「ストーン、キャンベル運動に於ける聖書理解」

                        レナード・アレン博士

            1989年6月19日〜21日  東京YMCA野辺山センター

 

                                 

 

  まず最初に、本日こうして皆様がたと共に2日間を過ごす機会が与えられた

名誉にたいして感謝の意を表したいと思います。

  また、私は、これから皆様方と共に学ぼうとしている事柄に対して不充分な

者であると考えていますので、皆様方の忍耐とご理解を得たいと願います。

  更に、私は特に皆様方との質疑応答に参加できる時間を鶴首しております。

そして、私は皆様方からの質問を期待しております。それは、質疑応答を通じ

て私は皆様方をもっと良く理解できると思いますし、質疑応答に参加する過程

を経て私自身も皆様方から学ぶことができると思うからです。

 

  今夜、私は、最初に私たちの2日間にわたるすべての学びのために、まず

最初に共通の足場を設定してみたいと思います。

  そして今夜はディスカヴァリング・アワ・ルーツ 「Discovering Our Roots」

の第1章に述べられてありますいくつかの考えについて討議してみたいと思い

ます。(訳者仮訳:『私たちの先祖を捜し求めて』が講演者の英文著書名)

  また、私たちの学びに入る前に、私自身、少し自己紹介をしておきたいと思

います。

  私の一番最初のキリストの教会の記憶はアメリカ合衆国のフロリダ州の小さ

な町の小さなキリストの教会でありました。

  私の父は、長年にわたりキリストの諸教会の説教者でありました。

そして、私の一番古い記憶は、その教会で受けた教えです。

  父は、長年にわたってキリストの諸教会で説教をしていただけでなく、晩年

には、私が出席していた教会の長老の一人でもありました。

  妻の父も長年にわってキリスト教会の長老でした。

  ここで、このように申し上げましたのは、私と妻の二人は、どんなにか深く

この*レストレーション・ムーヴメントの教会の遺産を受け継いで育った者で

あるかということです。そして、どんなにかこの運動の遺産を我々夫婦は愛し

ているかということです。

(*訳者注:すべてのクリスチャンが人間的な教義や伝統を捨て、新約聖書に

啓示されている初代原始教会の礼拝、組織、個人の日常生活などの原則に立ち

返ることで新約聖書教会を復元し、そのことを通してすべてのクリスチャンが

一致することを求める運動のことで、日本の教会内では一般には聖書復帰運動

と呼ばれている。)

  また、私は、それが男性であれ女性であれ、この運動の先駆者たちと同じ気

持ち、同じ精神、同じ土俵に立つ者であると申し上げておきたいと思います。

  すなわち、アレキサンダー・キャンベル、バートン・ストーン、ウオル

ター・スコット、デイヴィッド・リプスコムなど、大変に多くの先駆者たちの

書き残された物などを長年にわたり読み、多くの人々から多くを学んだこと、

学んだ者であることを申し上げておきます。

  私は、これらの遺産をとおしてキリストへの信仰を得られたことに対して深

く感謝している者です。そして、私が生きている限り、その運動の最高の理念

に忠実に留まり続けたいと願う者であります。

 

  私にとって、霊的な先輩であるアレキサンダー・キャンベルや他の多くの

先輩から学んだことの一つは、復帰運動とは継続して行く必要性があるという

ことと、継続的であるということの一部には、過去とそのすべての人間の伝統

を、尊敬の念を抱きながら評価することを喜んでするということを含むという

ことです。

  私達が何処からやってきたのだろうか、私たちを形どった力や伝統がいかな

るものであったのか…などを理解することはとっても重要なことだと考えま

す。私たちがそれらを正しく評価し、理解することによって、私たち自身がそ

れらに対し更に明白な自己意識を抱くようになれるだけでなく、それらを今後

も更に継続して行けるし、時としてはそれらを正すこともできるからです。

 

