=それとなく天の御国を偲ぶ  その2=

 

   先日も再び申しましたように、聖書が「開かれた書」である限り、いろいろな人

がいろいろな背景と理由からいろいろと読みますので、いろいろな解釈や結論が出て

来ることは避けられないことだと思います。

  そのことにおいて、それがどんなに真面目なものであっても、これこそ絶対的聖書

解釈だとか、これこそが絶対的聖書釈義だなどというものは、お互いにあり得ないと

私は思っています。  人が理性的に考えて常識的な結論だと思っています。

 

   また「聖書は神の言葉」「のみ」として読む立場もありますし、読む者によって

「読む時に」神の言葉と「なる」という説もあります。  「優れた文学書である」と

する立場もあります。

  Bible as the Book.という立場もありますし、Bible as a book.とする立場もあり

ます。  信仰の書ではあるが、同時に亦、優れた人文科学書だとする説のことです。

 

   またそのことが天国のことになりますと、さらにいろいろな意見が出ます。

私が関係している教派に於いて、とりわけ黙示録釈義の分野に於いてのことですが、

1915年前後から教群を二分し憎しみ合うような不幸な状態が生じた事実があります。

  私自身も不幸にして留学中にそのことで狂気じみた魔女狩旋風の中に巻き込まれて

辛い思いをしたことがあります。  人は愚かなことに時間とエネルギーを浪費したい

ようです。  聖書が語っていることについて、あるいは語っていないことについて、

自分の解釈があたかも神さまの御旨であるかのごとく錯覚して強く主張し過ぎること

から悲劇が始まるように私は自分の留学中に巻き込まれた苦い経験から学びました。

 

  イェスが父なる神に語られた時、すなわち祈りをされていた時、何語で喋られた

のだろうかとか、天国語だったのだろうかとか、アラム語だったのだろうかなどと、

聖書が語っていないことを人が詮議するのは僣越なことになると思います。

 

   イェスが弟子たちに、どうして天国のことをほとんど語られなかったのだろうか

とか、イェスは天国のことを忘れてしまっていたのだろうか…などと憶測することも

僣越なことになるのではないかと、先日も申しておきました。  人間には知らなくて

よいことがたくさんあるのだと思います。  そうでないと、天に行ってからの楽しみ

が少なくなってしまうと思うのです。

 

   同じようなことが黙示録を読むときにも当てはまると思います。

 

  過去の歴史、特にローマ帝国が当時の基督者に対して行っていた厳しい迫害に耐え

ていた基督者に黙示文学的表現を用いて激励していたのだとする説がありました。

  あるいはローマ帝国による当時の基督者への恐ろしい迫害史を描いたものだから、

すでに黙示録は過去にのみ属するものだという説もあります。

 

  その一方で、勧善懲悪を語る普遍的な倫理を黙示的表現で語る文学だから、いつの

時代にも適用できる文学だという説もあります。

 

  いやそうではなくて、確かに前半部、とりわけ1章から2、3章までは過去と現在

の歴史に当てはめることができるだろうけれども、4章からは今後のこと、すなわち

未来を豫言しているのだ…という説もあります。

 

  黙示録20章からはキリスト再臨に関する黙示文学だから、イェス・キリストの再臨

と千年王国を語っているのだ…とする説も根強くあります。

  同じ千年王国説でも、千年王国の前にキリストが再臨して来るという説もあれば、

千年王国の後でキリストの再臨があるとする説もあります。

  また、同じ前千年王国説であっても、単純な史的前千年王国説というのもある一方で

ディスペンセーショナル前千年王国説というのもあります。

  さらに、千年王国というのはいっさい無いのだとする無千年王国説もあります。

 

  これらは、聖書をどう理解するか、どう読むのか、文字通り読むのか、象徴的なも

のとして読むのか、霊的教訓として読むのか、道徳倫理的教材として読むのか…など

いろいろな意見に別れているから見解の相違が出て来るのです。  そしてそれぞれが

お互いにその主張を譲らない時に混乱や、時には戦争まで起っていたのです。

 

  他人様がどう言うというのではなく、いわゆる偉い先生さまがどうおっしゃるかと

いうのでもなく、はたまた有名な聖書解説書がどう釈義しているのかということでも

なく、聖書が開かれた信仰の書である以上、祈りながら自分で聖書をどう読むのかと

いうことが何よりも先ず大切だと思います。  そういう自己訓練をしたいものです。

 

   さて、黙示録はヨハネが書いたものであると第1章1節に記されています。

9節にはパトモス島にヨハネが滞在していた時に書いてあります。  おおよそ90

91年ころに書かれたものと言うのが一般的な定説になっているようです。

 

