頃の新世界で一番急速度の成長を遂げる土着の聖書復帰・一致運動教会となって

いたのです。

 

  ストーン運動と合流したクリスチャン・コネクション群は、1830年前後にストーン

の群がキャンベルの群と合流するのを好しとせずそのまま留まり、1930年代に到り、

日本では組合教会、すなわち、コングリゲーショナル・チャーチ、会衆教会と合流、

更に後に到りNCC(基督教協議会)に加盟しました。これはこれ以上ここで語る話

題ではないのでこれ以上は触れません。    渋谷の教団聖ヶ丘教会はその末裔です。

 

                                  (4)

 

  アイルランド生れの長老教会牧師トーマス・キャンベルは、1807年に健康上の理由

もあって、家族を残して新世界アメリカに単身渡航しました。

  同教会内の詳細な内部事情の説明をここでは述べませんが、トーマス・キャンベル

1733年に英国国教会から分離・脱退したスコットランドの長老教会内で、更に意見

を異にする或る一派に属していました。  アメリカ上陸後フィラデルフィヤにあった

同じ派閥の大会本部組織を通してペンシルヴェニア西部のチャーティアー中会管轄区

に派遣されました。  (キャンベル一家のヴィデオ・テープ鑑賞希望者はご連絡を)

 

  アパラチア山脈の中の開拓辺境僻地ですから教会はなく、馬や徒歩で巡回するのが

牧師の仕事でした。  キャンベルは温厚な人格の持ち主で聖書に精通していますから

開拓者の間での人気はうなぎのぼりでした。  険しい山脈地域内を牧師が開拓者たち

を訪ねて巡回するのが当時のしきたりでした。  巡回牧会中のある日、集会にやって

来た長老教会の開拓者たちの為に聖餐式を執り行いました。  たまたま聖餐に与った

信者たちの内にキャンベルが属していた長老教会の一派とは少しばかり派の違う同じ

長老教会員がいました。

 

  彼はその人たちを主にある同じ兄弟、同じ長老教会員として扱い、パンと葡萄酒を

配りました。  祖国に居た時から些細なことで教会内に分裂や対立の歴史が繰り返さ

れていた事実にかねがね心を痛めていたキャンベルでしたので、新世界の僻地に来て

までも旧世界の位階聖職者組織や教会の伝統が生み出した制度や諸規則やしきたりに

これ以上煩わされたくないと言う気持が彼の心にありました。  自由と独立の精神が

漲っている新世界においては、クリスチャンの自由と交わりということは、少なくと

もキャンベルにとっては極めて重要な課題であったのです。

 

  そんなこともあって、ペンシルヴァニアの長老教会本部もキャンベルの思想や行動

に注意するようになっていた矢先、この聖餐のことが中会や大会本部にキャンベルの

姿勢を詰問させる折を与えることになりました。  一種の宗教裁判のやりとりが両者

の間であり、1808年に到って失望したキャンベルは長老教会を脱退したのです。

 

  その翌年に「Christian Association of Washington 」、仮私訳でワシントン地区

基督者協会と言う有志グループを作り、その有志達によって有名な宗教的独立宣言文

Declaration and Address 」を発表したのです。  ひとことでその宣言文の主旨を

要約しますと、『聖書が語るところは我々も語り、聖書が黙する事柄は我々も黙して

語らない』と言う原則だけをこの協会に参加する者の共通理解点としたのです。

 

  一方、故郷に残されていた家族はトーマス・キャンベルと新世界で落ち合うように

船出しましたが、不幸にも船は難破し、旅行は遅れました。  その間、神の不思議な

摂理で長男トーマス・キャンベルはグラスゴーで学ぶこととなり、ホールデン兄弟の

思想と人格に深く触れるに従い教会の分裂に心を痛める若者になりました。

 

  そして彼は家族が属していた教会、もう少し具体的に言うと、オールド・ライト派

で、しかも反バーガー派で、臣従拒否脱退派の長老教会で、しかもまたイングランド

やスッコットランドの同じグループから脱退分離したアイルランドの長老教会を自ら

の意志で脱退して、父の待つ新大陸に向うこととなるのです。

 

  父トーマス・キャンベルが宣言文を発表した同じ年に家族は父とアメリカで再会し

ました。  馬車でアパラチア山脈を越える途中、お互いに恐る恐る別離中に教会内で

体験したいろいろな出来事を語る内に、お互いが全く同じ結論に到達していたことを

知り、家族全員が神に感謝したのです。  息子トーマスは父の宣言文を読み共鳴し、

1811年からは父に代って聖書一本槍運動の音頭を取り始めるに到るのです。

 

  紙面と時間の関係でこれ以上キャンベル親子に就いて書くことができません。

  キャンベル親子より少し前にケンタッキーのケイン・リッジで起った、米国教会史

上きわめて稀だと誰もが認める長老教会のストーン牧師を中心としたリヴァイヴァル

・キャンプ・ミーティングと、そこから起ったもう一つの大切なクリスチャンの一致

運動を紹介することも出来ません。  中途半端な説明に終わってしまい残念ですが…

 

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  以上は1985年7月24日〜26  南紀白浜  ホテル・クリーンヒルで開催された

        1985年度キリストの教会(有楽器)全国大会  大会だより用原稿

 

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                        推敲文は2003年8月2日作成

                                  野村基之

  408-0031  山梨県北巨摩郡長坂町小荒間1381  電話:0551-32-5579  FAX:32-4999

       motofish@eps4.comlink.ne.jp  http://www.bible101.org/nomura