今朝、再び皆さま方と共にこの研修会に参加できる特権を改めて感謝いたし

たいと思います。皆さま方は妻と私にとても親切にして下さっております。

  皆さまと共に礼拝に参加し、神様への皆さんの献身を目の当たりにして、私

は大層励まされ、また、感銘を覚えております。

  更に、私は皆さまにお話申し上げるに際し、私の限界を覚え、私の不適当さ

を覚えております。

  ここにお集まりの皆さんは、いろいろな多様性をお持ちの方々とお見受けい

たします。また、皆さんの多くは福音を長年にわたり宣べていらっしゃる方々

だと認識しております。

  それでありますから、私が今日申し上げることを決して僣越なこととおとり

にならないようにお願いいたします。

  私は米国のキリストの諸教会と、その歴史には精通していると思っておりま

すが、残念ながら日本の状況につきましては無知でありますので、皆さま方の

忍耐をお願いしなくてはなりません。

  また、私たち夫婦に対して、鈴木政夫さん、小幡史朗さん、そして野村基之

さんがいろいろと親切なご配慮をして下さっていることに改めて感謝したいと

思っております。

  さらに、この際、冒頭で申しておきたいことは、今朝の一時間半の講演のあ

とでの質疑応答の時間を楽しみにしている…ということです。

そして、皆さまからのコメントを伺い、皆さんのご質問を理解すること、そし

てそれらに私が応答することが今朝のもっとも大切な時間だと感じています。

それでありますから、私が今朝お話申し上げております間に、皆さまがおっ

しゃりたいことをお心に留め置いていただきたいのです。

  そうすることによって、私にはそれが皆さまを理解するのに役立ち、全員が

より良く私たちの遺産を理解し合えるのにも役立つと思います。

 

  昨晩、私の講演で、私が申し上げましたことは、私たち自身を時間の中で捉

えることが大切であるということでした。

  私たちが、ある特定の伝統の中にいるということを自覚することが重要だと

申し上げました。

 

  どなたかが昨夜お尋ねになりましたが、私が「伝統」という言葉をどういう

意味で使っているのかを鮮明にしておかなければならないと思います。

  私が「伝統」と言う時、それは、私達が前の世代から次の世代へと引き継い

でいるもので、私たちが参加して、避けられない歴史的過程の中で、私たちが

価値あるものとして次から次の世代へと手渡して来たものを指します。

 

  人々は、その人にとって大変に価値あるものと認めたものを次の世代へと

継承して行きます。

  私が大事なこととして強調いたしましたことは、ある事柄を継承するという

ことは人の手を経て継承されて行くということです。それですから、そこには

人間の思想や人間の解釈が反映されるということです。

  それでありますので、私たちが何かを継承する時に、まず、それを注意深く

吟味することなしに受け継ぐことは決してできません。

  私たちに手渡されたものを、伝えられて来た伝統を快く吟味する態度を絶え

ず保持しなければなりません。

  こういうわけで、私たちの著作である「Discovering Our Roots」 の基本的

大前提は、復帰の理念をより広い眺望から理解すれば、私たちが受け継いで来

たものを更により良く理解し、継承できるだろう…という姿勢です。

  もし私たちが、より広い眺望から復帰運動の理念を理解できるとすれば、私

たちは、伝統として私たちに手渡されて来たものを、より良く受け継ぐことが

できるだろう…ということです。

 

  今朝、私は、私たちの運動の前にいた人々が、如何にしてキリスト教信仰を

復元しようと試みたのか…という点の概略を述べたいと思います。

  この著書、「Discovering Our Roots」 の第一章で、私たちキリストの諸教会

においては、復帰運動の源流、始祖が四つあると主張し、論証しています。

 

  まずその四つを簡単に列記してみましょう。

 