  これらを念頭に6章9節~10節や7章9節~10節を読んでみますと、そしてこの

場合には信仰の書として聖書を読むという立場から素直に文字通り読んでみますと、

ヨハネはパトモス島に滞在中に、すなわち、この地上に居ながら、神からの一方的な

ご配慮により、天の国、神の国のことを目撃した時のことを書いているのです。

 

  神を信じ、その恩寵の故に罪を赦された者には、この二ヶ所を読んでみるかぎり、

神がいます天国とこの地上の私たちとの間の距離が全く隔たったものではあり得ない

と教えられます。  パラダイスというものがごく近いものであると教えられます。

  ルカ伝2343節に記録されていますように、すなわちイェスが盗賊の一人に十字架

の上で『汝、今日我と共にパラダイスに在るべし』と仰ったように、黙示録の記者も

パトモスに在りながら天の国を垣間見ていることがわかります。

 

   『私が見ていると、すべての国民クニタミ、すべての部族、すべての人種、すべての

言葉、だれも数えることなどできないほど大勢の人々が、白くて長いガウンをからだ

にまとって仔羊の前に立ち、彼らの手に棕櫚を持って大きな声を挙げて言っていた。

御座に坐って居られる我々の神と仔羊に救いは来る(=帰属する)』と叫んでいた。

 

   ヨハネが語っていることは、すなわち召されて帰天した人々が主を讚美している

のを地上から見た…ということです。

 

  これはコリント後書5章8節で使徒パウロが『肉体から離れて主と共に住むことが

願わしい    肉体を宿しているにしても、肉体から(=この地上から)離れている

にしても、ただ主に喜ばれる者となるのが心からの願いである』と言っていることを

裏づけているように思えます。

 

  さらにパウロはピリピ書1章23節で『この世を去ってキリストと共に居ること』が

願いであり、『実はその方がよっぽど望ましいことなのだ』と語っています。

 

  これらの聖句には、ローマ・カトリック教会が教える「死者は煉獄で火炎によって

しごかれ、罪を浄化されない限り天国に入れない」との主張を裏づけるものではない

と学びます。  信仰義認や恩寵による救いという信仰の視点から練獄は頂けません。

 

  使徒行伝7章59節には、おそらく新約聖書教会の最初の殉教者だと考えられている

ステパノの最後を記録しています。  『主イェスよ、私の霊をお受け下さい』と叫び

『この罪を私を迫害する者に負わせないようにして下さい』と祈って殉教しました。

ここにも煉獄を思わせるようなものは一切ありません。  書かれていません。

 

  すでに述べましたルカ伝2343節の十字架上のイェスの強盗の一人への最後の会話

でも『汝、今日これから練獄に行くべし』とか『汝、練獄で我を待つべし』と述べて

はおられないばかりか、その反対に、『汝、今日我と共にパラダイスに在るべし』と

力強く述べておられます。

 

   これらのことから、私たちが御召しを蒙った時、それがどのような方法や理由で

あれ、交通事故であれ、病死であれ、私たちの魂はただちに主の御前に侍ハベることに

なるというのが聖書の教えであると、私たちはしっかりと受け止めておく必要がある

と思います。  すべてが一方的な恩寵の中に在ることを覚え、感謝を捧げることだけ

が私たちにできることでしょう。

  「恩寵によってのみ救われる」、また「信仰によってのみ救われる」という聖書の

教えを改めて確かなものとして捉えておきたいと願います。  そのことを主の食卓で

再確認したいと願います。  主は近いということを覚えておきましょう。

 

    やや脱線のお負けでついでですが、イザヤ書6章1節は次のように言います。

『ウジヤ王が死んだ年、私は主が高く挙げられた御座ミクラ に座し、その衣の裾が神殿

に満ちているのを見た』と神の御座の栄光を語っています。

 

  愛する者を先に天に送ったあと遺された私たちは寂しい気持ちに陥りがちですが、

居なくなった愛する者の跡に主が座しておられるのを私たちは感じることができるの

でしょうか?  天国にお引っ越しした愛する者の居た場所に、今度は主がおられると

考えたことがあるのでしょうか?  愛し慕う人の去った場所に今は愛する主イェスが

鎮座ましますというように考えるように努めたことがあるのでしょうか?

 先に天国に旅立った愛する者がかつて居た場所に、私たちは主の御旨を見出すこと

が信仰によってできるのでしょうか? そこに人知では測り知ることができない主の

恩寵を見つけることができるのでしょうか? 主の備えを覚えることができますか?

 

  愛する者を天国に送ったあと、このことも天国を想う時に、地の上で私たちが真剣

に考え求めなければならない信仰の実際面のひとつではないのでしょうか?

それともいつものように「余言者」爺の「余言」なのでしょうか?