《以下の文章は12月8日を意識して先週木曜朝に書いておいたものです》

 

  昨朝と今朝はいよいよ本格的な冬将軍の来訪を予告する零下の気温で一日が始ま

りました。  今朝ふと「いよいよ冬の到来だな」と思っている内に、今から63年前の

1941年(昭和16年)12月8日朝、突然に勇ましい軍艦マーチがラジオから流れだし、

そのあとの臨時ニュースで、『我が大日本帝国陸海軍は南太平洋上において米英軍と

戦闘状態に入れり』と知らされ、軍艦マーチが流されたのを思い出しました。

 

  当時は既に経済統制下にあり、衣食を含む生活必需品が不足し始めていました。

それでもしばらくの間は、冷たい朝5時頃からパン屋の前に列を作って並んでいれば

「ジャリ・パン」を入手できたことを思いだしました。  零下の京西陣、私が10歳の

時でした。  今朝の外気温を調べている内にどういう訳か当日を思い出したのです。

(ジャリ・パンとは配給品であった小麦粉に何か不純物を混入してパンの重みを増す

ことを試みた業者たちの傑作品だったと思います。  ジャリジャリしていたのです)

 

  こん日の飽食時代に人々が再び長い列を作っているのをテレビでよく見ます。

食べ物が不足しているということではなく、北朝鮮やイラクやアフリカの飢えた人々

ではなくて、贅沢三昧の限りを尽くした食品を日本の都会の美食家たちが貪欲な目を

ギラギラさせて押し寄せて買い漁っている凄じい姿です。

自分で工夫して調理するなど到底できなくなってしまった哀れな烏合の衆です。

 

  さて、貪欲に人々が列を作って並んでいることから思うことがあるのですが…

  それは、コリント前書1117節以下を熟読してみますと、エクレシア、教会という

ものは、主イェスの贖いを己のものとして感謝して受け入れた者たちが一緒になって

お互いに工夫して、痛みを分かち合って、皆で祈り合って築き上げるものであること

を完全に忘れた人々の、凄じい姿、恐ろしい貪欲な姿を、いやというほど赤裸々に、

率直に、客観的に紹介しているということです。

 

  21節~22節には、エクレシアというものがお互いに助け合い、思い遣りを共有し、

富める者もそうでない者も一緒になって、同じ主の恩寵を「共有する状態」であると

いうことを全く理解していなかった人々が、「自分たちの気が向くままに勝手に飲み

食いする場所と時間」と誤解して、乱痴気騒ぎをしている姿を告発しています。

 

  エクレシアを社交の場としてしまった人々の恐るべき姿を正直に語っています。

苦労している仲間がいるのに、飢えている仲間がいるのに、辛い人生を独りで担って

ひそかに泣いている友人がいるというのに、教会とはイェス共同体であるということ

を忘れて、自分たちだけで楽しい気分を味わい、食べたい品々を自分たちだけで鱈腹

食べ、呑みたくても呑めない仲間たちが大勢いることを忘れて、自分たちだけお先に

おいしい葡萄酒を呑んで酔っ払っている人がいた…と、そのようにコリントの教会の

本当の姿を紹介しています。  他人事ではない耳の痛い赤裸々な糾弾文です。

 

  そこには自分たちみんなが、お互いに力を合わせて、祈りを合わせて、主イェス

の教会、エクレシアを作って行こうという理解も意欲もないのです。  飢えた仲間が

いようとそのようなことはどうでもいいことなのです。  自分だけ列に早く並んで、

他人を押しのけて、美味しいものを手に入れて、飲み食いすればそれで良いのです。

  エクレシアとはイェスに信望愛を抱く者たちが一緒になって築き上げて行く状態で

あるという理解、イェス共同体に参加するという意識が完全に欠落しているのです。

 

  教会とは自分のその時の気分やその時の都合で「出たり入ったり」しても一向に

構わない、「美味しそうな食品を提供するあちこちの店の前で、自分は何ひとつ手を

汚さないで、ただお客として列に並んでいれば良いだけの社交場だ」という理解しか

ないようです。  まことに哀れで無責任な心の状態、困ったことです。

 

  使徒パウロは集会の中心である、神さま御自身が招いて下さっている主の食卓の

重要さを改めて23節以降で教えます。  私たちの気分や都合で「どうにでもできる」

種のものでは到底あり得ないと厳粛に告げます。

 

  主の死を主の来たり給う時に到るまで告げ知らせる(26節)というエクレシアに

とって最も大切な教えを私たちの気分や都合で軽く扱うということは、「主のからだ

を弁えないこと」であり、「主のからだと血を犯すこと」であり、「主の裁きを招く

こと」であると29節で警告しています。  再臨が近くなっているというのにです…