  まず最初に、そして最も大切なものは聖書資料 biblical documents です。

これらは私たちにとって私たちが誰なのか…を知る最高の源流、主流をなすも

のです。私たちは何よりも聖書的な群れ、聖書的な人間でありたい…と願う者

どもです。

  私はこの章の中で、私が呼ぶ「聖なる源流」と、「私たちの近代の歴史的

源流」とを明白に区別しておきました。

  私たちには、聖書的な源流の他に、少なくとも三つの私たちの近代の歴史的

源流を持っていると考えます。

  それですから、三つの内でまず最初のものは、プロテスタントの宗教改革

Protestant Reformationです。16世紀のプロテスタント改革の内から流れあふ

れ出ているものは聖書への復帰・復元運動家の思索の流れです。

  この流れは、聖書の本質・特質に関する私たちの憶測・仮定を形成して来ま

した。

  この本の中で私たちが扱っている私たちの第二の近代の源流・ルーツは、

age of reason 理性時代とか、時として(18世紀のヨーロッパにおける)啓蒙

思想の時代と呼ばれているものです。のちほど更に詳しく述べたいと思います

が、この理性時代と呼ばれているものは、私たちの遺産に深遠な影響を与えた

のです。

  第三番目の、私たちの近代の歴史的ルーツは、ストーン、キャンベル運動

(Stone-Campbell Movement) そのものです。

 

  ここで、しばらくの間、これら三つの近代のルーツを考えてみたいと思いま

す。そして、手短な要約を述べてみましょう。

 

  まず最初に私はプロテスタント宗教改革から始めたいと思います。

しかし、プロテスタント宗教改革から始める前に、もう一歩歴史を遡る必要が

あります。

  主として15世紀にキリスト教ヒューマニズムという運動がありました。

これは学問的な運動でありました。この運動は基本的に復帰運動に促進力を

準備するものとなり、それがプロテスタント宗教革命者たちに影響を与えたの

です。この運動の中心的指導者はロッテルダムのエラスムスでありました。

  エラスムス (Erasmus of Rotterdam) はギリシャ語の学者でありました。

  彼の関心は聖書の原文の回復にありました。ヒューマニストたちの標語、

スローガン、すなわち人道主義者たちの叫びは、ラテン語で ad fontes、すな

わち、『源泉に戻ろう』とか『出典源に戻ろう』ということでありました。

  これらの人々は、数世紀の流れの内に、どんなにか聖書テキストの改ざんが

行われていたのかを理解していました。そこで彼らはいろいろな聖書の写本を

比較する作業をとおして正確な聖書テキストを回復することを求めたのです。

  エラスムスは原始教会の復元を主張したのではありません。

むしろ、エラスムスやキリスト教人道主義者たちは、その時代に対して新しい

思考の型を与えたのです。彼らによる新しい思考の型の基本的な信念は、真理

とは、いにしえの諸源泉に戻ることである…としたのです。

  キリスト教人道主義者達(Christian humanists) は、プロテスタント改革が

繁栄する環境作りをおこなったのです。

 

  キリスト教人道主義によって最も影響を受けたプロテスタント宗教改革家は

フルドライッヒ・ツウィングリー Huldreich Zwingliでした。(訳者注:日本

ではツヴィングリーと呼ばれることが多いが講師の読み方に従う。以下同様)

  ツウィングリーはローマ・カトリック教会の司祭でした。若い司祭として

彼はエラスムスや初代教会教父の著書を数多く読み、ギリシャ語とヘブル語を

学びました。12年間にわたり司祭として教会に仕えました。

  しかし、1516年に到り、ツウィングリーは聖書だけに彼のメッセージを求め

るようになりました。彼は一つの結論に達しました。そして自らに言い聞かせ

たのです。『私はすべてを捨て、神の御旨を神の御言葉から直接学ぶべきなの

だ』。

  彼がこの結論に到着するに到った手段・道具は、特にキリスト教人道主義の

「言葉・語学」という道具でした。彼は新約聖書ギリシャ語に完全に精通して

いたのです。彼はエラスムスの新約聖書釈義・意訳 paraphrase を読破してい

ました。その結果として、ローマ・カトリック教会の多くの慣習は根拠の確か

なものではない…との確信の増大でありました。そして、その反対に、福音は

単純で明瞭なものである…との理解を深めていったのです。

 

  この結論からツウィングリーはスイスに於ける宗教改革を開始したのです。

彼は1519年にチューリヒの大聖堂の説教者になりました。聴衆にとって大きな

驚きは、彼がマタイ福音書から説教を始めたということでした。その当時、そ

のようなことは全くおこなわれたことのない前代未聞の出来事だったのです。

  彼は徐々にチューリッヒに於けるクリスチャンの礼拝を変え始めました。

ツウィングリーは御言葉だけが教会における総ての事柄の規範であると結論づ

けました。

 

