(B)

 

  アレキサンダー・キャンベルは、かつて、このことについて語らなければな

らないと考えたことがあったようです。

1837年に彼が語った言葉を皆様にお話してみましょう。

  『クリスチャンが求め、愛するのはキリストのお姿である…』と彼は言いま

した。そして彼は、『このことは、いくつかの細かい教義上の事柄で正確でな

ければならないということによって構成されているのではない…』とも申しま

した。『人が、その人の知る限りの真理において、その人がどれだけ献身的で

あるかにかかっている…』と言ったのです。

  そして、彼は更にそれに付け加えて、『もし、キャンベルさん自身が、すべ

ての信仰的、教義的な事柄において同意できる人と、信仰的、教義的な点の

すべてで同意できなくても、その人が献身的で霊的な人であるなら、そして、

二者択一を迫られるとするならば、一瞬のためらいもなく私は主を最も愛する

後者の方に私の心を与え、その方を私の好みとして選ぶであろう…』と断言し

ました。

 

  教会もそれと同じです。教会は風船ではありません。教会は生命のない物体

ではありません。教会はキリストの御身体です。教会は、生きている、呼吸を

している、生命のあるものです。そして、生命のあるものは、どのような傷で

あっても、どのような病気であっても、それに耐えて生き伸びることができる

のです。生きている身体は病気にかかるものですが、その病気から直ることが

できます。生きている身体は、時として、その一部を失うこともあります。

  それでも活き活きと生き続けるのです。それでありますから、我らの主の

教会というものは、あるいは、我らの主の福音というものは、ただ単に、諸

事実の固まり、集まったものでもなく、生命を欠く物体でもなく、それは生き

たものであり、生きた関係を意味するものです。

 

  次に、第二番目に、私は、福音そのもの、福音のメッセージそのものに目を

向けたいと思います。キリストの十字架に目を注ぎたいのです。

  先ず申し上げておきたいことは、すなわち、伝統的な接近方法、私はそれを

ベーコン哲学的接近方法というものが、時として、聖書というものを、平ら

べったい、平面的なものにしてしまう傾向がある…ということです。

  そこでは、聖書が一番大切なものとしている事柄と、第二義的、第三議的に

大切にしている事柄、そのような意義を失い、すべてを一緒くたにしてしまう

ような傾向があるのです。

 

  次にまた、この接近方法というものは、その時代の、既に学びましたよう

に、科学時代の精神というものと同様に、神秘的な事柄に対し、人知の理解を

完全に超越した次元の事柄に対して、短気で辛抱できない傾向があったことで

す。それでありますから、贖罪ということになりますと、すなわち、私たちの

ためのキリストの死ということになりますと、多くの人々にとって、これは

神秘的なことですから、この神秘的な事柄を探究するということに殆ど価値を

見出せなかったのです。なぜ深遠な事柄に、贖罪の意味について、どうしてそ

んなにも探究しなければならないのか…、なぜならば、そんなことをする価値

があるのか…というような雰囲気を醸し出していったのです。

  それよりも、『この私が救われるために、私は何をすべきなのか?』が重要

な質問になって来ました。そのような発想の下においては、十字架はただ単に

歴史上の一つの事実に成り下がってしまいました。

  人はただ単にその事実を信じれば良いのであって、それよりも、そのことに

対する各個人の適切な応答の方に集中すれば良くなってゆきました。

 