  復帰運動の理念は、それを維持して行くのに大層むつかしい理念です。

その理念・理想とするものは、大変に誘惑に満ちたものです。

  と申しますのは、私たちは完全な理解に到達した…と誤解し、私たちの仕事

とは、その完全さ、すでに到達した、完全に復原された教会を保持して行けば

良いのだ…と捉えるか、それとも私たちの仕事は目標に向かう継続中の運動体

であると捉えるか…ということです。

  私たちはすでに完全な形の新約聖書教会を復原したのだ…と錯覚するのは実

に簡単なことです。そしてイエスさまが望まれている新約聖書教会を捜し続け

ることを放棄してしまうのは簡単なことなのです。

  私たちの先輩たちが失敗した所に私たちも野営して留まり、私たちの仕事が

前進するのを考えない…という落とし穴が、誘惑が時としてあります。

  私は皆様方の状況だけをお話している訳ではありません。それに私は皆様方

の状況を全く知りませんが、米国のキリストの諸教会については充分に知って

います。こん日、私たちは多くの課題・挑戦を抱えています。

 

  私たちは私たちの運動に於いて、どのような時にでも、危機や課題・挑戦に

当面した時、私たちが置かれている世代の内で、私たちが一体どこにいるのだ

ろうかということを問いかける必要があると思います。

  こん日、このことをするということは、私たちには過去があり、伝統がある

ということ、とくに相当な人間的な伝統を持っているということを認識するこ

とを意味すると私は思います。

  この仕事、私たちが置かれている世代・時代の内で、置かれている伝統の内

で、私たち自身の居る所を捜し出すという仕事は、最初は簡単そうにみえます

が、実はとても困難な仕事なのです。

  なぜかと申しますと、私たちの遺産であるストーン、キャンベルの復帰運動

は、過去から目覚めるという健全な発想、過去を忌み嫌うという考えから起

こったからです。

 

  バートン・ストーン、アレキサンダー・キャンベル、ウオルター・スコット

などや、運動の初期の指導者たちも、過去の腐敗した歴史を捨ててしまいたい

という発想から運動を始めました。彼らは過去の歴史というものが、ただただ

混乱と世俗的論争、すなわち、死せる伝統のみをもたらしたと考えたのです。

  それですから、彼らは断固とした一つの立場を採ることを決め、混乱と伝統

をふるい落としたい、掃き出したいと願ったのです。

汚染された川の流れをきれいな水の流れる川に戻したいと願ったのです。

この、清い出発点に戻るという試みこそが復帰運動の特性なのです。

  しかし、この初代教会の姿に戻る、出発点に戻るという崇高な理念の内に、

実は誘惑と言いますか危険さが含まれていたのです。

  その危険性、あるいは誘惑とは、私なりの表現を用いますと、ヒストリー・

レス・ネス (History-less-ness)ということです。(訳者注:「それまでの

歴史を無視する」とか「それまでの歴史を否定する」とか「無歴史性」とでも

訳せたり、意味する一種の翻訳困難な用語)