  この確信において、ツウィングリーはエラスムスとは異なった立場を採るこ

とになりました。ツウィングリーは緩やかな改革の動きを採りました。

  しかし、長い年月の内に、衝撃的な諸変化がおこっていました。

大聖堂の飾りもの、聖人像などを総て取り払いました。聖画や祭壇用の装具な

ども撤去しました。オルガンも破壊してしまいました。司祭の法衣も取り払い

ました。壁を白に塗り変えました。カトリックのミサを「単純な記念としての

主の晩餐」に変えました。

  ツウィングリーの信念によれば、新約聖書の御言葉によって明白に許可され

ていないものは総て廃止されるべきである…ということでした。

 

  ツウィングリーが復元しようと試みたものはルターのものとは非常に異なっ

ていました。

  ルターは、福音が包み隠されない限り、教会内のいろいろな形式はさしつか

えないと信じていました。しかし、ツウィングリーは、新約聖書の形式だけが

追従されるべきだと信じていました。

  けれども、ツウィングリーにおいてすらバプテスマになリますと不一致・

矛盾を見いだすのです。彼の初期の頃、すなわち彼が新約聖書信仰を復元しよ

うとしていた時、幼児洗礼 (infant baptism) の拒否を考えていました。

  しかし、彼の国教会と制度への忠誠が彼の幼児洗礼否定への態度を妨げてし

まったのです。ツウィングリーは、信者のバプテスマ、あるいは成人の全身

浸水 emersion の慣行は、教会を分離主義者のセクトへと導いて行ってしまう

だろう…と信じていたのです。

  スイスのアナバプテストたち(訳者注:一般には再洗礼派とか再浸礼派と呼

ばれている教群)、たとえばメノ・シモンズなどは、この点においてツウィン

グリーに強い圧力を加えたのです。しかし、ツウィングリーは心を変えません

でした。

  いく人かの学者たちは、この点におけるツウィングリーの矛盾を指摘するの

です。ツウィングリーが新約聖書教会の復元を語る時、彼は広範囲に、また、

しばしば新約聖書から引用するのです。

しかし、話が幼児洗礼になりますと、彼は新約聖書に何も例を見いだすことが

できないのです。それで、幼児洗礼を擁護するために、彼は旧約聖書をめく

り、割礼について語り始めるのです。

 

  スイスの宗教改革家たちの中にはツウィングリーに追従する人々がありまし

た。その内の一人がジョン・カルヴィン(John Calvin) です。(訳者注:日本

ではカルヴァンと使うことが多い。ここでは米国式発音に従う。以下同様)

彼はジュネーヴに住んでいました。

  カルヴィンは一方でツウィングリー、もう一方でマルチン・ルターの中間

地点に立っていた…とでも言えると私は思います。

  カルヴィンは、一般に改革神学者 (Reformed theologians) と呼ばれるよう

になった人々の中で、最も影響力の強い人物となりました。

  カルヴィンも復帰運動者ではありましたが、ツウィングリーほど厳格ではあ

りませんでした。

  カルヴィンは、彼の目標とするものはキリスト教の総ての慣習を本来の純粋

さに戻すことである…と、かつて言ったのです。しかし彼が新約聖書への復帰

を強調した時、それはもっと穏やかなものでありました。

  彼は律法主義的な模倣に向かう傾向を防止したいと努めました。

彼は、教会の形式や慣式や典習などの問題が福音そのものを覆い隠してしまっ

てはならない…と信じていたのです。

  カルヴィンは新約聖書の諸形式そのものは良いのだが、それ自体が目標では

ないと信じていました。新約聖書の諸形式を復元する目的は、福音を宣べ伝え

る者を助けると共に、教会を維持することである…と信じていたのです。

 

  それではここで宗教改革のもう一つの局面を眺めてみましょう。

  今度はイングランドです。

  なぜかと申しますと、私の理解では、復帰運動の迫力はスイスの宗教改革者

たちからイングランドを経由してキャンベル親子の思考を形成したと信じてい

るからです。そして、その流れがアメリカに渡って来たのです。

 

  皆さんもすでに良くご存知だと思いますが、英国の宗教改革は、国王ヘン

リー8世が教皇から袂を分かった時点から始まったのです。国王は彼自身を

教会の頭としたのです。

  ヘンリー8世の息子のエドワード6世が王位についた時、エドワード6世が

イングランドを更にプロテスタントにしたのです。彼は当時まだ英国国教会で

使われていたローマ・カトリックの諸儀式や祈祷書を放棄しました。

しかし、エドワードはその後間もなく死亡しました。

 