  第三に、この科学的、ベーコン哲学的な聖書への接近方法というものは、

そうですね、どう言えば良いのでしょうか…、聖書へのこの科学的接近方法は

聖書の隠喩・比喩、聖書の隠喩的・比喩的表現と取り組むに際して、とっても

困難に直面した…とでも申しておきましょう。隠喩とか比喩は事実ではないの

です。隠喩・比喩は言葉の絵とでも申せましょう。

  新約聖書がどのようにして贖罪というものを私たちに提供するのか、語って

いるのか…と質問されますと、それは、ご存じのように、ほとんど全部がいろ

いろな隠喩・比喩を媒介してのことだからです。言葉の絵であり、精密で正確

な法典編纂化をはるかに越えたものなのです。

  新約聖書の著者たちはすばらしい一連の像を用い、言葉の絵を用いて私たち

にキリストの死の意味を示そうとしたのです。

  それらの言葉の絵をいくつか考えてみて下さい。

  旧約聖書イザヤ53章の「苦難のしもべ」の像に基ずいた、身代わりの受難が

あります。モーセの過ぎ越しの犠牲と契約の犠牲に基づいた、それを根源とし

たキリストの犠牲の姿、像があります。身代金、賠償金、贖いなどの像、姿を

用いています。奴隷を解放するために買う、贖う、身代金を払う…という像と

いうか絵もあります。活き活きとした絵ですが、友達を買い戻す、贖うという

言葉の絵を用いて和解を描こうとしています。あなたの家族の一員でない者を

あなたの家族の一員にするという言葉の絵を用いて、養子にするということを

説明しようとしています。

  これらの言葉、言葉の絵というものは、事実というものを遥かに超越したも

のを指し示しています。そういうところに到着します。

  それらは、言葉自身が持っている意味の世界、言葉が伝達したいとしている

世界を遥かに超越した、言葉自体が伝達する世界より遥かに大きな、そのよう

な現実を示す、とても値段の張る言葉の絵画とでも申せましょう。

  これらの言葉の絵画は窓の役割を果たしているのです。その窓を経て、とお

して、すばらしい聖なるみ業へと導いてくれるのです。そして、そのみ業の

意味は、人間のどのような言葉でも言い尽くせるものではないのです。

  四福音書の著者やパウロは、これらの隠喩・比喩を豊かに充満し、撒き散ら

しているのです。そして、意図的に彼等はそうしたのです。そのことによって

キリストの死によって初めて明かされた聖なる愛と慈愛に私達を近づけようと

したのです。

 

  結論的に、この嫌な、隠喩・比喩を拒絶しようとした傾向は、新約聖書に

充満している十字架とか贖罪、すなわち、パウロの言葉を借りれば十字架の

言葉を蹴散らかし、追放してしまったのです。

 

  ここで一例を申し上げて、ストーン、キャンベル運動において、どのように

十字架が蹴散らかされ、追放されたかをご説明しておきましょう。

  この例というのは、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて良く知られて

いた説教者、ジョン・スゥイニーという人のことです。

  かれの説教集の中から引用するのですが、説教題は、『私が救われるために

私は何をなすべきなのか』です。これは決して隔離された例ではなく、むしろ

隔離されたというより、更に典型的な例、一般的な例であったと申し上げてお

きましょう。

  彼が申しますには、『私が救われるために私は何をなすべきか』の質問は

実際的な質問である…というのです。『これこそがすべての中でもっとも実際

的な質問である…』とも申しています。

  彼は、『勿論、神様が救って下さるのだ…』、『キリストの死は賞賛に値す

る、価値のある死であった…』とは言っています。

  『しかし、贖罪を論ずるは実際的な質問ではない…』と言っています。

『事実を受け容れるだけで充分だ…』と言い、『神様が何をなされるかとか、

キリストが何をなされるかの質問ではなく、私が何をなすか、が大切だ…』と

言っています。『これこそが私達に関係ある実際的な質問だ…』と結びます。

 

  このような思考のゆえに、私は無数の書類を証拠として皆様にお見せして

証明できますが、それ以降のおびただしい説教者たちが、『救われるために私

は何をなすべきか』と題した説教をし続けました。そして、イエス・キリスト

の十字架はまったく説教されたことがなかったのです。

 

  もう一つの例をご紹介しておきましょう。

  T.W.ブランツという、私達の運動の中では著名な教師であり著作家で

あった方です。1874年に「Gospel Plan Of Salvation」と題する一冊の本を世に

出しました。(訳者仮訳で「救いに関する福音の計画」とでも訳せる題)