  この表現はどういう意味かと申しますと、他の諸教会(訳者注:他の諸教派

のことと思われる)がただ単に歴史や伝統の中に捉えられている間に、私たち

の教会だけが全く他の教会や人間の総ての伝統のはるか上に、何者にも束縛さ

れたり支配されることなく、聳え立っているという信念のことを言います。

  他の多くのクリスチャンのグループが多くの伝統の重荷の過程を経てあえい

でいるかも知れない間に、私たちの教会だけはそのような歴史を持たず、従っ

てそのような伝統を持っていないというような意見が存在しているようです。

  キリストの諸教会の中には、時として、このことが意味することは、過去の

1800間のクリスチャンの信仰の歴史を全く価値のないものとして放棄してしま

うということを意味したのです。

  同様に同じ態度が、私たちの群れの人々の間にも私たち自身の歴史を放逐し

てしまう、私たち自身の復帰運動の歴史をほとんど価値のないものとして扱う

という態度に導いていってしまったのです。

  このような訳で、私たちの起源が聖書から発生したもので、その以外から出

て来たものでない事を考える時、私たちの教会が新約聖書教会であり、それ

以上でもなく、それ以下でもない事を考える時、過去というものは私たちに

とって全く重要でない…という発想が私たちの間に巣くってしまって久しいの

です。

  しかし、私たちの過去は重要であり、私たちの過去の少なくとも一部分は

人間的な過去であったということを認識することは重要な事だと私は信じてい

ます。

  なぜかと申しますと、それは、皆様がたや私と同様の人間が、崇高な理念に

動機づけられながらも、その理想に必ずしも到着できなかった人間によって築

き上げられた過去だからです。

  このような訳で、こん日、私たちは、私たちの過去と正面切って向かいあ

い、しかも、鑑識眼をもって過去を熟視し、吟味する作業に従事する必要があ

ると私は信じています。

  そのような作業、すなわち、私たちの過去を学び、私たちの過去を厳しく

吟味・批評するという学びをとおして、私たちの復帰運動に参加する者として

の私たちのアイデンティティー、すなわち、こん日、私たちが誰であるのか…

を助けてくれると信じています。

  私たちの過去を厳しく検証するという作業をとおして、それが復帰運動へ

忠実であるという事の基本的な要素を構成すると私は確信しています。

  私がクリティカルと申します時、それは一体どういう意味なのかを申し上げ

る必要があります。(訳者注:クリティカルは、批判的とか根源的とも訳せる

が、ここまででは鑑識眼とか吟味とか検証と訳してみた)

  私がクリティカルと申し上げる時、それは批判的とか、軽視するとか、感謝

の眼で眺めないとか、冷酷なという意味で使っているのではありません。

また、私がクリティカルにと申し上げます時に、こん日迄に築き上げて来たも

のを切り捨てるとか解体するように努力するという意味ではありません。

 

  それでありますから、これから私が申す「クリティカルである」ということ

の意味をご説明させて頂きましょう。

  それは、歴史的な人物なり、動きを、その人々や運動が起こった時代に置く

という作業の意味であり、その運動とそれが起こった時代や文化との複雑な、

込みいった、複合的な相互御関係を尊重するという意味です。

  私たちが私たちの過去を正しい態度で批評、批判する時に、私たちは私たち

の過去を急いで否定的に裁いたり、批判したりすることを求めるのではありま

せんし、また、その反対に、私たちの過去を短絡的に弁護したり、正当化した

り、支持したり、肯定するものでもありません。

  私が意図する、意味する批判的である、批評的である、クリティカルである

という真意は、私たちの過去を、その過去が置かれていた文脈の中でできるだ

け正しく評価しようということなのです。

  私たちが現在置かれている次元、文脈で批判・批評するということではあり

ません。

  過去にたいしてこのような態度で臨む時、私たちが大切にして来た諸解釈に

疑問を抱くことに躊躇したり、恐れたり、萎縮したりしてはなりません。

  過去にたいしてこのような真摯な、真面目な批評の態度をもって臨みません

と、結果的に私たちは先に召された先輩達を欺き、たぶらかすことになりま

す。私たち自身に都合の良いペット的な伝統や目的のために過去を簡単にゆが

め、曲げてしまう結果となります。

  私たちが私たちの過去と、このような正しい態度の批判・批評で取り組む

時、先ず最初に私たちは過去を理解しようとする事を探究する必要があります

し、その間、私たち自身も私たち自身の限られた物事の見方から完全に逃れら

れないことを知らなければなりません。

  私たちが私たち自身の過去に、私たちの判断にあらゆる欠点、欠陥があった

と知るに至ったとしても、私たちは過去と、その過去の歴史の内にあった人々

を尊重する態度を維持しなければなりません。

  それはなぜかと申しますと、私たち自身も彼らと同じ様に、多くの欠点や

欠陥を持っている者であると理解しなければならないからです。

 