  王位はメアリー(またはメリー、以下同様)王妃によって継承されました。

メアリーはローマ・カトリック教徒であったので宗教改革を逆転させ、ローマ

・カトリック教会をイングランドに招き戻しました。

  メアリーは 300名以上に及ぶプロテスタントの指導者たちを焚刑に処したほ

どの人物で、通常「血のメアリー」と呼ばれています。

  彼女が王位に鎮座ましましていた1550年代には、多くのプロテスタントの

指導者たちは処刑を逃れるためにヨーロッパに避難しました。

  これらのプロテスタントの指導者たちはスイスを初めとし、ヨーロッパ各地

のプロテスタント改革の中心地域に居を構えたのです。それらの地で、避難し

て来た指導者たちはツウィングリーやカルヴィンについて、復元運動の努力に

ついて学んだのです。その地で彼らはイングランドから「血のメアリー」が早

く取り除かれることを神様に祈ったのです。

  これらの人々が信じたことは、この恐ろしい期間は、彼らが原始初代教会へ

の完全な復帰を怠ったために神様が下された罰である…いうことでした。

  多くの人々は、神様がもう一度チャンスを下さるならば、今度こそ彼らは

神様の教会の秩序を完全に復元すると神様に誓いを捧げたのでした。

 

  1558年にメアリーは死亡しました。エリザベスが王位を継承しました。

亡命していたイギリス人たちがイングランドに戻って来ました。

そして彼らがイングランドで一番早いピューリタンになったのです。

  彼らはイングランドの教会を浄化する集中的な運動を打ち上げました。

彼らの励ましは、エリザベス王妃がプロテスタントであったということです。

  説教台から、また多くの書籍から、パンフレットから、新約聖書教会を復元

するための主張を唱道したのです。

  教会の頭であるエリザベス王妃に、聖職者が使用していたいろいろな祭服や

祈祷書などを廃棄するように要求しました。なぜなら、それらの意味するもの

は人間が作ったいろいろな儀式であったからです。彼らは新約聖書から自由

に、そして公に堂々と説教できるように求めました。

 

  しかし、エリザベス王妃はそれらの要求に難色を示しました。

彼女は英国国教会を治めるためにビショップ(訳者注:英国国教会の場合には

新約聖書が言う「長老・監督」ではない)「主教」を置きました。

  彼女は礼拝の時に用いるいろいろな祈祷や儀式を含む公式の祈祷書を設定し

ました。更に彼女はピューリタン(訳者注:=清教徒のこと)の説教に制限や

枠を加え始めました。ピューリタンたちは逮捕や投獄の危険に直面することに

なりました。

  その後、すなわち、1560年から1600年までの40〜50年間、ピューリタンたち

は懸命に新約聖書教会の復元を強力に促進しようとしましたが成功しませんで

した。この間にもピューリタンたちは絶え間なく新約聖書の模範を訴えたので

す。

  その間、清教徒たちが感じていたことは、彼らの国イングランドは神様と

契約関係にあるということでした。そして彼らが信じていたことは、もし彼ら

が純粋な原始初代教会を復元できないとすれば、神様は彼らの国を罰せられる

であろう…ということでした。

そこで、17世紀、1600年代が始まった時、多くの人々は神が滅びをもたらされ

るであろう…と恐怖におののいていたのです。

 

  エリザベス王妃が死に、新しい王が統治を始めました。ジェームス王です。

そこで再びピューリタンたちはジェームス王を訪れ、新約聖書教会の復元を

強く求めたのですがジェームスは耳を貸さず、ピューリタンたちの計画を受け

容れませんでした。

  後になって、ジェームス王は、彼の意のままに動くアーチビショップたち

(訳者注:英国国教会では大主教または大監督の意)をとおしピューリタン

たちに対し更に厳しい態度で臨み、取り締まりを強化し、迫害し、逮捕し、

清教徒たちの説教を禁止するようになっていったのです。

 

  ピューリタン主義、ピューリタン運動は、このような理由で、地下に潜った

活動となっていきました。彼らの多くは新世界であったアメリカへの海外移住

を考え始めます。

  1620年代後半にジョン・ウインスロップ(訳者注:John Winthrop イギリス

のアメリカ行政官・総督、ケンブリッジ大学卒後弁護士になるも清教徒であっ

たために罷免される。チャールズ1世の許可を得てアメリカのマサチューセッ

ツ湾の植民地総督となり、1629年に清教徒の一群を引率して渡米、本国の妨害

に抵抗しつつ同植民地の開発に尽力した人物)は3隻の船を率いてアメリカの

マサチューセッツに向け出帆しました。

  アメリカの自由な空気の下で、イングランドで設立することができなかった

真の教会を設立する決意を新たにしたのです。このアメリカへの偉大な移住

を私は復帰運動者たちの十字軍と呼んでも差し支えないと信じています。

 