 606頁の本でした。それは、その後の世代に対して、計り知れない影響を与え

たものでした。76年後の1950年になって第十三版が出版された本ですから、

とても広い影響力を与えた書物です。

  最近、私の妻と私は、この本を読みました。そして二人とも衝撃を受けたの

です。それは、この本には、すなわち、福音の救いに関する計画と題したこの

本には、イエス・キリストに関する体系的な、整然と組織立った扱いが全く書

かれていないということでした。 600頁を越えるこの本の中に、わずかに2、

3ヶ所程度、あちこちに散らばってしか書かれていないのです。

   303頁をバプテスマに使っています。 303頁におよぶバプテスマに関する

記述の中で、バプテスマをイエスの死と結びつけて書いている箇所は2頁以下

なのです。このことをもっと分かり易くご説明してみましょう。

『救いに関する福音の計画』などと称する本の中に、そのような省略、その

ような手抜かりがあるということは、本当に驚くべきことだということです。

度肝を抜かれるような驚きです。

  これは、部分的にですが、聖書への、この伝統的な接近方法の結果なので

す。すなわち、キリスト教の信仰の中心であるイエス・キリストの死を雲の中

に隠しこんでしまい、その代わりに、私が何をなすべきか…を強調する傾向が

あったからです。

  もし、どなたかが更なる資料を求められるのでしたなら、私はこれらの他に

も多くの文献を提供することができます。

  これは、私に言わせれば、とても真面目な質問を私達は突きつけられている

と言えると信じています。

  この問いかけはC.L.ルースさんという人によって問題提起されました。

キャンベルの発行していたミレニアル・ハービンジャー(訳者注:定期刊行

雑誌で、「千年王国の先駆者」とでも訳せるもの)の1869年度誌に記載されま

した。キャンベルの死後に掲載されたものです。

  ルースの論文の題目は単純でして、「十字架」と題するものでした。

その問いかけとは、『もしあなたが福音から十字架を取り去れば残された福音

とは一体何なのか?』というものでした。ルースの論文はすばらしいものでし

た。ルースが答えて言うには、『十字架を取り去った後に残された福音とは、

キリストの教えとお手本である…』でした。

  しかし、彼が更に言いますには、『もしそれだけしか残らないのなら、我々

がイエスの栄光に満ち、完全なご生涯を見て、そして彼に従えとの声を聞いて

従うならば、それは我々の絶望と自暴自棄を深めるだけであり、我々が罪の中

で失敗しているという事実を自覚させるだけである…』

『我々がイエスのご生涯、あの崇高なご生涯を仰ぎ見て、そこに十字架が欠落

しているならば、そこに許しが欠落しているならば、我々はますます罪と希望

のない状態の中に沈没していってしまうだろう…』と言うことでした。

『我々が必要としているのは赦されることであり、救い出されることであり、

力づけられることである。そして、それは十字架をとうしてであり、十字架だ

けをとうして神様がそれらを我々に持って来て下さるのである…』と言いま

す。

  1869年にルース兄弟が問いかけた質問は、こん日においてもいまだに同じ

警鐘なのです。『もし福音から十字架を取り去れば、その残された福音の中に

は何が残るのか?』という意味深いものです。

 

  もう一つの例があります。

  この例は、今世紀初めにおけるキリストの諸教会の中で、影響力の極めて強

い説教者の一人の例であるとご理解下さい。

  この方のお名前はG.C.ブルーワー (G.C. Brewer)です。

  1934年に別の著名な説教者が、『我々の群れの中でG.C.ブルーワー以外に

もっと尊敬され、影響力のある人物はいない』と発言しています。

  同じ年、彼はガスペル・アドヴォケイト誌に寄稿し、群れの中から急速に少

なくなっていっていた十字架と恩寵について警告しています。

  そのブルーワーは次のように説いたのです。

『群れの中のある人々は、救いには人間側に属するものと、神の側に属するも

のと二面があるように説いている。そうすることによって、彼等は次第に人の

側のものを神の側のものと実質的には同じにしてしまっている。

  彼らは、救いの計画だけが神様の憐れみによって与えられたということ以外

は、福音というものを神様の恩寵も憐れみも要らず、聖なるものも霊的なもの

も要らず、救われるために人間が従えばよいという、聖なる律法の組織化した

ものに福音を変質してしまった…。』

 

  それから殆ど20年ほど後に、アビリン・クリスチャン大学の*レクチャー・

シップでG.C.ブルワーはその発言にとてもよく似たことを再び発言していま

す。

  (*訳者注:南の無楽器キリストの教会教群が群れの代表的な各地の大学を

会場に、年に1度、3〜4日から1週間ほどの期間に開催する講演会のこと。

これは北のディサイプルズ教群や中間派のクリスチャン・チャーチ教群が毎年

1回開催するコンヴェンション、すなわち、全国大会に相当するもの)

  講演でのブルーワー兄の題は「恩寵と救い」でした。

彼が話した主要点もご紹介してみましょう。

『私達の救いとは、律法が要求するもろもろの事柄に私達が完全に固就する、

忠実に律法を厳守するということによるのではない。

  私達の完全さによって私達の救いを得ようとするのであれば、私達は神様の

恩寵を空虚なものにしてしまう…。私達が、律法を完全に厳守するということ

で私達の完全性を成就するというのであれば、それはキリストの死を無駄なも

のにしてしまうのだ…』と。

 