  私たちの新約聖書教会復帰運動の困難さのひとつは、私たちが過去にたいし

てこのような姿勢で臨むことに躊躇していたからです。すなわち、批判的、

批評的に過去の歴史を眺めるということをためらっていた、怠っていたという

ことです。

  私は皆さま方に覚えておいて頂きたいことがあります。

  それは、もし、私たちの先輩たち、例えばバートン・ストーンやアレキサン

ダー・キャンベルが彼らの周辺にあったいろいろな伝統を批評することなし

に、彼らはキリストへの信仰へと導かれていっただろうか…という点です。

  彼らを長年に亙って支えて来ていたもろもろの伝統を彼らが批評しなかった

と仮定するなら、一体彼らはどうなっていたのだろうか…ということです。

  それらの先輩たちが、彼らの時代に在って、彼らの理解において、真理、

真実のために、彼らが彼らを取り巻いていた伝統を破ることに過激でなかった

ならば、根源的な問いかけをすることにためらいを覚えていたならば、どう

なっていたというのでしょうか。

  私たちの新約聖書教会復帰運動というものは、本当のところ、人間的伝統と

いうものから下って来る内から生まれて来たのだ…ということです。

 

  これは、以下のように考えたら良いかと思います。

  過去百年間のこの新約聖書復帰・復元運動において、この運動が本来は人間

的な諸伝統を根源的に、過激に問いただす運動体であるとしばしば私たちが

主張しながら、実際のところ、私たちは、こん日では、私たちの伝統を根源的

に問うことを止めてしまったということです。

  繰り返しますが、過去の百年間、私たちは、人間的諸伝統を根源的に、過激

に問いかけるという奇妙な運動の中に私たち自身を見い出しながら、そういう

運動の伝統に疑問を投げかけることができない状態にいる…という現実にいる

のです。

  私がここで申し上げたい点は、私たちを私たちの信仰に導き養い育ててくれ

た新約聖書復帰運動の遺産に忠実であり得る唯一の道は、私たち自身の伝統や

遺産を尊敬の念を抱きつつ批評するということです。

  私はここで再び「尊敬の念をもって」という言葉を強調したいと思います。

それは、私たちが私たちの過去を批評する時、私たちの先輩達が人間であった

と同じように私たちも人間であると気づかされるからです。

 

  過去の歴史を批評的に吟味する必要があるのかということに関して、三つの

理由に絞って述べたいと思います。

 

  まず第一に、私たちの過去を批評的に眺めるという作業にたずさわる時、私

たちは過去からの伝統の上に成り立っているのだということをより強く自覚

し、自意識を抱くようになるからです。

  最初の問題は、私たちは人間的伝統の上に確かに立脚しているのだ…という

事実を確認することにあります。なぜかと申しますと、先程既に述べました

が、この「ヒストリー・レス・ネス」、すなわち「過去の歴史を無視する」と

か「過去の歴史はあたかも存在しなかったこととする」という私たちの理解・

態度が、私たちも人間的伝統の上に立つ者であるという事実から私たちの目を

閉じさせ、そむけさせ、くらませて来たのです。

  このような遺産を形成した人々は、しばしば、私たちには、私たちの伝統に

は人間的諸要素がない…と否定するのです。

それらの人々は、私たちは、唯ただ聖書だけの人間である…と主張されるので

す。それらの人々は、人間的伝統などに私たちは一切関係がない…と主張する

のです。彼らは「真実・真理だけが欲しいのだ…」と申します。

  そして、その「真理だけが欲しい…、真実だけを求めたい…」という主張こ

そ私たちの求めでもあるのです。そして更に、その「真理だけが欲しい…」と

いう渇望は霊的な探索・探究の中心核の傍にあるのです。

  しかし、誰かが、「あらゆる人間的伝統から逃れたい」とか、「総ての人間

的伝統から逃れられた…」と口先で主張してみても、それが直ちにトラディ

ション・レス (tradition-less) 、すなわち、伝統のない、伝統の欠落した、

伝統に関係のない信仰に導くということにはなりません。

  むしろ、そのような態度・理解は結果的に更に抵抗力のない、傷つき易い、

感じ易い信仰へと導き、それは無意識の伝統主義にと陥れるのです。

 