  イングランドからアメリカに渡って来た影響力の大きな説教者の一人が、

ジョン・カットン John Cotton (1584-1652)でありました。ケンブリッジ大学

を卒業した人物で、当時の最高教育を受けた説教者でした。

(訳者注:ケンブリッジ大学に学んだ清教徒で、イングランドを脱出して米国

マサチューセッツの植民地に移住、ボストン第一教会の牧師を勤めた人物)

  彼には数多くの著作がありますが、それらを一貫するものは新約聖書復元へ

の熱烈な関心が脈々と流れていることです。

  私の共著である「Discovering Our Roots」の51頁上部に彼の言葉の一部を

記しておきました。それを簡単にご紹介いたしましょう。

  『新しいいろいろな伝統を我々の上に押しつけてはならない。〔しかし〕私

たち〔教会〕が最初から持っていたもの、〈真に古いもの〉、本当にいにしえ

から存在していたもの、原始初代教会からあったもの、すなわち、新約聖書の

ことですが、最初からあったもの、いにしえから存在したものが初代教会を

我々にそのままもたらすものであり、〔もし今の宗教的形式〕が〔初代〕教父

たちよりも高く浮かび上がるものであるならば、その形式は若過ぎる考案物で

あり、聖書以外にどのような書き物であっても〈真に古いもの〉を申し立てる

ことはできない…。すべての誤りは最初からの常軌逸脱である。

〔結論的に言えば〕、彼の絶え間ない訴えは、いにしえの生活を生きなさい、

あなたの服従はいにしえの規則、新約聖書の規則によって支配されなさい、

そして、いにしえの道、初代原始教会の道を歩みなさい…』と、彼は繰り返し

訴えたのでした。

  1642年に彼は「The Way of the Churches of Christ in New England」と題す

る一冊の本を書きました。この著作の中で、彼は彼が信じている理解で、真の

教会を組織するために新約聖書教会のあるべき姿を設定しました。

  たとえば、彼が考えていたことは、どのような教会であっても、教会という

ものは、ひとつの単立教会以上に大きなものであってはならない…ということ

でした。このことの意味するものは、彼は、単立教会を超えていくつもの教会

を支配する英国国教会の監督制と長老制を拒否したのです。

  カットンの信念・理解は、その著作の中でも明白ですが、教会とは、多くの

クリスチャン達が集まり、一緒に契約を結ぶことによって成り立つのだ…とい

うことでした。この契約によって彼らは一緒に神様の掟を是認し、教会を清く

保つ…ということです。

  彼は、次に、教会での役職について語りました。

クリスチャンの教えなり教義を教える牧師なり教師を持つべきである…と説き

ました。教会を治める長老たちが必要であることも説きました。

更に執事たちが存在するべきだ…と説きました。

  カットンは、このような方法が教会を形成する聖書的な姿だと信じていまし

た。

  すべてのことにおいて、カットンも清教徒たちも、一つ一つの実践が聖書的

な形に添ったものであるようにと努力をしたのです。

  誰であっても、ミニスターであっても、教会に関する事柄をその人の思いつ

きで実行したり取り決めてはならない…とも言いました。

 

  カットンからいくつかの例を挙げて、次の項目に移りましょう。

その内には congregational singing 会衆の讚美も含まれています。

  1630年代後半に、ジョン・カットンや他の人々は、詩編を讚美歌集で歌うた

めに翻訳するように頼まれました。この翻訳文は1640年に出版されましたが、

これはニュー・イングランドで出版された最初の出版物であったのです。

  この讚美歌集は「Bay Psalm Book」(訳者仮私訳と注:「マサチューセッツ湾

詩編集」で現在はボストン公立図書館に現物が保存されている)と呼ばれてい

ます。

  カットンは、クリスチャンは自分のために勝手に讚美歌を創案する権利はな

い…と信じていました。私たちは人間の手による讚美歌を現在持っています

が、カットンは、クリスチャンは神様がお書きになったもの、旧約聖書の詩編

だけを歌うべきだ…と信じたのです。彼の信念では、人間の手によって書かれ

た讚美歌は礼拝において歌うのに適していない…というものでした。

  また、これは初期の清教徒たちの典型的な傾向でもありましたが、カットン

の信念は、クリスチャンの礼拝において楽器は用いられるべきでない…という

ことでした。

  この点においてのカットンの信念について更に詳しくお知りになりたい方

は、「Discovering Our Roots」 (の54頁と55頁)に彼の意見のいくつかを紹介

してありますのでご覧下さい。

 

