《何となく天の御国を偲ぶ  その3》

                  =パラダイス・タルタロス・イェス昇天=

 

  最近になって、50余年前に最初の留学先であったケンタッキーの大学での聖書の

授業を思い出すことがあります。  敗戦からほどない頃の貧しい日本の赤貧留学生で

した。  人生経験も乏しく、聖書知識は皆無、それに英語理解力も皆無…今から思う

と無謀すぎたようです。  その時には無我夢中でしたけれども…  1駒の授業で理解

できた単語は僅かだったと記憶しています。  今でも当時のノートが残っています。

 

  そのような状態の中で或る教授が、『イェスが捕虜を地の底から連れ出した…』と

熱心に語っていました。  聖書の知識は文字どおり皆無で、英語の理解力も殆ど無い

私にとって、『おかしなことを言う先生だな』程度の理解でした。  狐につままれる

という表現がありますが、そのような状態であったかと思います。

 

  今回はその当時の恩師が熱心に説こうとされていたことの大意を思い出しながら

書いてみましょう。  (各種の辞典・事典から摘出した8頁の添付資料を参照乞う)

 

  今までに、コリント後書12章2節~4節、ルカ伝2343節、黙示録2章7節など

から「パラダイス」が「天」、「神の居ます所」と同じ意味で用いられていることを

学びました。  黙示録2章7節の描写は創世記2章15節~17節のエデンの園の描写を

彷彿させ、両箇所が共に「神がいらっしゃる天」を指していると理解できます。

 

  今回はイェス時代のユダヤ人の「天」理解、または「パラダイス」を考えてみま

す。  そしてその典型的なものとしてルカ伝161931節を考えてみましょう。

 

  紫の衣や細布を着た金持ちが贅沢三昧の生活を送っていたと記されています。

今でも僧衣などに紫がありますが、ましてその当時、紫の染料は得がたい高価なもの

であったことを伺い知れます。  細い布が何を具体的に意味したのかわかりませんが

シルク道路を経てはるばる中国からもたらされた絹糸であったのかもしれません。

豪奢で裕福な生活を満喫することができた人物であったことは間違いなしです。

 

  一説によるとこの男はニウェースという名のニネベ人であったと言われています。

モーセ五書だけを正典と信じ復活や天使を否認するサドカイ派の一人で、裕福階級に

属していた強欲な現実主義者、現世肯定主義の男であったらしいということです。

 

  その一方で、同じユダヤ人でありながら、極貧生活を強いられていたラザロという

男が描かれています。  日本で言えば「太郎さん」とか「一郎さん」のような平凡で

普通のユダヤ人特有の名前です。  名の意味は「神は助け給う」という意味です。

 

  皮膚病に苛まれ、人々から拒絶され、金持ちの残飯でその日その日の飢えを何とか

しのいでいたようです。  それでも敬虔なユダヤ人であったらしく、死んだ時に天使

に連れられてアブラハムの懐に送られたと聖書は語っています。

 

  金持ちは典型的なユダヤ教徒で、律法を守れば現世で豪勢な物資的生活を享楽する

ことができると教えるユダヤ教の教えに基づいた利己的生活をしていたようですが、

この男も死にました。  そして、23節によれば、ハデ(hades)に送られました。

  このハデまたはハデスを「黄泉」と聖書協会の聖書は訳しています。

これは中国の思想、すなわち「黄」は土を表し、土は死や死後の世界を表すものとさ

れています。  日本語に「ハデ」・「hade」に相当する言葉がないからです。

  いのちのことば社訳は「ハデス」です。  これの方が原文 hede に忠実です。

ちなみに英語では「ヘイディーズ」と発音しているかと思います。

 

  なお、この金持ちをユダヤ教、ラザロをキリスト教だとする説や、その他の解釈

がいくつもありますが、ここではこれ以上の紹介を避けて、本来の目的に戻ります。

 

  前回も述べましたように、聖書が開かれた書である限り、いろいろな解釈ができま

す。  しかし今回も聖書に書かれていることをそのまま文字どおり読んでみます。

 

  22節以降を読んでみますと何となく当時のユダヤ人が理解していた「パラダイス」

という概念を知ることができるように思えます。

 