  ここで私は英国の先輩の新約聖書の学者 F.J. ホート(Hort)とおっしゃる方

の言葉を引用したいと思います。

  『私たちが私たちの自由を操って本能的に真理を満喫しているように錯覚し

ているあいだに、私たちが気が付かないうちに私たちをとりこにしてしまうほ

どに空気は不純な伝統で満ちあふれて汚染されている…』、すなわち、彼の詩

を別の言い方で表現してみますと、ここでホートは私たちの新約聖書復帰・

復元運動の大きな問題のひとつを指摘していると思います。

  『人間的な伝統を一切抜いて、なしでやっている、やっていける…という

幻想を私たちが維持しながら、実は強力な伝統を築き上げようとする傾向に

我々がはまり込んでいることこそが実は問題である』ということになります。

  それですから、最初のポイントは、私たち総ては人間的伝統の一部分である

という事実を認識しなければならない…ということです。

  これは大変に重大なステップで、重大な事を認める第一歩なのです。

しかし、この大切な第一歩を踏み始めますと、私たちは直ちに次の重大な段階

を踏まなければならなくなります。それは、私たちが私たちの伝統を批評しな

ければならなくなるということです。

  そして私たちはその作業をしなければならないのです。なぜかと申します

と、それは人間の伝統だからです。私たちの先輩たち、キャンベルやストーン

は、人間の伝統というものは常に色づけられているので絶えず修正されなけれ

ばならないと主張していたのです。

  私たちが私たち自身の伝統を批評することができないのなら、私たちはその

伝統の中に捕らわれていることになります。そこでは私たちは私たちの伝統を

絶対化する傾向があり、私たちの伝統を偶像化してそれに仕えるようになるの

です。

 

  次に第二点に関してです。

  過去を批判的、批評的に検証するという作業は、他の諸伝統を異なった手段

で取り扱はなければならなくする…ということです。

  それは、他の伝統を謙虚に取り扱うということを意味します。

他の諸伝統をからかったり、冷やかしたりするという意味ではありません。

それらを馬鹿にすることではありません。

  それは、他の人々の伝統を、『何と愚かなことだ』とか、『何と無学なもの

だ』と極め付けるものではありません。私たちと異なる人々に対しても真実と

熱心さで応えてゆかなければなりません。

  また、彼らに対して正直さと英知を認めなければなりません。彼らが彼らな

りに聖書を大切にしようと努力し、神に忠実に仕えようと努力をしているとい

うことを認めることです。

  しかし、これらを実行するという事は我々にとって大層困難なことです。

けれども、あえて、このことをしようと努力するなら、何か大切なことが起こ

るのです。

  この過程を通ることによって、私たちは私たち自身の遺産に対して新しい

明察、洞察力を得るのです。他のいろいろな伝統に私たちが聴く耳を持つなら

ば、新しいいろいろな質問が生まれて来ます。そしてそれらは私たち自身が私

たち自身の伝統に対し、聖書に照らし、建設的な批評をすることを助けてくれ

るものです。

  そして、これこそが復帰運動・復元運動の理念のすべてであると言えると私

は信じています。すなわち、常に聖書に照らし合わせながら、謙虚に心を開い

て自分自身の伝統を批判し続け、更にその理念に忠実であろうとする姿勢で

す。

  そのような作業に従事するということは、自己批判の受容力を私たちに与え

てくれますし、悔い改めを与えてくれますし、従って霊的成長を与えてくれる

のです。

 