  このようなわけですから、カットンは情熱的な、強硬な復帰主義者でありま

した。しかし、間もなく、彼がキャンベル親子やストーンが提唱した復帰運動

とは多くの重要な点で異なっていることを私たちは理解することになるので

す。例えば infant baptism 、いわゆる「幼児洗礼」を実践しました。

また彼は、教会と国家はお互いに緊密な連係を保ち、一体となって社会を支配

すべきである…と信じました。

  また更に、彼らの判断から見て「偽りの教義、偽りの教え」を語る者は投獄

されるべきである…としたのです。

  そのような理由で、1640年代から1650年代にかけて、マサチューセッツで

は、彼らはバプテスト派の人々を逮捕し、鞭打ちの刑に処したのです。

  1650年代に彼らは数名のクェーカー教徒を逮捕し、死に至らせたのです。

 

  私は、ピューリタンの復帰運動は19世紀のアレキサンダー・キャンベルや他

の人々に強烈な影響を及ぼしたと信じています。

  どの様な衝撃・影響を与えたかについては、今ここでは説明を省き、第二の

源流、即ち、近代のルーツについて今朝の残っている時間を割いてお話申し上

げたいと思います。

 

  私はここで age of reason  理性の時代、あるいは age of enlightenment

啓蒙思想の時代における私たちの源流について話したいと思います。

  いろいろな学者によってしばしば位置づけが異なりますが、理性の時代を

1648年頃から1790年頃のヨーロッパの思想とするようです。

  注目に値するこの時期を理解するためには、私たちはいろいろな宗教戦争を

理解する必要があります。

  この時期までのヨーロッパでは、いろいろな異なった宗教的見解への寛容性

などというものは知られていませんでした。

  各国家にはそれぞれに確立した国家宗教がありました。それに同意しない者

は誰であれ非合法とされたのです。

  キリスト教信仰の些細な点に関してでも血なまぐさい戦争が絶えず戦われて

いました。フランスではプロテスタントとカトリックが剣をとって戦い合い、

多くの者が殺されました。ヨーロッパ大陸では30年戦争と呼ばれている戦争が

あり、30年間にわたってプロテスタントとカトリックが戦い合ったのです。

  これらの血で血を流し合う争いを前にして、きっと何か他に良い解決方法が

あるはずだ…とある人々が言ったのです。

もし人間がもう少し理性的・合理的であるならば、あるいは理知的であるなら

ば、そして宗教をその上に置けば、これらの戦いは終わるはずだ…と主張した

のです。

  それですから、多くの、あるいは、何人かの思考家が提案し始めたことは、

宗教というものをすべての人々が理性的に共通のものとして受け入れられる

基盤の上に置けば、我々総ての人々は融和を保つことが出来るだろう…という

ことでした。

  そのようなわけですから、16世紀と17世紀における理性の時代とは、まず何

よりも、宗教戦争に対する返答であったのです。

  啓蒙運動の思想家の何人かは、聖書こそが多くの戦争に対して責任がある

原因だ…と考えたのです。

  そこで彼らは、革命よりも、宗教は理性に基づくものでなければならないと

訴え始めたのです。どうして宗教というものを、誰もが同意できる必須不可欠

な実に単純なものに減縮できないのか…と訴えたのです。

  例えば、三位一体の教義ですが、それがあまりにも分裂・分派を招き易い

教義であったので人々は長年にわたって争い合ったのです。だから、それを

捨て去って、神様への単純な信仰だけを確信しよう…と主張したのです。

  啓蒙運動の思想家の中の何人かは聖書そのものを拒絶してしまいました。

他の思想家たちは聖書を信じましたが、聖書の新しい読み方を提案しました。

 