  1952年にブルーワーがこのことを述べてから、米国のあちこちで救いの中の

恩寵に関する課題の再考察が始まりました。

  過去 150年間以上にわたってキリストの諸教会では新約聖書のキリスト教へ

の復帰を呼びかけています。

  これは力強い理念です。この訴えは、常に私達を私達の信仰の中心点へと、

信仰の源泉に…と呼びかけた訴えだったのです。

 

  この運動の継承者としての私たちが直面している最大の挑戦の一つは、十字

架を高く掲げ、それを回復して、私たちの説教においても、私達の日常生活に

おいても、十字架が本来あるべき場所に戻すことなのです。

  パウロは十字架の言葉と語っています。十字架の言葉は私達の内に浸透し、

充満します。パウロの書いたものの内に充満します。パウロが十字架の言葉を

説く時、パウロが唯たんに十字架の物語を語っているという意味ではありませ

ん。それは、教会が当面するあらゆる問題を担うために、イエスが死に、復活

したもう…というメッセージをパウロは意味しているのです。

 

  アメリカ人の友人の一人にビル・ラヴという人がいます。

  最近、彼は、教会の直面していた25種類のいろいろな問題を列挙し、それら

に対しパウロがどう語り、それらの一つひとつに対してどのようにパウロが

十字架の言葉をもってどう対処したのかを調べました。

  その中からいくつかの例をここで取り上げて考えたいと思います。

  例えば、パウロがコリントに於ける性的不道徳問題に当面した時、コリント

第1の手紙の6章19節で次のように言っています。

  すなわち、『知らないのですか。あなたがたの体は、神から頂いた聖霊が

宿って下さる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないので

す。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。自分の体で神の栄光を

現しなさい。』

  そして、ここに十字架の言葉があります。すなわち、『あなたがたはもはや

自分自身のものではない』とあります。『あなたがたは代価を払って買い取ら

れた』とあるのです。パウロは十字架の言葉を持って来て性的不道徳に臨んで

います。

  また、パウロは、教会の中における分裂と派閥争いに直面しています。

そして十字架の言葉を持って来ています。第1コリント1章10節です。

『さて、兄弟たちよ、私たちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに

勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを

一つにして、堅く結び合いなさい。』と始めたパウロは13節で十字架の言葉を

述べます。『キリストは分けられたのですか?あなたがたのためにパウロが

十字架に架けられたのですか?』と問いかけます。

  更に18節に到って、『十字架の言葉は、滅んで行く人にとって愚かなもので

あるが、救われた私たちには神の力なのです。』と言うのです。

教会の中の分裂は十字架の言葉でもって臨まれなければなりません。

  パウロの教会は教会員たちの間でのわがままな利己主義に当面します。

ピリピ書2章の3節と4節で、『どのような事なでも自己中心的な野心や、

むなしいうぬぼれ、自負心からやるのではなく…』と言います。そしてパウロ

は『十字架の言葉を担いなさい』と言います。

キリストが私たちの為にご自分を無にされ、召し使いの姿をとられたように、

あなたがたの態度もそのようでなければならない…と言うのです。

  あるいは、教会の中で夫と妻との間の悶着に対しても触れています。

エペソ5章25節で十字架の言葉を持ち出して夫と妻が立派に耐えるように語っ

ています。『夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与え

になったように、妻たちを愛しなさい』と述べて、ご自分を与えられた…とい

う箇所で犠牲の姿を描いています。

  また、人と人との間の命令、規則、約束ごとに関してもコロサイ書2章9節

から15節でパウロは十字架の言葉を持って良く耐えるように語ります。

  苦労とか受難に関して、苦難を堪え忍ぶことに関しての問題がある時にも、

ペテロは第1ペテロ3章15節から18節にかけて、その事を十字架の言葉で耐え

るように勧めています。

  まあこのような訳で、パウロが直面した問題がどのようなものであっても、

諸教会が当面していた問題に対して、パウロはそれらの問題の解決方法として

十字架の言葉で堪え忍ぶという道を選んでいます。解決法は人間の智惠にある

のではなく、人間の道徳的立派さや、或は人格的善良さにあるのでもなく、

ただ十字架の言葉に人が服従することによる…としています。

 