  ルカ伝2343節やコリント後書12章2節~4節で十字架の上のイェスが隣の十字架

の上の強盗に『汝、今日我と共にパラダイスに在るべし』と言われたパラダイスや、

使徒パウロが体験した「第三の天」や、前述の黙示録2章7節が語るパラダイスより

もう「少し広い世界」を示唆しているのがこのルカ伝16章のラザロと金持ちが死後に

向かったパラダイスのように思えます。

 

  大きな同じ「空間」の中に、上の方にはラザロを天使の媒介で招いたアブラハムが

おり、下の方には炎の中で苦しむ金持ちの姿を描写しています。

  そして26節には、両者を隔てる大きな chasma カスマ、深い割れめ・断層・窪み・

亀裂・峡谷・間隙・深い窪地、あるいは wadi ワジが存在するため、お互いを認識し

合い、お互いに声を聞き合えても、両者の往来をさまたげていたと読めます。

 

  なお、日本語訳は、聖書協会訳もいのちのことば社訳も「淵」と訳しています。

「淵」とは川や沼や湖などの水が淀んで深い所や状態を指す単語です。

  しかしパレスティナ地方を含むアラビア・シリア・北アフリカ地方では、そのよう

な深い水が溜っている状態からはほど遠い乾燥しきった風土や地形ですから、「淵」

すなわち「大量の水を含む」という意味の単語を26節で使うことは決して正しいもの

ではないと、聖書翻訳学者でもない私の僣越な見解で恐縮ですが、考えています。

 

  ルカ伝1619節以下を読みますと、「同じパラダイスの中に」は当時のユダヤ人

たちが信じていた「火炎の燃える場所も同時に存在していた」=タルタロスの存在を

ユダヤ人たちは信じていたということでしょう。

  そうでなければ、イェスはこのことを語らなかったでしょうし、それを聞いていた

ユダヤ人や弟子たちも、この物語を理解できなかったものと思われるのです。

 

  タルタロス(ギリシャ語 tartaro・英語 Tartarus )というギリシャ神話の地獄=

ハデスのさらに下のほうにあると考えられていた奈落(この言葉自体は「ドン底」を

表す梵語 naraka から来たもの)が、イェス時代のユダヤ人の間において何ら抵抗も

なく受け入れられていたものと容易に推測できます。

 

  以上のことから、これも「余言者」の「余言」ですが、ルカ伝16章後半の炎の中で

金持ちがしごかれているということも、ローマ・カトリック教会の説く「煉獄説」=

パーガトリー purgatorium purgatoryを支持する聖書箇所なのかも知れません。

 

  なお、このパーガトリーからパージとかピュアーという英語が派生しています。

敗戦直後の占領時代にはレッド・パージという言葉がはやりました。  共産主義者の

公職追放、公職から一掃するという意味でしたし、英語の pure ピュアーは炎で浄化

されて清くなったという意味です。  語源的には同じです。  「余言」でした…

 

  マタイ伝1232節の『聖霊に対して言い逆らう者はこの世でも来る世でも赦される

ことはない』という箇所や、コリント前書3章11節~15節『かの日には火の中に現れ

てそれを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを試すで

あろう』という聖句などを用いてローマ教会は煉獄説を主張しているようです。

 

  16世紀のトレント会議で死者が天国に入る前に最後の清めがある、煉獄での浄化が

あるとした決定が未だに有効ですから、この決定を覆さない限り、練獄説がローマ・

カトリック教会からなくなることはまず不可能でしょう。

 

  しかし、私は、私たちの救いは、神からの「一方的な恩寵によってのみ」十字架の

上で示し与えられたものであり、そのことを私たちは「信仰によってのみ」受け入れ

たのであって、「それ以外にいかなる業をも必要としていない」…とする信仰であり

ますから、煉獄説は聖書の基本的な教えに添わないものとして拒否しています。

 

  ここでもう一度整理してみますと、イェスは、当時のユダヤ人たちが当然のこと

として受け容れていた「パラダイス」理解の中には、同時に死者が「炎の中で苦しめ

られる所」も存在しているということを語られており、それを聴いていた人々もその

ことを充分に理解していたということです。

  すなわち、「タルタロス」も「パラダイス」の一部であるとする理解が、その当時

のユダヤ人たちの間には広く受け入れられていたということです。

 