  第三のポイントです。

  過去の私たちのいろいろな伝統を建設的に批評するということは、私たちの

聖書解釈というものが常に人間の試み、人間の努力である…ということを、

もし私たちが忘れることがあるとすれば、思い起こさせてくれるということで

す。

  私たちは、神学とか聖書解釈とかは、聖なる啓示の人間的解釈である…と気

が付くかも知れません。私たちは、神様は御言葉の中に、また歴史の中にご

自身を啓示されているということを信じています。

  重ねますが、私たちすべての者は、神様は、御言葉と歴史の中に、完全に、

最終的にご自身を啓示されていると信じています。

  しかしながら、その神様の啓示に対し、私たちは私達が置かれている時代、

文脈の中で解釈するのですから、どうしても創造された者としての制限、限界

内で作業するということも認めざるを得ません。私が信じていることは、

どのような人間の解釈、注釈であっても、それをあたかも神のように祭り上げ

て絶対化するとか、覆すことができないものとすることはできないということ

です。

  それが、たとえアレキサンダー・キャンベルの解釈であっても、絶対化する

ことはできないのです。彼は1835年に(Christian System)クリスチャン・シス

テムという本を書きました。

  このクリスチャン・システムの中で彼は彼のキリスト教信仰の組織的解釈を

きちんと整理すること、展示することを試みたのです。

  しかし、私たちがここで理解しておかなければならない点は、それは、彼の

著作の一部分はクリスチャンのシステムですが、同時にその一部は彼自身の

システムであるということです。

  この認識、自覚というものが私たちに教えてくれることとは、私たちは今後

も引き続き神様の御旨を理解する努力をし続けなければならないということで

あり、お互いに対して謙虚に、祈り合い、忍耐しながら、その作業を続けてゆ

かなければならないということです。

  その昔、ストーンや、キャンベル親子や、その他の人たちが、真剣に求めた

と同じ探究を私達もそのような謙虚な態度で継続できるはずです。

  こん日、私たちも彼らと同じ探求の道を、喜びと求道の精神で引き続いてや

れるはずです。神様のみ言葉を真剣に、まじめな態度で求めるならば、いつで

も新しいものの見方、洞察を発見してそれを歓迎すること、その喜びに浸るこ

とができます。

  私達が真剣に、真面目に聖書を学ぶなら、過去において良いことであると思

われていたことであっても、それを覆して、新しい聖書の読み方を得て、落ち

着く自由を得られるはずです。

  この態度こそ、聖書復帰運動の偉大な精神であると、私は考えています。

私達はこのことをやれると信じています。なぜならば、私達を救うのは最終的

には私達の神学ではなく、福音のメッセージの中に述べられている恵み深い神

様の業こそが私達を救って下さるものだと信じているからです。

  それですから、日本であれ、アメリカであれ、我々の前には胸わくわくとす

る挑戦が待ち望んでいるのです。

  ストーンやキャンベルが私たちに遺してくれた理念を私たちが継承して、

私たちも聖書を私たちの全力を尽くして誠実に捜し求めることができますし、

更にまた、聖書から私たちが見いだしたものに、学んだ教えに、自由に従うこ

とができます。

 