  それらの思想家の一人にイギリスの哲学者の John Locke ジョン・ロックが

あります。彼は、キリスト教信仰の基本的真理は単純な必須不可欠なものに煮

つめることができると信じました。

  ロックに言わせますとキリスト教信仰は単純なものだということです。

その信仰とは、イエス・キリストがメシアであり、彼の明白な命令のすべてに

服従すれば良いのだ…と言うのです。他にもクリスチャンたちが信ずる多くの

聖書的な教えがあるかも知れないが、それらのすべてを信じさせるために争い

合ったり、殺し合ったり、要求すべきではない…としたのです。単純な必須

不可欠な、根本的な、基本的なもの、エッセンシヤルだけで良い…と主張した

のです。

  このジョン・ロックの考え方がアレキサンダー・キャンベルや初期の私たち

のこの復帰運動を推進した人々に深い影響を与えたのでした。アレキサンダー

と彼の父のトーマス・キャンベルはアメリカに渡って来て、あらゆる種類の

宗教的分派・分裂を目撃したのです。勿論、アメリカでは、宗教信念の違いか

らお互いに殺し合いこそしていませんでしたが、それでも人々は確かに宗教的

見解・意見の違いのゆえに争っていました。

  キャンベルはロック式の思考によって訓練・教育されていましたので、当然

のことですが、キリスト教信仰を単純なエッセンシャルズ、基本的なものだけ

のセットに縮小・凝縮すれば、お互いに争っている人々は一体となれる…と考

えたのです。

  私の共著の「Discovering Our Roots」 の81頁に、アメリカにおける分裂し

た、論争し続けるクリスチャンたちの状況を熟考したうえでのトーマス・キャ

ンベルの唱えた解決法が紹介されています。

  『組織や信仰や礼拝やキリストの教会に、「かく主がのたもう」と明白に

表現されていないこと、明白に述べられていないもの、前例として何となく皆

が受け容れていること、すなわち、人間の権威や個人的な意見や人々の創案を

刻み込むような試みをしないで、あるいはクリスチャンの信仰や義務の事柄と

して持ち込まないで、聖なる頁に明白に展示されているもの、すなわち、キリ

スト教のオリジナルな単純で初期の形式を実践するように縮小すれば良い…』

というものです。

 

  これを更に単純に申しますと、新約聖書に示されているものですが、すべて

を初代教会の単純なキリスト教の形式に煮詰めてしまうということです。

  このような考え方は、啓蒙主義的な思考傾向であるのです。

それですから、理知的に聖書を考え、基本的・根本的・必須不可欠なものだけ

に煮詰めれば、ヨーロッパでの戦争を止めさせることもできたでしよう。

  もしこの考え方が正しければ、アメリカにおける宗教的論争をも止めさせ、

一致をもたらすであろうとキャンベルは考えたのです。

  こういうわけで、少なくとも二つの主要な歴史的影響の流れというものが

あってキャンベルの復帰運動を形成していったのです。

 

  一つは清教徒たちの流れの影響でした。

ピューリタンたちは教会のために、あらゆる点において新約聖書教会の形式や

型を一つ一つ正確に復元しようと努力したのです。

 

  しかし、その一方で、啓蒙主義運動時代の思想家たち、たとえば、ロックの

ような人は、聖書をいくつかの基本的、根本的、すなわちエッセンシヤルズの

セットに凝縮し、それによって一致を求めようとしたのです。

 

  これらの点につきましては、私は今までにもたびたび論じたのですが、そし

て今日ものちほど論じたいと願っておりますが、これら二つの影響の絡み合い

がキャンベルの考えとさらに撚り合わされして、それ以降の運動の過程におい

て不安定なものになって行くことが証明されてゆきましたし、更に、後になっ

て運動を裂き、分裂・分派へと導いて行く要因になってゆきました。

 

  ピューリタンたち、すなわち、清教徒たちは総ての人があらゆることにおい

て全く同意見でなければいけないし、しかもそれを正しくやらなければならな

い…と主張しました。そこには寛容性とか多様性の余地はほとんどありません

でした。

  それに引き替え、啓蒙主義の思想家たち、例えばジョン・ロックのような人

は、すべてのものを更に単純なものに煮詰めることに重点を置きましたから、

多くの事柄に対して寛容性と多様性の余地を残したのです。

 

  私は、これらの二つの力が、究極的には私たちの運動を継承的に不安定なも

のにしていったと論じ、それを証明したいと思います。

  過去150 年以上にわたって生じた私たちの運動の多くの分裂・分派は、これ

ら二つの要因に遡ることができると思います。

 

  それでは、ここで休息をとり、ディスカッションに移りましょう。