  私は今日の午後の講演を閉じるにあたり、キリストの中に在る私達の人生、

私達の日常生活の中心点として十字架の言葉が復元されるように、取り戻され

るようにとの訴えたいと思います。

  十字架の教義は、新約聖書の他の多くの大切な教義の一つと共に、ただ単に

重要な教義という理解だけに留まらないようにお願いしたいと願います。

  十字架は、ただ単に事実として信じられるべきもの…といった域のものでは

ありません。

  キリストの十字架は、物事に対して明白なクリスチャンの視野を提供する、

意見を供給するレンズの役割を果たすものです。

  十字架が、クリスチャン信仰のすべての分野のために、焦点合わせのレンズ

の役目を果たして提供する三つの役割を最後にここで述べたいと思います。

 

  まず最初に、キリストの十字架において神様の御旨が最も明瞭に啓示されて

いることを私たちは知るのです。

  十字架が私たちに啓示するものは、神の悩み苦しむ愛以外の何ものでもない

のです。旧約聖書と新約聖書の頁を次々と埋めつくしてご自分を啓示なさる神

こそは、哀感・パトスと苦悩を包含される神様なのです。

  私たちの神様は私たちをそんなにも愛して下さったので、私たちとの関係の

中へとお入りになるために、ある意味において、ご自分を制約なさる程なので

す。

  旧約聖書の預言者たちは、この神様を時として嘆く親の姿で描いています。

もしくは裏切られた夫の姿で捉えています。

  そして、反抗的なイスラエルを罰し懲らしめるために介入された時ですら、

裁判官としての神から、イスラエルの痛み悲しみの時に彼らと苦悩を共にする

仲間としての神へと素早く替わられたのです。

  旧約聖書を一貫して神様のみ心の中に十字架が存在していました。

そしてカルヴァリです。それは、久しく神様のみ心の中に植えられていたもの

が、私たちすべての者のために、突然びっくり仰天させられるほど明瞭に見え

ることができるようになったということなのです。

  そして過去2000年の間、木の十字架がカルヴァリの丘から降ろされて以来、

神様のみ心の十字架はそのまま残り留まっているのです。この世の中に一人で

も罪ある人がいる限り、その人のために苦悩するために、苦悩の十字架は神様

のみ心の中に残るのです。

  神様とはどのようなお方であろうかという私たちの人間的理解、想像概念、

考察に対して十字架は私たちに挑戦を挑むのです。

  私たちは神様をただ単に高く挙げられたお方だと考えるかも知れません。

あるいは神様をはるかかなたの栄光の雲の中に包まれたお方だと理解している

かも知れません。

  しかし、恥を忍んで身をかがめる神、身分を低くする神、恥を堪え忍ぶ神と

して十字架は神様を私たちに示すのです。

  私たちは神様を不死身の、傷つかない神、私たちの生活、私たちの人生など

によって影響されたり動かされたりしない神として捉えたり考えたりしている

かも知れません。

  けれども、十字架は、神様が私たちに対してご自身を傷つきやすい、攻撃さ

れやすい神となさっていることを示しているのです。ご自身を全世界に対して

弱いもの、力なきものとして隠すところなくお示しになっている神として示し

ているのです。

  私たちは神様をご自身の超越した力を駆使して何でもご自分のご意志を絶対

的にとおし抜かれる神として捉えているのかも知れませんが、十字架は神様が

あえて苦悩する愛の手段を敢えてとおしてみ旨をなし給う神でいらっしゃるこ

とを教えているのです。

  そして十字架において私たちは、その愛が支払った計り知れないほどの犠牲

の値の一部分を瞥見することができるのです。

そこで私たちはその苦悩する愛の強烈なあこがれ、思慕、熱望を知るのです。

  十字架こそ、神様のみ心がどのようなものであるのかを最も明瞭、的確に私

たちに教えてくれているのです。

 