  ここで、今まで述べて来ましたことと違ったことを一言申し述べて終わりた

いとと思います。

  今まで私が大切なこととして焦点を合わせて来ました点は、私たちはこん日

人間の伝統の枠の中に立っているのだ…という事実を素直に見つめる必要があ

るということです。

  そしてまた、聖書復帰運動の理念なり原則に忠実であるということは、この

ような点を私たちが認識することによるのだと私は信じています。

  しかしながら、この伝統の人間的な面の認識は、それと共に危険をももたら

すのです。それは、或る人にとって、この伝統の人間的な面の認識に過剰にな

り過ぎて、それを拒絶してしまう可能性があり得るということです。

  私達は人間の弱さとか、主張とか自負などというものをそんなに遠くの方ま

で行って捜す必要はありません。私たちの中にある狭さとか、非寛容性とか、

律法主義などは、私たち自身が一番良く知っているのです。

幻滅することもあります。

  ちょっとしたことで消え去ってしまいそうになったり、みんな捨ててしまっ

て、最初から全部また新しくやってやろう…という誘惑に陥ることもありま

す。伝統などはすべて忘れてしまって、また新しくやり直そうというような夢

をはぐくむ人もいるかも知れません。

  私はそのような気持ちをよく分かる…と言いたいと思います。なぜかと言い

ますと、私もかつてそういう気持ちに陥ってしまったことがあるからです。

  しかし、過去のことなどみんな後ろの方に置いて、忘れ去ってしまうことが

できるなどと考えることは、大変なあやまちだと私は信じています。

  どうしてかと言いますと、皆さんも私も神様ではないからです。

皆さんも私も、この地球、世界をもう一度作り替え、やり直すなどという大そ

れた力を持っていないからです。

  私たちはすぐにでも崩れ去る弱い肉の存在であり、限られた場所で限られた

時間内で生きているわけですから、その限られた将棋の駒で、神様が私たちに

して欲しいと願っていらっしゃる神様のお仕事をしなければならない存在だか

らです。

  それですから、キリストの教会の信仰の中で生まれ育てられた私たちは、私

たちの過去を放棄することはできないし、してはいけないと申し上げたいので

す。

  過去は過ぎ去ってしまったものですし、その過去の一部分は良いものであっ

たのですから、そういう過去の多くの部分が今日の私たちを形成して来たので

す。

  また、私が指摘したいことは、過去を抹殺しようとしたり、捨て去ろうと試

みる人がいるとすれば、そういうことをしようとすること自体、その人が伝統

の子供だということを証明しているのだと知ってもらいたい点です。

  なぜならば、そのことは、復帰運動が、伝統をいかに扱おうとしているのか

の傾向を示すものなのです。私たちは、あたかも魔術師が何かを、どうやって

不思議なことをするのかとか、彼が何をやったとかなどは関係がないと切り捨

ててしまうのと同じような傾向があるということです。

  しかし問題は、私たちは過去というものから逃れられないということです。

私たちは過去を切り捨てようと試みることはできますが、私たちはそれでも

過去を充分に会得していないという形で過去を担っている訳でして、過去から

は逃れられないのです。

  アレキザンダー・キャンベルが長老教会の伝来の遺産をみんな放棄してしま

おうと決めた時にも、キャンベルの中には長老教会の良い伝統がちゃんと残っ

ていました。

  或るひとり人が、一生涯かかってその人の或る特定の伝来の遺産を捨てよう

としてみても、彼が放棄しようとしているそのもの自体が、その人が放棄しよ

うと試みている伝統的遺産によってはぐくまれていることに気付かなければな

らないのです。

  過去から与えられて来たものを私たちが受け取るということは人間であると

いうことの一部である、それは私たち創られた者たちの限界だと、私は思って

います。

  それで、私は皆さんに告白いたしますが、こん日に到るまでの歴史的過程に

おいて多くの過ちや失敗があったことを認めながらも、私はキリストの諸教会

と、キリストの諸教会から霊的な世襲遺産として遺譲されて来たものに対して

神様に感謝しているのです。

  私たちの過去の失敗や過ちを率直に認めても、私たちは絶望したり、自暴

自棄になってはなりません。むしろ私たちは協力し合って私たちが神様に属す

る人々であるとの理念を継続し、私たち自身を御言葉と調和する者としてゆく

努力をますます続けてゆくべきなのです。

  それですから、私が申し上げたいことは、人間的伝統として私たちの遺産を

受け容れるということは、その一部としては、私たちがその遺産を大切にする

が故に、それを精密に吟味するという作業に従事することを認めることです。

  そして、私たちの運動の理念を保存することを助け、私たちが誤りと考える

点を矯正してゆかなければならないということです。

  この、過去と取り組むという作業を、ヒューズ博士と私は、私たちの本で、

すなわち、「Discovering Our Roots」 で試みようとしたのです。

  私たしたちのこの運動の理念・理想を強めるために、このような、過去と

取り組むという努力が、いろんな過去のことを明らかにし、それによって運動

を次の新しい世代に継続させてゆくことができると信じています。