  それですから、使徒行伝2章27節でダビデのイェスに関する豫言で、次のように

聖書は告げています。  すなわち『私の魂をハデス(黄泉)に捨て置くことをせず、

あなたの聖者(=イェス)が(そこで)朽ち果てるのをお許しにならない…』です。

 

  墓の傍で復活したイェスは、墓参りに来ていたマリヤに向かって、『私は、私の

父、またあなたの父であって、私の神、また、あなたがたの神でいらっしゃるお方の

御許へ上って行く…と弟子たちに伝えなさい』と伝言を委託されています。

 

  使徒行伝1章11節は天使が弟子たちに対して『ガリラヤの人々よ、なぜ天を仰いで

(途方にくれたような顔をして)立っているのですか?  あなたがたが見たように、

イェスはあなたがたを離れて天に上って行かれたのです…。  それと同じありさまで

またおいでになるでしょう』と語ってイェスの昇天と再臨を告げています。

 

  そして、エペソ書4章8節でパウロは次のように確信を持って語っています。

『彼は高い所に上った時、虜トリコ を捕えて引き行き、人々に賜物を別け与えた。

さて、上ったという以上、また地下の低い底にも降りて来られたわけではないか。

  降りて来られた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の

上にまで上られた方なのである…』

 

  イェスが「タルタロス」を含む「パラダイス」に居た死者の魂を、とりわけ火炎の

燃えるタルタロスの中で苦しんで居た死者たち=虜たちを連れて天に上られた以上、

そして新約聖書教会時代が始まった以上、ルカ伝16章が語るタルタロスはもはや存在

しないと理解するのが恩寵を受けた者としては相応しいものであると信じます。

 

  この世での厳しい人生をようやく終えた魂が、タルタロスの火炎の中で苦しめられ

てから天の国にようやく入れて頂けるなどという理解は、聖書の教えにそぐわないも

のであると私は確信しているのです。

 

  主の御召しを受けてこの世の生活を「卒業した」魂は、そのまま天国に直行するの

です。  天国へのお引っ越し、本籍地への帰郷をするのに何も遠回りをする必要など

ないのです。  イェスが「からっぽにされた」タルタロスに、もはや存在しない煉獄

にわざわざ行く必要は最早ないのです。

 

  主の恩寵が、それは十字架と復活と昇天で明白に示されたのですが、煉獄を撤廃・

廃止して下さった以上、私たちの魂は天国に直行できるのです。  こんなすばらしい

感謝なことはありません。  この世を去るということは、すばらしいことであって、

決して怖れたり不安になったりする必要などいっさいないのです。

 

  50余年前にケンタッキーの教室でマレン教授が熱心に語っておられたエペソ書1章

8節~10節を、お恥ずかしい次第ですが、半世紀もたってから私は理解し始め、感謝

できるようになったのです。

 

  讚美歌 486番「ものは変わり、世は移れど、動かぬは御国」という詩があります。

その3節に『世に勝ちにし戦士イクサビト に授くるはこれと、玉の冠カムリ 掲げ持ちて、

イェス君は待ち給う…』と繰り返して書かれてあります。

 

  主に召されるということ、すばらしい栄光に満ち溢れた本籍地にお引っ越しすると

いうこと、帰宅するということ、そしてそこにイェスが私たちの戻って来るのを忍耐

強く待っておられるということ…素敵な約束と確信ではありませんか?

 

  ルカ伝1520節には、放蕩息子が父の許に戻って来るのを町はずれで辛抱強く待っ

ている父親の姿が描かれています。  それと同じように、玉の冠を両手に、私たちが

戻って来るのを父なる神は待っておられるのです。  感謝して、安心して主なる神が

お決めになる時間と方法に従って、その恩寵を確信して、御召しの日を楽しみに待つ

ことにいたしましょう。

 

  その時が来る瞬間までは、この地に在りながら「天に宝を積む者」としての奉仕の

業に誠実でありたいと願うのです。  如何なものでしょうか?