  第二番目に、十字架は、人の罪の本質と神様の恩寵を明らかにするのです。

もし十字架が私たちに神様のみ心への一番はっきりとした窓なりレンズを提供

しているのなら、それは同時に人の心への窓なりレンズをも提供しているので

す。

  私たちは、私たちの罪が神様にどのような値を払わせたのかを理解するまで

は、私たちの罪を知ることはできないのです。

  私たちは、神様がどれほど長い道のりを経て私たちのところに来て下さった

のかを知るまでは、私たちが神様からどれほど離れたところにいたのか、どん

なに離れていたのか、どれほど私たちが神様から距離があったのかを知ること

はできないのです。

  私たちは、ただ単に罪を告白して、そして十字架の方に方向転換するのでは

ありません。むしろ、イエスが十字架の上に上げられるのを私たちが見て、

そこで私たちは導かれて罪を告白するのです。

  イエス・キリストの十字架は、人間そのものの高慢さに判決を言い渡すので

す。十字架は、私たちの不十分さ、弱さを告白するようにさせ、私たちを神様

の方に向けるようにさせるのです。

  十字架は私たちに問いかけるのです。十字架は私たちが私たち自身について

の本当の姿、私たちの真相と面と向かうことを要求します。

  そして私たちは私たち自身の厳粛な暗黒の真の姿と面と向かうことができる

のですが、それは十字架が同時に神様の恩寵が私たちの罪より更に深いところ

に常にその手を差しのべて下さっていることを教えているからです。

神様の恩寵は私達のすべての罪よりはるかに深いところにまで及ぶのです。

  十字架において神様の愛と憐れみは私たちの一番大きな失敗と私たちの一番

大きな求めとに出会って下さるのです。

  十字架をとおして神様は、お前の美徳を私に捧げなさいとか、あなたの道徳

的な立派さや性格的な良さを私によこしなさい。そうすれば私はそれに愛顧を

加えて冠をかぶせてあげよう…とおっしゃってはいないのです。

むしろ神様は十字架をとおして私たちに対し、あなたの罪を告白しなさい、

そうすれば私はあなた方に憐れみの雨を降らせよう、とおっしゃっているので

す。

  これらのすべてを通して私たちは十字架の神秘を語るべく導かれるのです。

  私たちが十字架を熟考する時、私たちの思慮や知性は消滅するのです。それ

は、私たちが英知に欠けているということでもなく、明瞭な思索に欠けている

ということでもありません。

  私たちが十字架を完全に理解することにしくじった理由というのは、私たち

が充分でないからです。私たちに造詣が深くないからではないのです。

  私たちは生贄ということに対して全くの門外漢であり、経験のない部外者だ

からです。それですから、私たちが神様の犠牲に出会うとき、私たちは

狼狽し、当惑してしまうのです。

  私たちはそんなにも少なくしか愛していないので、神様の愛が不可解なので

す。あいまいで、謎めいてしまうのです。

  私たちは、神様がとてつもない代価を支払ってまで許されたほどに他の人を

許したことがないのです。

  私たちは、神様があのような忍耐と愛をもって臨まれたほどに他人との不和

をかたづけようと自ら率先したことはないのです。

  十字架は私たちの生活や人生を問いかけ、私たちの罪を暴露し、更に聖なる

恩寵の深みをも示してくれるのです。

 

  第三番目に、十字架は神様を中心とする共同社会の規範、お手本を教えてく

れるのです。

  イエス様もパウロも私たちに十字架を担い、イエスに従えとの命令を発令し

ます。

  そしてバプテスマは、十字架に死に、復活し、*十字架にかけられた命に生

きる(*訳者注:直訳すれば「十字架状にされたいのち」 cruciformed life)

ことを力強く象徴するのです。

  ロマ書6章4節から6節にかけてパウロが力説することは私たちがキリスト

と一緒に十字架にかけられているということです。

キリストと共に埋葬されることが私たちに求められています。

  そしてキリストと共なる新しく創造された者へとキリストと共によみがえる

ことが求められています。

  バプテスマ、すなわち古き己を埋葬し、そこから新しい命へとよみがえり、

イエスに従って十字架を担い、イエスがなさったように私たちも他者のために

己が命を与えることをバプテスマが象徴するのです。

  日曜日ごとに私たちが主の食卓の回りに集まって主の聖餐に与る時、私たち

は主の死を宣言します。それは、キリストにある私たちの共なる生活の中心核

をキリストの死が提供して下さっていることを宣言し、私たちのありかたの

基準を公言することでもあります。

  また、そこで語られていることは、この世の人の目には愚かでたわごととし

て写りますが、私たちは身分の極めて低い奴隷の仕事、奉仕の業の生活に生き

るというのです。

 

  本日、ここで私は一つの訴えをしたいと思います。

  すなわち、私たちが、米国においてであれ日本においてであれ、私たちが

私たちであるということの中心核に十字架を復元する、十字架を本来あるべき

ところに戻すこと、戻そうではないかということです。

 

  〔アレン教授が日本語で〕

  われらの主イエス・クリストの恵みがあなたがたの上にありますように。

アーメン。